第三十一話「愛奴」-3
強がりながら立ち上がろうとするも、手足の芯の方に響くような痛みがあった。動く以上、どこかが折れたということはないのだろうが、ヒビくらいは入ったのかも知れない。
それでも握り締め続けていた杖に力を込めてみるが、反応が無いことに気が付いた。どうやら、先ほどの一撃で、リッチたちとの契約が途切れてしまったようだ。
もちろん、エミリーの杖を使えば、再契約することは容易いのだが、それをしている時間をこいつがくれるとは思えない。
「決したな、ジェイ・スペクター」【愛奴】が、僕を見下ろしながら。「戦士として戦ったことは褒めてやろう、力の差を理解しながら立ち向かってきたことは讃えてやろう。けれど、これが現実だ。これが事実だ」
僕では、こいつに――敵わない。
それをありありと、痛感させられる。
「それでは、幕引きだな。お前も愛の輩、これ以上の苦痛は、必要あるまい――」
ゆっくりと、死の蹄が持ち上げられる。
人の頭蓋程度なら、南瓜か何かのように蹴り砕けるだろう、それを前にして、僕はひどく冷静だった。
――だって、ようやく。無警戒にここまで、近付いてくれたのだから。
「――悪いけど、そうもいかないんだよ!」
僕は懐から、『それ』を掴み取ると、そのままの勢いで、彼の胴目がけて投擲した。
もう、僕には抵抗する力が残っていないと思っていたのだろう、僕の投げつけた『それ』――小さな小瓶は命中し、中の溶液を、彼の体いっぱいに飛び散らせた。
「なっ……! 貴様、まだ悪あがきを――!」
と、そう語ろうとした口が、喉の奥に何かが詰まるような調子で噎せ返った。
小瓶から撒き散らされた溶液は、瞬く間に気化し、彼の肺腑まで侵入したのだ。
自然、生まれた一瞬の隙に、僕は彼の足元から転がるように離脱。そのまま、ゆっくりと立ち上がった。
「……毒、か」痰を吐き捨てながら、【愛奴】が呟く。
「この精度の毒霧を作れるのは、【病の街】の医療術師、奴の仕事だな?」
僕は肯定も否定もしなかった。しかし、彼の推測は遠からず当たっている。
【イットウ】から、僕が連絡を取った相手は、エイヴァだった。彼女であれば、僕の望む種類の毒を用意できると、そう、踏んでいたのだ。
しかし、【病の街】から届くのが間に合うかどうかはギリギリだった。それでも、僕にはどうしても、これが必要だったのだ。
――これこそが、僕が【愛奴】を打倒し得る、唯一の方策だったから。
「なるほどな、確かに、俺がどれだけ速く駆けようと、毒ならば当ててしまえば、あとは時間を稼ぐだけで勝負がつく。正しく、貧者の戦術、といった調子だな」
彼は溶液がかかった辺りを軽く払うようにしながら息を整えると、すぐに、ニヤリと口元を歪めた。
「だが――お前は一つ、致命的に間違えた」
「……間違えたって、何をだよ」
「俺を相手に、魔物由来の毒を使うべきではなかったな」
細かく、砕けるような音と共に、散らばったガラス瓶の欠片が踏み砕かれる。
そう、僕がエイヴァに依頼したのは、できるだけ強い――魔物の毒、だった。
「大方、あの竜騎士にされたことの意趣返しか、そうでなければ、普通の解毒法で治すことが困難だと、そんな知識を聞きかじっていたのだろう」
僕は、否定も肯定もしない。
彼の推測は、これまた遠からずで当たっていたからだ。
「しかし、俺の扱う魔術は混魔術式。魔物由来の因子であれば、そのまま飲み込み、分解し、糧としてしまうことができる。着眼点は悪くなかったが、もう一息、というところだったと、少なくとも俺は、そう思うね」
ギリ、と口の中で奥歯が軋む音がした。
読まれていたのだ、僕の方策は、ここまで。
これは彼だけでなく、リタやエイヴァ、恐らくはラティーンもそう。強者は皆、僕には及びもつかない深度まで、先を読んでくる。
だからこそ、ここから先は――賭けだった。
「――っ、まだ、終わってない!」
もう使うことは無いであろう、エミリーの杖を懐に戻し、代わりに、忍ばせておいたエイヴァの毒瓶を右手に掴む。
これらが、先ほどまでのやり取りで割れなかったのは、唯一と言っていい僥倖だ。
「おい、おい、おい。ジェイ・スペクターよ、お前は俺のことを、随分低く見積もっているようだな」
言わんとしていることは、わかる。
真っ直ぐこのまま向かっていっても、この毒瓶が当たることはないだろう。僕の投擲物など、彼にとっては文字通り、虫が飛んでいるのと大差ないのだろうから。