第三話「役に立つとは思ってないから」-2
そして、今度こそ部屋を出た僕は、リタの待つ一階に向かうことにした。
【イットウ】は三階建てで、僕の部屋は二階にある。
一階は食堂、三階は従業員の部屋になっているはずだが、まだ行ったことはない。
リタも普段は三階で寝泊まりしているらしく、たまに上階から慌ただしい足音が聞こえるが、訪ねようと思ったこともないので、何をしているだとか、そういうのはわからない。
「……というか、嫌でも四六時中顔合わせてるしな」
わざわざ聞こうと思ったこともない。
軋む階段を降り切って、年季の入った食堂の扉を押し開く。
僕が初めて訪れたあの日とは打って変わって、食堂の中は静まり返っていた。開店前の店内にはほとんど人気が無く、まるで、別の場所に迷い込んでしまったかのようだ。
「何ボーッとしてんのよ、あんた。早くこっちに来て座りなさい」
静寂を割いて聞こえてきたのは、もうこの数日で嫌というほど聞いたヒステリックなソプラノだった。
見れば、カウンター席に座る鮮やかな赤色と、カウンターを挟んだ向こう側に立つ長身の女性が目に入った。眠るように静まりかえった室内で、そこだけに人の気配が満ちている。
僕は歩み寄ると、不機嫌そうにティーカップを傾けるリタと、ひと席だけ離れたところに腰を下ろした。同時に、僕の前に麦粥の入った皿が差しだされる。
「おはよう、ジェイくん。今日もぐっすりだったかな」
「ああ、オレリア。おかげさまで。寝つきがいいのだけが自慢でな」
僕はそれを受け取りながら、オレリアと言葉を交わす。この店の主人である彼女は毎朝、こうして朝食を作ってくれる。
メニューは日によってまちまちだが、その味にハズレがないことは、この数日間で実証済みだ。
「寝つきがいいのは結構だけど」リタは匙を動かしながら言う。
「寝坊されるのも困るのよ。今日は町の外まで行くから、早く起きててって言ったじゃない」
「ああ、悪かったって……というか、それ、本当に僕も行かなきゃダメなのか?」
僕はため息交じりに言った。
諦めが半分、呆れが半分。けれど返ってくる答えはいつも同じだから、これも愚問なのだろう。
「何言ってるのよ。着いて来てもらわなきゃ、あんたのこと守れないじゃないの」
彼女はさも当たり前のように、悪びれもしない様子で言う。
世界最高の万能屋である彼女は、当然、多忙だ。
僕の警護をしている今も、あちこちから大量の依頼が舞い込んできている。
そして驚くことに彼女は――そのすべてを受注し、達成しているのだ。
僕を守りながら、あちこちで仕事をこなす。両立するためにどうしているのかは、まあ、考えるまでもないだろう。
「僕が言ってるのはだな。仮にも命を狙われている依頼人を、あちこち連れ回すのはどうなんだって話で……」
「なによ、あたしのやり方に文句があるわけ?」
「いや、別にそういう話じゃ……」
「じゃあ、問題ないわね。ほら、さっさと食べる!」
僕の抗議はこれ以上、どうやら聞いてもらえそうになかった。仕方がないので、僕は黙って粥を口に運ぶことにした。
舌を火傷しない程度に冷まされたとろとろとした食感と、優しい旨味がゆっくりと喉の奥に落ちていく。
そんな僕らの様子を見て、オレリアは満足そうに笑っていた。一体何が面白いのかはわからないが、時折、二度三度頷きながら、僕らのやり取りを眺めている。
「……なんだよ、オレリア。僕の顔に何かついてるか?」
それがほんの少しだけ癇に障ったので、僕はわざと刺々しくそう言った。
「いやあ、なんでもないよ。いい朝だなと思ったのさ」
「そりゃあ何よりだ。半分でいいから、僕に分けてくれないもんかね」
僕は眉間に皺を寄せた。もしかすると幾分、口角も下がっていたかもしれない。
「はっはっは! そんな顔しないの。リタに依頼したのが運の尽きなんだから、諦めな。この子は言い出したら本当に聞かないんだから」
「どういう意味よ、それ。私だって別にわがままで言ってるわけじゃないのよ」
むくれるリタをできるだけ視界に入れないようにしながら、僕は食事を進める。
契約を結んでからの四日間、毎日がこうだ。休みなく毎日のように依頼をこなし、僕はそれについていくことになる。
まあ、それで今のところ身の危険を感じたことはないので、警護に支障が出ているわけではないのだろう。付き合わされる僕はたまったものじゃあないのだが。
「ふう、ごちそうさま、オレリア。美味しかったわ」
一足先に皿を空にしたリタは、椅子から勢いよく飛び降りると、そのまま店の出口に向かっていった。
食休みとか、そういう概念はないのだろうかと、その様を眺めていると、彼女は突然振り返る。
「外で待ってるわ、時間がないんだから、急いでよね」
それだけをそっけなく言って、扉を開け放って出ていった。少なくともそこには思いやりだとかそういう気持ちはないように思える。いつも通りだとは言え、横暴極まる彼女の態度に、僕はため息を吐いた。
待たせれば、また不機嫌になるのだろう。僕は皿をほとんど九十度まで達しそうな勢いで傾けながら、粥を喉の奥に流し込む。
寝起きの胃に僅かに重さを感じながら、ぼんやりと僕は思考する。どうやら、今日もハードな一日になりそうだった。