第三十一話「愛奴」-4
だから、僕は次のカードを切る。最後の最後まで取っておいた、取っておきの切り札を。
「……漂うものよ、彷徨うものよ、我が言葉に耳を傾け給え」
呟きながら、僕は空いた左手で、もう一本の杖を引き抜く。
そう、目の前のこいつ、【愛奴】に殺された――ダグラスの杖を。
一瞬だけ、エリゴールの表情が怪訝そうに曇った。しかし、すぐにその口元は、引き攣ることになる。
「――っ、ジェイ・スペクター、貴様っ!」
その声と同時に、豪脚が地面を蹴る。不安定な体勢のまま、彼は僕を制さんと、駆け出してくる。
「灰は灰に、塵は塵に。あらゆるものは還り、巡り、廻るが故に――」
構わず、僕は詠唱を続けた。一言を紡ぐ毎に、自分の奥底にあるものが、チリチリと、周りの肉を焦がしていくのがわかる。
生霊術式、『灰燼帰し』。
文字通り、生きている魂を犠牲に発動するこの術は、燃料として用いた魂を、跡形も無く燃やし尽くしてしまう。
自ら、魂の円環を外れる、あまりにも取り返しのつかないその代償が故に、得られる火力は凄絶の一言に尽きるが――重要なのはそこではない。
使用者の魂を燃やし尽くす。それはつまり、死したあと、僕の霊魂に問うことができないということを表している。
世界最高の死霊術師、シド・スペクターが遺した死者蘇生の法は、僕の魂とともに、文字通り灰燼に帰すのだ。
「――させ、るかっ!」
けれど、僕が詠唱を終えるよりも、僅かに一心拍、それだけの差で、奴の爪が届く方が速い。
結局のところ、僕は志半ば、何もかも中途半端で終わってしまう。自分の命を懸けた策すらも、何の実りもないまま――。
「――なんてな」
僕はそこで、思い切り身を捻った。杖を手にした左手は後ろに、代わりに、エイヴァの毒瓶を握り締めた右手を前に。
自然、心臓――左胸を狙っていた【愛奴】の爪は空を切り、僕の右拳が、相手の胸元あたりに直撃する。
掌の中で、瓶が割れる感覚。それを伝えると同時に、奴の纏っていた速度はそのまま衝撃として、僕の右腕を襲った。
先ほどから悲鳴を上げていた尺骨が、関節が、まるで畳まれるかのようにへし折れていく。
けれど、その痛みも遠いまま、刹那の交差の末、当然の帰結として、僕はその場に倒れ込んだ。
空振った姿勢のまま、エリゴールがゆっくりと振り返る。
「……恐れ入ったな、お前は、自分の魂すら囮にしようとしたというのか」
小瓶の溶液が付着した胴部から立ち上る煙を意にも介さず、彼はそう、冷静に呟いた。
僕の切り札も、ほとんど効果が見られなかった。平然と、彼は倒れ込む僕の下へ歩み寄ってくる。
先ほどとは違い、もう、そこに油断はない。あったとしても、利き手ではない左手では、もう毒瓶の投擲も上手くできないだろう。
「……今度こそ終わり。で、いいんだな?」
【愛奴】が問いかけてくる。
やれることは、全てやりきった。もう、何一つとして残っていない。
「ああ、認めたくはないけどな。僕はこれで、全部出し切ったよ」
僕の持ってきたカードは、全て卓上に並べてしまった。
リトラに家を焼かれた日もそうだ、僕はカード遊びで、惨敗してたっけ。全く、賭け事にはめっぽう弱いのが、僕の悪いところだ――。
「……なら、終わらせてやろう。苦しまず逝け、愛の輩よ――」
――とはいえ、まだ、負けたとは言っていない。
「――っ!」
振り下ろされようとしていたエリゴールの脚が、再び空中で静止する。
否、勢いを失い、地面に着地し、そのままふらつくようにして、彼はその場にへたり込んだ。
「なっ、これ、は……!」
僕は、霞む視界の代わりに、一つの人魂を近付け、彼の様子を伺った。
先ほどまで、僕を圧倒していた、賢馬者の両脚。
それが――歪に脈打っているのが見えた。まるで、それ単体で意思を持っているかのように、ビクビクと、不規則に震え続けている。
その変化は、両足だけではなかった。両手の爪は脆くひび割れ、服の裾からはバラバラと竜の鱗が零れ落ちていく。
まるで、植物が枯れていくかのように――彼の全身が、朽ちていく。
「いっぱいいっぱい、だったんだろ、お前はさ」
言いながら身を起こせば、ようやく砕けた右腕の痛みが、脳に届いたようだった。
思わず吐き気を催してしまいそうな激痛を、興奮で押さえつける。そうして、僕は、再び勝負の盤上へと戻った。
「お前は強い。混魔術式を極限まで使いこなし、その身体も、可能な限り強化しているんだろうよ」
そう、誰が見ても非の打ちようがなく、【愛奴】、エリゴールは強者だった。
限界まで練り上げた、魔術の腕前は、正に卓越していたと言えよう――そう、限界まで練り上げている。
「つまり、お前の身体に取り込める魔物の因子は、かなり上限に近いところまで来てるんじゃないか……って、推測したんだよ。最も、こいつは受け売りだけどさ」
気が付いたのは、僕ではなくラティーンだった。
『いっぱいいっぱい』。マキナはそう、言葉を託されていた。きっと、あの【壁の街】の件で交差した一瞬で、彼は【愛奴】の弱点に気が付いていたのだ。
それでも、奴自身も毒を扱うのだから、ある程度のバッファは取っているものだと読んでいた。その余白を、エイヴァの用意してくれた毒が満たしてくれるかというところが――僕にとって、一番の賭けだったわけだ。