第二十五話「死、愛、紅蓮の炎」-5
「な、なんで、なんでだよ、ダグラス。僕は――」
僕は。
僕は彼を、疑っていたのだ。
執事衆が裏切ったのなら、その筆頭たる彼が裏切っていないはずがないと、そう、決めつけていたのだ。
なのに、彼は身を挺して僕を守った。守ってくれた。その理由がわからなくて、まるで子供のように、僕は。
「異なことを聞きますな、お坊ちゃま」
しかし、彼は事も無げに。
「私はあなたに、そしてスペクター家に仕えていると、つい先程も言ったでしょう。主君のために命を張るのは、従者として当然のことです」
「で、でも、親父は、もう……!」
「おりませんな。しかし、あなたがいるとも、私は申し上げました。幼い頃より見守っていたあなたが、健やかに生きてくれるのなら、この老いぼれも命を投げ出す甲斐があるというものです」
命を投げ出す。
その言葉の意味が、僕にはわかった。
わかってしまった。
なのに、もう彼を止められない。命を懸けた彼の前進を、阻むことなどできようはずもない。
「――私は、あの日。反旗を翻した執事衆とカンバールを向こうに回し、ご主人様と共に戦いました。負けるつもりも、死ぬつもりもなかった」
スペクター邸が焼け落ちた、あの日。
彼は戦おうとしてくれていたのだ。リトラの凶行を、止めようとしてくれていたのだ。
「しかし、結果はご存じの通り。ご主人は死に、私は無様にも生き残りました。あの日、カンバールがあんな手を使ってこなければ――」
ダグラスの顔が、険しく歪む。
それは決して、傷の痛みを堪えているのではない。強いて言うのなら、一番近いのは――怒り、だろうか。
「カンバールは、先に殺害した奥方様たちの魂を、人質に取ったのです。それ故に、ご主人様は実力を発揮しきれず、敗れることとなった……!」
「……っ!」
ようやく、疑問が氷解した。
どうして、圧倒的な実力差があるはずの親父が、リトラに負けてしまったのか。
親父は、優しかった。厳しくも優しく、ただ領民のために、そして、死霊術の発展のために日々を暮らしていた。
故に、その優しさに付け込まれたのだ。
故に、もう二度と、その笑みを見ることも叶わないのだ――。
「――最期の会話は終わったか、ダグラス・ハウント」
ゆらり、エリゴールが臨戦態勢に戻る。
愉快そうに笑みを浮かべていたはずの口元は、しっかりと結ばれている。もうここから先、猶予も容赦もないのだと、そう、言いたいかのように。
「ええ、終わりましたとも。悪いですな、待っていただいて」
「構わんよ、お前の愛に報いただけだ。愛ある者の死が、無為であってはいけないからな」
「そうですか、なら、そろそろ幕引きとしましょうか」
ダグラスが杖を、まるで刺突剣のように構える。それを迎え撃つかのように、エリゴールは半身の構えを取った。
空気が張り詰める。静止した時間の中で、ダグラスの胸を滑り落ちていく血液の雫だけが、時を刻んでいた。
「……漂うものよ、彷徨うものよ、我が言葉に耳を傾け給え」
嗄れた声が、辺りに響く。
「我は魂の番人。現世に在りて、絶対の理を読み解かんとする者なり」
詠唱を続けるダグラスの声には、少しずつ、喘鳴が混ざっていく。
きっと、もう普通に喋るだけでも苦痛なのだ。それでも、彼はもう、止められない。
「灰は灰に、塵は塵に。あらゆるものは還り、巡り、廻るが故に。最期の輝きを、ここに照らし出さん!」
杖の先から、青白い炎が迸る。
それを合図にしたかのように、エリゴールが突っ込んでくる。衒いも、迷いもなく、ただ真っ直ぐに。ダグラスの命に、報いるように――。
「――生霊術式、『灰燼帰し』ッ!」
「――見事だ、愛の輩よ!」
爆発音。
それと同時に、強い光が僕の視界を奪った。衝突の余波は凄まじく、皮膚がビリビリと震えるような感覚があった。
そうでなくとも、土煙が二人を覆い隠す。僕はダグラスの名を呼んだつもりでいたが、それすらも轟音がかき消してしまっていた。
そして、五秒もすれば、辺りには静寂が戻ってくる。
じわじわと戻ってきた視界の先で、向かい合うのは、二つの人影だ――。
「――だぐら、す……?」
――見えたのは、胸を貫かれたダグラスの姿だった。
鋭い爪は、胸から背中までを貫通し、彼の体からは完全に、力が抜けている。
からん、と。彼の手から杖が落ちた。それを拾おうともせず、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
僕は咄嗟に、その体を抱き留めた。しかし、もうそこには、魂の気配は感じない。
半開きの瞼。
力の入らない関節。
死んでいる。
ダグラス・ハウントは、死んでいる――。
「う、ううう、ううううううううっ!」
それを自覚するのと、涙が溢れてくるのは同時だった。
頭の中を巡るのは、屋敷で過ごした日々。死霊術の訓練をサボってエミリーと遊んでいて、怒られたこと。こっそりと、他の兄妹には秘密でお菓子をわけてもらったこと。そして、初めて霊符を使った死霊術が使えた日のこと。
その景色の全てに、ダグラスの姿があった。彼は、両親とはまた違う距離感で、違う尺度で、僕を見守ってくれていた。
家族。
そう、僕に残された唯一の家族だったかもしれなかったのだ。
しかし、それももう、いなくなってしまった。
最後の最後まで信じられないまま、僕はまた、家族を死なせてしまったのだ。
「さて、さて、さてと。後はお前一人だな、ジェイ・スペクター」
眼前に、エリゴールが迫ってくる。
しかしもう、逃げる気力も沸かなかった。ただ、ダグラスの骸を抱いて、僕はそこにへたり込むことしかできない。
彼のことを思うのなら、たとえ無駄であろうとも、僕はもう一度、杖を手に取って戦うべきなのだ。
或いはそうでなくとも、拳を振り上げ、蹴り、噛みつき、振り回し、僕の息の根が止まるその時まで、抵抗しなければならないのだ。
なのに。
「……っ、はっ……!」
手足に力が入らない。
リタも、ダグラスも、いなくなってしまった。
そして、抵抗するもしないも関係なく、僕は数秒後に殺されることが既定事項となっている。
――これ以上足掻くことに、何の意味がある?
そんな、弱気が頭をもたげては――僕の体を、冷え切らせていく。
「ふむ、なるほど。ついに折れた、か。まあ、無理もあるまい。何の慰めにもならんだろうが、お前は頑張ったと、ベストを尽くしたと、少なくとも俺は、そう思うね」
鉤爪が持ち上げられる。
切っ先は当然、僕の方へ。ダグラスの体から少しずつ熱が失われていくのを感じながら、どこか他人事のように、僕はそれを眺めていた。