第二十九話「嵐の前の」-3
「……リタ、僕は、さ」
目覚めない彼女の脇にしゃがみ込んで、僕は小さく語りかける。届かないかもしれない、それを前提にした言葉は、単なるエゴでしかないと理解していた。
「僕は、お前に依頼してよかったと思ってるぜ。お前だったから、ここまで生きてこられた。お前だったから、ここまで事態が進行した」
そして、彼女だったから、僕は。
最後の一つを飲み込んで、僕は毛布の端から見える、小さな手のひらに視線を向けた。
僕よりも二周りも小さいそれは、けれど僕なんかよりもずっと傷付いていた。滑らかだったはずの表皮は、幾重にも重なる傷跡で歪み、ささくれだった指先は、元のたおやかさを微塵も残していない。
それは、ここまで自分を貫いてきた、彼女の強さを表しているようで。
そんな彼女だったから、僕は。少しでも、その背中に追いつきたいと――。
「ああ」僕は、呆気ないくらいにあっさりとそれを自覚した。「僕は、お前に憧れていたんだな」
目を焼くほどの、眩い赤色。
彼女の髪の色が、広げた翼が、ずっと目の中に残り続けている。
近付きたいと、そう思った。
強く、気高く、折れず曲がらず、そんな彼女のように生きてみたいと、心から思っていた。
だからこそ、僕は行かねばならない。彼女のようになりたいのなら、彼女と共に生きたいのなら、僕はあの、焦げ付いた過去を清算しなければならない。
それが、僕のような、中途半端に逃げ出した人間が元の道に戻るためには、どうしても必要なことなのだ。
一度だけ、枕元に近付いて、彼女の髪を梳く。赤い髪には、もう、あの全てを焼き尽くすような熱はない。
あの、病んだ街で見せた脆さも、危うさも、何もかもが微睡みの中にある。
それを見つめながら、僕はふと、思い出す。
『あの……あの、ね。私、今回の件が片付いたら、あなたに話さなきゃいけないことがあるの』
第一医療棟を出ようとしていた僕に、彼女はそう言った。
一体、何を伝えようとしていたのだろうか。それを聞くことはもう、できないのかもしれない。
けれど、もし。彼女の言葉を受け取れる機会を、もう一度与えてくれるなら――。
「――じゃあ、行ってくるぜ。」
僕はそれ以上を残すことなく、リタの居室を後にした。今の僕には、何かを享受する資格も、何かを与える資格もない。
この空っぽを埋めるまでは――そんなもの。
【イットウ】の階段をゆっくりと降りてゆけば、こちらを見つめる、二対四つの瞳と、視線がかち合った。
オレリアとマキナは、それぞれ、僕の方をじっと見据えている。まるで、覚悟を問うかのように。
「……さあ、時間だ」
僕はそれに応えるために、そう、口にした。いや、恐らくは、怯懦に膝を折りそうな自分を鼓舞するためのものだったのだろうが、少なくともこの時点では、そんな風に格好をつけていた。
「準備はできたのかい? 死地とやらに、赴くためのさ」
「冗談は止めてくれよ、オレリア。死にに行く準備ができてる奴なんていないし、死ぬために戦いに行く奴なんて、どこにもいないさ」
「ふうん? なら、あんたは――」
ああ、と力強く頷く。
準備期間など、どれだけあっても足りるものではない。絶望的な彼我の戦力差を埋めるためには、手は尽くせるだけ尽くすべきだ。
それでも、どうにか間に合った。
生きて帰るための用意が、最低限、どうにか整った――。
「――まだ、話し足りない奴がいるんだよ、僕にはさ」
その言葉の意味を説明せずとも、二人は理解したようだった。そして、玄関のすぐ近くに立つマキナが、扉を指しながら口を開く。
「……ラティーン様の伝手で、一頭立ての馬車を一台ご用意できました。人避けの結界も、既に刻印を終わらせてある」
「そうか、感謝するぜ。帰ってきたら、ラティーンにも礼を言わないとな」
軽く頭を下げて、僕は【イットウ】を後にする。
外に出てみれば、相も変わらぬ橙色の空が、僕を見下ろしている。いつまでも沈むことがなく、昇ることもない陽は、何もかもを等しく染め上げている。
【夕暮れの街】。
大陸の最果て、人もモノも魔術も、何もかもが吹き溜まる、行き止まりの街。
僕はまた、ここに戻ってくる。前よりもほんの少しだけ誇れる、自分になって。
「さあ、それじゃあ、まあ――出陣といくか」
精一杯格好をつけて、僕は歩き出す。
目指すは、宿敵が待ち構える、霊魂渦巻く【大陵墓】。
最後の戦いが――始まろうとしていた。