第二十九話「嵐の前の」-2
最後の一日は、一見怠惰に見えるほど緩やかに過ぎていった。端から見れば、飯時にしか部屋を出てこない、引きこもりにでも見えたことだろう。
しかし、実際は僕の過ごした人生の中でも、最も濃密で、最も急峻で、そして何より、最も焦燥感に背を刺されるような――そんな時間だったと思う。
けれど、そんな時間も、いつまでもは続かない。
時計に視線を向ける。そろそろ、時間が近付いてきていた。
リトラとの約束の刻限。そして、僕にとっては――運命の時間が、訪れようとしている。
僕は懐に杖と霊符があることを確認して、書庫を後にする。たった一日がそこら缶詰めになっただけの場所には、大した感慨も湧かなかった。
しかし、それももう、二度と戻れぬ場所なのだと思えば――少しばかり、足は止まる。
【イットウ】の廊下に一人立ち尽くし、床に目を落として、記憶を辿る。
そんな中、ふと、柱に刻まれた傷の一つに目が留まった。擦れたような、凹んだようなその跡には、僅かながら見覚えがある。
『あんた、今日は早く起きなさいって言ったじゃない!』
記憶の中で、リタが叫ぶ。そうして、振りかぶられた拳を、僕は辛うじて躱すことができて――ああ、そういえば、この傷をこさえたときには、流石のオレリアも怒ってたっけ。
続いて、視線は天井へ。薄暗くなり始めた廊下を照らすため、魔術で灯されたカンテラが吊るされている。
『なんで私がこんな……あんた、もっと右に寄りなさいよ!』
『うるさいな……というかお前、飛べばいいだろ、飛べば!』
『こんな狭い廊下じゃ翼なんて出せないわよ! これ以上落としたら、オレリアに殺されるわ!』
そう、確か、前にリタと喧嘩した時にカンテラを落としてしまって、二人で交換したこともあったか。
あの時も、あいつは口うるさかったっけ。結局、うるさいってことで、オレリアにはどやされたのだったか。
それ以外にも、この廊下のあちこちに、僕とリタが過ごしていた、この三週間足らずの形跡が残っていた。
たった三週間。それだけのはずなのに、どうしてだろうか。よっぽど僕が単純なアタマをしているからなのか、理由まではわからないものの、一歩ごとに思い出が、僕に語りかけてくる。
この先、僕とリトラの戦いがどんな結末を迎えようと、変わりなく、僕とリタの関係は終わる。
出来損ないの死霊術師と、世界最高の万能少女の関係は、予定通りの破綻を迎える。
そんな、瀬戸際のひとときだったからのだろう。不意に、頭蓋の内側で、それは火花のように弾けた。
『――ここから先、私の私室だから。勝手に入ったら、消し炭にするわよ』
不意に思い出した、馴染みのある台詞に顔を上げれば、それは階段のすぐ脇、登った目の前のところにある、古びた木製の扉の前だった。
ここは、リタの部屋だ。結局、彼女はたったの一度も、僕を入れてはくれなかった。
恐らく、今は彼女も寝込んでいるはずだ。チャンス、ということではないが、最後に顔を見ておこうと思い、僕はドアノブに手をかけた。
リタの私室は、先ほどの資料庫が嘘であるかのように整頓されていた。
元々、あまり荷物を持たない性質なのだろうか、物の少ない部屋の中には、仕事用と思しきローブがいくつも駆けてある。
そして、その奥に視線を向ければ――穏やかな寝息が、僕の耳まで届いてきた。
部屋の最奥。そこには、見覚えのある少女が眠っている。
リタ。
リタ・ランプシェード。
世界最強の万能屋にして、僕をここまで守ってくれた少女。
……そして、僕のせいでこんなに傷つくことになった、小さな彼女だ。
近付けば、リタはここに帰ってきたときから何ら変わることなく、静かに眠っていた。
目覚める気配は、ない。いつ起きてくれるのか、それともずっとこのままなのか。眠り姫の物語のように、現実はそう上手くはいってくれない。