第三話「役に立つとは思ってないから」-1
「もう、今日は町の外まで行くから早く準備しといてって言っといたじゃない!」
リタの怒声が、回想に沈んでいた僕の意識を引きずり上げた。
部屋に飛び込んできた彼女は、出会った時と同じ真っ赤なローブに身を包んでいた。これは、彼女の仕事着だ。ということはもう彼女の方は身支度が済んでいるのだろう。
そういえば、昨日の夕食の席でそんなことを言っていたような気がする。適当に生返事を返した覚えがあるが、さて、どうだったか。
何はともあれ、まず、やるべきことは決まっていた。
「ああ、すまん。すぐに準備するよ。あとは着替えるだけだから、先に下で待っててくれるか?」
僕は軽く手を合わせながら、彼女に向かって頭を下げた。
言い合っても、僕に勝ち目はない。ならば、さっさと謝っておくのがいいと思ったのだ。
リタは何か言いたげだったが、しばらくしてから頭を振った。
「……わかったわ。今日は昼前までには目的地に着いてないとまずいから、早くするのよ」
そう言って、部屋を後にした。彼女の真っ赤な長髪が扉の向こうに消えたのを確認してから、僕は一つ溜息をついた。
四日。
彼女との鮮烈な出会い、そして、この奇妙な共同生活が始まってから、もう四日が経とうとしていた。
リタは宣言通り、寝るとき以外のほとんどすべての時間を僕と過ごしている。そのためなのか、僕があれから襲撃を受けるようなことは一度もなかった。
どころか、リトラたちの一団の影すらも見えることはなく、日々は静かに流れていく。
しかし、僕の心はまだ安寧を取り戻していなかった。
結論から言うと、彼女との同棲生活は、決して穏やかなものではなかったのだ。
「ちょっと! いつまで寝てるの、日が暮れちゃうわよ!」
僕の一日は、大体この一言から始まる。
あの後、さすがに同棲はと食い下がった僕は、どうにか寝室だけは別にするということで手を打ってもらえた。
しかし、それがいいことだったのかはわからない。代わりに彼女は怒号とともに、毎朝僕の部屋に飛び込んでくることになったのだから。
というか、それだけではない。【イットウ】の階段を、支度もできてない僕の首根っこを掴んだまま引きずるようにして降りて行ったり、朝食のハムエッグのハムを奪われたりもした。
ここをどこだと思ってんだ【夕暮れの街】だぞ、とか、静かに扉を開けられないのか、だとか、分けてほしかったら口で言え口で、とか言いたいことはいくつもある。
ただ、それを口にしたが最後、リタは拗ねたように頬を膨らませて、僕と口をきいてくれなくなる。
僕は彼女に守ってもらっている立場なのだから、いざというときに、そんなくだらないことのせいで支障が出てしまったら元も子もない。
だから僕はいつも、曖昧に誤魔化して、適当に謝って、どうにか過ごしてきた。
決して過ごしやすい毎日ではなかった。しかし、人というのは怖いもので、時間が経てば非日常にすらだんだんと慣れていってしまう。
彼女の横暴にも。
彼女の頑固さにも。
彼女が脛を蹴ってくる痛みは――慣れるのにもう少し時間が要りそうだが。
とにかく僕は彼女とのこの異常な生活を、だんだんと日常として受け入れ始めていた。
頭に響く怒号だって、今となっては目覚まし時計に近いようなものだ。
しかし、まだ一つだけ、受け入れられてないものがある。
「さて、と」
一張羅のスーツに身を包んだ僕は、懐を探りながら準備を進める。
霊符、ライター、ハンカチ……順番に詰め込みながら、一つずつ確認していく。
髪は……整えている時間はなさそうだった。あんまり遅くなって、また機嫌を損ねられたら敵わない。ピヨンと跳ねた前髪を撫でつけながら、部屋を出ようとして。
「っと、忘れ物忘れ物……」
ベットの脇のサイドテーブル。そこに置かれていたのは、手のひらに収まる程度の大きさの、銀のロザリオだった。中心には血のように真っ赤な宝石がはめ込まれていて、上部から延びるチェーンが、窓から差し込む夕日をキラキラと反射していた。
僕はそれを手に取って、首からかける。これは僕にとって、一番大切なもの。片時も手放すわけにはいかないのだ。