第二十五話「死、愛、紅蓮の炎」-4
「おい、おい、おい。イカれ野郎だなんて、傷付くな。俺の心は硝子のように脆いんだ、いつだって愛を感じられるように、繊細でいたいからな」
「なら、傷付きついでに、そのまま消し炭になりなさいよ――っ!」
リタは手にした羽剣を構え、エリゴールに向かって突っ込んだ。腰溜めに構えた刃は、刃渡りから察するに、そのまま内臓まで届くだろう。
しかし、刃は肉に食い込むことなく、鎧の如き竜鱗の前に阻まれる。
「――竜種の鱗」
口にした彼は、リズミカルに地面を蹴った。
放たれた矢のような速度で距離は詰まり、リタの土手っ腹に、膝がめり込むのが見えた。
「――賢馬者の脚」
そのまま、リタの矮躯を浮かせたエリゴールは、思い切り右手を振り被る。鋭い爪が、一瞬だけ陽光を照り返して、不吉な輝きを見せる。
「――有翼人の爪」
ぞぶっ。
熟れたトマトに噛み付くような、そんな音だった。
凶悪に尖った爪の先が、リタの胸に突き刺さる。切り裂かれた胸元からは、絶え間なく血が噴き出し、大きく開かれた口からは、一目で命に至るとわかるほどの血を吐き出した。
「リタあっ!」
エミリーの杖を、壊れんばかりに握り締める。弾けるように動き出すリッチたち。大剣と魔弾とが、エリゴールに迫る。
しかし。
「――何度やっても無駄だと、少なくとも俺は、そう思うね」
旋風の如く身を翻した彼の蹴りが、大剣を大きく弾き飛ばす。
その勢いは死ぬことなく、続いて振り抜かれた爪が、魔弾を弾き返してきた。
それは、寸分違わず射手の手元に返ってくると、スリングショットを跡形もなく粉砕してしまう。
二体のリッチは一瞬の間に、獲物を失う形となってしまった。
「ジェイ・スペクター。もういいだろう、力の差はわかっただろう、記念受験のような足掻きも終わっただろう。いい加減、諦めたらどうだ?」
「……っ、おま、えっ!」
リタ。
リタが切り裂かれて。
血が、血が、水溜りのように。
死ぬ?
リタが――死ぬ?
「ふむ、最後に聞くぞ。ジェイ・スペクター、お前は大人しく、カンバールの旦那の所についてくる気はないか?」
それは、正しく最後通牒だったのだろう。
リッチの武器は失い。
リタは斃れ。
簡易契約もできなければ、『生者の行進』を発動するだけの時間すらない。
終わり。
これで、詰みだ。
それでも。
「――脅しなら、もうちょっとマシなことを言えよ、愛情バカ」
――折れるわけには、いかない。
例え、リトラの前に、こいつの前に膝を着くのが最も楽な道だったとしても、僕はそうするわけにはいかない。
だって、僕が折れてしまっては、親父の死が無駄になる。火の中に消えた、家族や屋敷で暮らしていた人々の死が無駄になる。
それだけは駄目だろう。僕は死霊術師、命を背負う責務を帯びた、あらゆる魂の墓守なのだから。
「そう、そう、そうか。残念だ、非常にな。お前にも、俺の愛が伝わってくれればと思ったんだがな」
エリゴールはそこで、再び爪を構える。先ほど魔弾を弾き、リタを切り裂いた、今だ深紅の残滓が残る、鉤爪を。
「カンバールには、生かして連れてこいと言われているがね。まあ、あいつも死霊術師だ。このまま殺してしまっても、最悪、そのロザリオだけでも回収していけば、後は魂にでも訊くだろうよ」
ぐっ、と上体が沈み込む。
また、あの目にも留まらぬ突進が来る。あれを回避する手段は、僕にはない。
リッチたちを動かして盾にするくらいしかできないだろう。もっとも、僕の稚拙な死霊術で、それが間に合えば、の話だが。
「よし、よし、よしだ。決めた、ジェイ・スペクターよ。愛を以て、お前を殺してやろう――」
輪郭がぶれる。
たん、と軽い音は、超速の踏み込みにしては、あまりにも軽快で。
引き伸ばされた最後の時間の中、僕は必死に、杖に力を込める。
しかし――間に合わない。リッチたちが僕に覆い被さるよりも早く、エリゴールの爪が僕に到達する。
万事休す。
親父の想いも、僕の人生も、ここで終わってしまうのだ――。
「――そんなことは、させませんとも」
――刹那。
僕とエリゴールの間に、割り込んでくる人影があった。僕よりも背の低い、真っ黒なタキシード。
その白髪だらけの髪は、まるで年輪のように、これまで重ねてきた歴史を思わせる――。
「――だぐら、す?」
口にすると同時、鉤爪が閃き、ダグラスの体を袈裟に切りつけた。
突き飛ばされるようにして、僕は後ろに倒れ込む。
しかし、ダグラスは倒れなかった。腹部から夥しい量の血を流しながらも、辛うじてその場に踏み留まっている。
「ええ、そうですよ、お坊ちゃま。お怪我はありませんかな」
首だけで振り返り、優しい笑みを浮かべる彼の口元からは、一筋の血が流れていく。
それは顎の端まで伝うと、ぽたり。一雫が、床に落ちて花を咲かせた。
「……くく、くくくくっ!」
酷薄な冷たさを帯びていたエリゴールの顔が、狂気の笑みに歪む。彼の笑い声は、まるで油の切れた車軸を思わせる、不気味なものだった。
「ダグラス、ダグラス、ダグラス・ハウント! 最期に見せてくれたな、老骨が! 主君の忘れ形見を守ったそれは愛、愛、愛だなあ!」
哄笑を上げる彼に、ダグラスは一歩も退こうとはしない。
その立ち姿は、万能の少女よりも、歴戦の竜騎士よりも、全識の医者よりも力強く。
彼は手にしていた杖を、目の前に構える。