第三話「役に立つとは思ってないから」-3
人生で、空を飛ぶことができる経験というのは何度あるだろうか。
もちろん、運輸用の飛行船や、測量のための気球に乗るのが生業であれば毎日のようにあるのだろうが、大抵の人間は鳥が自由にはばたくのを見て、空に憧れるばかり。実際に飛んだことのある者など限られているだろう。
僕らは人間で。
地に足をつけて生きる存在なのだから。
しかし、それを残念に思う必要はない。
――空を飛ぶってのは、そんなに気持ちのいいものではないからだ。
「今日はこのまま、西の外れまで飛ぶけど、大丈夫?」
頭上から降ってくる声に、僕は「へーい」と気の抜けた返事をした。
ふわり。涼やかな空の風が、僕の頬を静かに撫でる。肺いっぱいに吸い込む空気には混じりっ気がなく、どこまでも体の中に満ちていくようだ。
しかしその清々しさは、脇から胸へかけての圧迫感と、宙ぶらりんの浮遊感のせいで、むしろマイナスに傾いていた。
【夕暮れの街】、上空。
初めて出会った時と同じ、白い翼を背中から生やしたリタに抱えられるような形で、僕は空を飛んでいた。
空から見下ろす街にはそれなりの風情があるのだろうが、真下に視線を向ける勇気は、僕にはなかった。
「なによ、適当な返事ね。折角の空の旅なんだから、もっと楽しめばいいのに」
「ああ、そうだな。ここが一等席なら僕だってそうしたさ」
「あんた、さっき大丈夫って言ったじゃない。まさか、なにか不満でもあるの?」
「『まさか』って付けるあたり、僕の命を握ってる自覚はあるみたいで良かったぜ。僕ぁ感激で泣いちまいそうだよ」
「何言ってるんだか。だいたい、私の胸に抱かれてるんだから、何よりの一等席じゃないの」
その自信はどこから来るのか。
一等席どころか、貨物室よりひどい有様だ。とは、さすがに言わなかった。僕だって命が惜しい。
空の旅、そう言えば聞こえはいいが、恐らく傍から見れば、鷲に捕まったネズミか何かのように見えるのではないだろうか。
加えて、十階建ての商館よりもはるか高く飛んでいる僕の体を支えているのは、少女の細腕が二本。低賃金の鳶職だってもっとマシな命綱を着けているもんだ。
彼女が僅かの手を滑らせれば、それで僕は真っ逆さま。景色を楽しむ余裕なんかない。
恐怖を紛らすために、何か適当な話題を探して――ふと、大きく羽ばたく彼女の翼が目に入った。
「……なあ、そういえばなんだけどさ。やっぱこの翼って、『魔術』で生やしてるのか?」
「そうよ。ていうか、それ以外に何があるのよ」
魔術。
それは世界を支える理の一つ。
この世界には、魔力と呼ばれる力が満ちている。
地面に、木々に、或いは海に。それは大いなる自然の持つ生命力であり、母なる大地の息吹でもある。
それを吸い上げ、杖や札に刻んだ紋様を通したり、呪文によって励起させることで、超常の力として発現させることができる。この技術のことを、僕らは魔術と呼んでいる。
例えば、炎の紋様を刻んだ剣を振るったなら、その斬撃は炎を纏う。雷の紋様を刻んだ槍は雷を帯びるし、風の紋様を刻んだ短剣は暴風を起こす。
と、こういう言い方をすれば物騒なものに聞こえるかもしれないが、実際はそのほとんどを、僕らはわりと日常的に利用している。
料理をする際の火熾しだとか。
列車の動力だとか。
その他にも様々なところで利用され、暮らしを支えている。というか、ほとんど暮らしの一部であり、生活にとって、なくてはならないものだ。
もちろん、誰でも自在に使いこなせるというわけではないのだが、この純白の翼を見る限り、リタの腕は相当なものなのだろう。
「……どうでもいいでしょ、そんなこと」
「どうでもいいってことはないさ。翼を生やして自在に飛び回れる魔術なんて、初めて見たんだ。これって、かなり難しいヤツなんじゃないのか?」
簡単な魔術であれば術式の詠唱によってマナを励起させるだけでいいが、高度な魔術を使用する際にはどうしても紋様が必要になる。
たぶん彼女の場合は、この真っ赤なローブの内側辺りにでも紋様が刻んであるのではないだろうか。だから仕事の時にはいつもローブを着込んでいるのだなと、僕は勝手に納得した。