第三十四話「赤き翼」-1
死とは不可逆なものだ。
心臓が鼓動を止めれば、肺が呼吸を止めれば、脳が思考を止めれば、人間は二度と立ち上がることも叶わなくなる。
魔術によって人々は理を捻じ曲げ、理屈の及ばない呪いが蔓延るこの世界において、それはある種、絶対の法として、存在しなければならないものだ。
常識が常識として通用しなくなれば、僕たちは生きていけないだろう。死があるからこそ生が定義され、逆説的に生きるものは全て、死にゆく定めにある。
――もっとも、僕たち死霊術師を除いて、の話だが。
「――なんで、お前、まだ……!」
僕は、背を掴む手のひらの主に、驚愕と共に問いかける。
リトラ・カンバール。
先ほど、僕がこの手で殺した命だ。
それを裏付けるようにして、彼の胴には縦一線、貫かれた大きな傷が走っている。致命傷としては十二分どころか、心臓も肺も、重要な臓腑は粗方、肉厚の刃によって裂かれているはずだ。
しかし、彼はそこに立っている。
厳然たる事実として、彼は僕と向かい合っている。
「――【骸使い】」リトラが、血に塗れた唇を震わせる。
「エミリーの奴は、優秀な死霊術師だったよ。まさか、こんなロスタイムをくれるとはな」
「……まさか、お前、それはエミリーと同じ、自分を……?」
「ああ、彼女考案の術式でね。備えは元々していたが、十全に発動するかどうかまでは五分だった。結果は――見ての通りだ」
大量の血を失い、蒼白になった肌は、生者からかけ離れている。どうやら、言葉に嘘はないようだった。
エミリー・トゥームが用いていた、自身をリッチに変え、無理やり動かす死霊術――彼女は麻痺した体を動かすために使っていたが、当然、自分が死した後に活動するためにも使えるというわけか。
どうあれ、この状況は非常にマズい。リタは戦闘不能、僕は魔弾の射手を失い、大剣使いも、少なくないダメージを負っている。
骸の王が霧散したことで浮遊霊たちが解き放たれたため、霊符は使えるだろうが、死霊術の土俵で真っ向から勝負したら、僕はこいつに敵わないだろう。
とはいえ、無抵抗で殺られるわけにもいかない。僕は杖を振るい、大剣使いを構えさせて――。
「――待ってくれ坊ちゃん。もう、降参だ」
そこで、突きつけられた手のひらに、思わず動きを止めてしまった。
「……あ?」
思わず、頓狂な声が出る。
「わからないか? 降参、だ。私の息の根は止まり、こうしてリッチとして動ける時間も、そう長くはないだろう。だから、もう君を殺して術を奪い取ってどうこう……なんて考えはない」
「……随分冷静なんだな、あんた、今、僕に殺されたんだぜ」
僕は今度こそ、緊張の糸を緩めない。
こうして話をすることで油断を誘うのは、こいつの常套手段だ。先ほども、それで煮え湯を飲ませられている。
「……ああ、そうだな。だが、私はずっと生きた心地などしていなかったんだよ。妻が死んでから、スペクター家を焼いて、君に刃を向けてる間も、ずっとね」
「その割にゃ、随分楽しそうだったけどな。力を得て、浮かれていたようにも見えたぜ」
「そうしなければ、耐えられなかった。自らの非道に、道を選ばないことを選んだ自分に」
皮肉なことだ。リッチとして、死体に憑く霊魂に過ぎない、そんな存在になってからようやく、彼は憑き物が落ちたように、穏やかな調子で話せるようになった。
それはどこか、スペクター家で研鑽を積んでいた頃の彼を、そして、【昏い街】で神父として暮らしていた頃の彼を思い出させた。
「畢竟、私は生きながらにして死んでいたのだ。妻のいない世界など、私にとっては枯れた川に等しいものだった」
その言葉に、嘘はないように思えた。
恐らく、彼の妻に関する想いは本物なのだろう。
しかし、その周りをあまりにも多くの嘘で固めてしまった。もう、真実が何なのか、わからなくなるほどに。
本当の気持ちがどれなのか、わからなくなるほどに。
「……それで? まさかお前、それを言うためだけにリッチになったわけじゃないだろ。何か、やることがあるんじゃないのか?」
突きつけた杖を強く握る。大剣使いは、いつでも彼の首を刎ね飛ばせる位置にいた。そして、妙な動きを見せれば、すぐに実行するだけの覚悟もあった。
だが――リトラが取った行動は、そんな僕の予想を裏切る、斜め上のものだった。
「……坊ちゃん、いや、ジェイ・スペクター。お願いだ、最後に妻と話をさせてくれないか」
彼はそう口にして――頭を下げたのだ。
衒うでもなく、騙し討つでもなく、ただただ平伏して。その様に、思わず僕は面食らってしまう。