第三十一話「愛奴」-5
「っ、じぇ、ジェイ・スペクタァァッ……!」
苦しげに、【愛奴】が呻く。表皮は定まった形を失い、恐らくは、魔術を行使するために取り入れていたのであろう、魔力が身体のあちこちから漏れ出ており、歪な膨らみを作っていた。
身体に直接、術式を刻み込む。なるほど、こんなデメリットがあるのかと、ある意味呑気に、僕はそれを眺めていた。
しかし、事態はまだ、落着していないようだった。
「ぎっ、ぎ、ギギギギギギギギギィ!」
エリゴールの口から、どこか昆虫めいた、おおよそ人間の声とは思えない音が漏れる。
彼の融解した体は、ドクドクと脈打ち、解けた筋繊維は再び束となり、やがて巨大な、異形の腕を形作った。
その先に、まるで断頭台の刃のように形成された、巨大な一振りの爪が、僕に狙いを定めたまま、高く振り上げられている。
「……っ、まだ、こんなことができるってのかよ……!」
先ほども言ったが、もう、僕は全ての手札を吐き出してしまった。
リッチたちは操れなくなり、ダグラスの杖で生霊術式を使うわけにもいかない。エイヴァの毒瓶はまだあと一つ、懐に残っているが、最早これは、そういった搦め手でどうにかできる次元のものではない。
結局のところ、純粋な力――どれだけ策を弄しても、結局はそこにぶち当たる、ということだろうか。
「し、ね――!」
ゴボゴボと、小さな穴に水を流すような不快な音とともに、怪物の腕が振り下ろされる。
目を閉じ、迫り来る死に備える。
最早、避ける体力もない。それすらも、僕は賭けのテーブルに置いてしまったのだから――。
「――カッコつけてるんじゃないわよ、馬鹿」
不意に、耳元でそんな声が聞こえた。
凛としつつも、幼さを残すソプラノ。それは、ここ最近でよく聴いた、心の底から勇気づけられるような響き。
薄く目を開けば、燃えるような赤色が見えた。そして、その背から伸びる純白の翼が、僕を守るようにして広がっている。
「まだ、私とあんたの契約は続いてるの。勝手に死のうとしたら――消し炭にするわよ!」
その言葉と共に、翼に金属の皮膜が広がっていく。
不条理を打ち砕く、僕にとって、そして、彼女にとっても象徴たり得る、正しく必殺の一撃だ。
赤い風が逆巻く。鋼鉄の翼はそれに従うように渦を巻き、螺旋の勢いを殺さぬまま、迫り来る腕にぶつかっていく。
「――『鉄の、翼』ッ!」
赤黒い肉塊と化した腕を、鈍色の輝きが切り裂いていく。
それはあまりにも劇的で、出来過ぎていて、何よりも、綺麗な光景だった。
崩れ落ちていく、寄せ集めの筋繊維や骨よりも先に、彼女は軽々と着地した。
そして、少しだけ気恥ずかしそうに僕の方を向くと、ボソボソと呟いたのだった。
「……悪かったわね、遅くなって」
僕の信じる最強。
万能屋【赤翼】、リタ・ランプシェード。
何よりも強く、何よりも硬く、何よりも信頼できる赤色が――ようやく、僕の元へ戻ってきたのだった。
「……ホント、遅いって。見てくれよこれ、右腕、バッキバキだっての」
「そ、そんなこと言われても、仕方ないじゃない! これでも、目が覚めてからすぐに、【イットウ】を飛び立ったのよ!」
「にしても、もう少し早く来てくれたら、こんなことにならなかったのになぁ……」
意地悪く、僕は笑う。
胸を満たすのは、安堵だった。まだ、戦いは残っているというのに、宿敵が階下に待ち構えているというのに、何もかも大丈夫だと思えてしまいそうな気持ちが、僕を満たしている。
ふと、ボロボロに朽ち果てていく、【愛奴】の肉片が目に入った。
彼は、常に言っていた。「愛なき刃では、自分は殺せない」と。
ならば、彼を打倒し得た僕の力は、愛ゆえのものだったのだろうか。
その答えは、しばらく出せそうにない。そんな余裕もなければ、気恥ずかしさとの折り合いもつかない。
だから、ひとまず棚上げしておいて――ずっと、彼女に伝えたかった言葉を、伝えることにした。
「……おかえり、リタ」
「……ええ、ただいま、ジェイ」
今は、これでいい。
これが僕らの持ち得る強さなのだと――そう、納得することにしたのだった。