第二十五話「死、愛、紅蓮の炎」-1
第一医療棟までの復路は、驚くほど軽快に進んだ。
何故か、道を塞いでいた悪霊たちが姿を消していたのだ――故に、僕はリッチたちを率いて、最短距離を行くことができた。
往路では回り道を強いられていた上、常に襲撃に備えて気を張っていた。そのせいで、僕らの足取りは今の何倍も重いものとなってしまっていたのだ。
しかし、今は違う。前方の警戒を大剣使いのリッチに任せ、後方、そして全体を見通したの左右を魔弾の射手に任せた僕らの行軍は、阻むものなど一つもなく、まっすぐに進めている。
だが、それ故に。
「――気持ち悪いな、なんだ、これ……!」
違和感。
この街に来た時も、その静けさに首を傾げたものだが、今感じているものは、それとは違う異質なものだ。
言語化するならこれはそう、嫌な予感、とでも言うのだろうか。胸騒ぎが、僕の足を急き立てている。
間に合え。
間に合え。
間に合え!
『私、今回の件が片付いたら、あなたに話さなきゃいけないことがあるの』
脳裏に浮かぶ、リタの顔。
あの時の彼女は、どうしてあんなに悲壮な顔をしていた?
あの時の彼女は、一体何を僕に伝えようとしていた?
その全てが、最悪の前振りのような気がして、心拍が上がる。冷や汗が流れ、頬を伝って、後方に飛んでいく。
そのまま、息切れすらも忘れた僕が、走り続け、第一医療棟の前まで至ることができたのは、エイヴァの見立てをさらに五分以上巻いた、出発から十五分ほど経ってからのことだった。
そして――僕はそれを、目にすることになる。
「……なんだよ、これ」
まず目に入ったのは、完膚なきまでに破壊されたバリケードだった。
二晩以上、患者たちの命を守り続けた堅固なはず防壁は、まるで大嘘のような正面からの暴力によってぶち壊されていた。
「こんなこと、どうやったらできるんだ……?」
『魔弾』ですら不可能。
それこそ、竜種の一撃でもなければ、こんなことはできないだろう。
脳裏に過ぎるのは、あの人影の姿。まさか、あいつにこんな芸当が可能なのだろうか……?
「リタ……っ!」
予感は加速する。まさか、いや、そんなはずはないと、急ぐ、急ぐ、急ぐ。
不格好にバタつかせた足は、何度ももつれ、一度は転倒してしまった。それでも、擦過傷の痛み程度では僕の歩みは止められない。
壊れたバリケードの隙間に体をねじ込んで中に入る。そうして、ようやく第一医療棟の内部を確認することができた。
第三医療棟は争った形跡など微塵も残っていない不気味さがあったが、一方こちらは、あちこちに戦闘の痕跡が残されていた。
恐らく、リタのものであろう羽根。
深く抉られた壁。
そして、点々と散った血液。
患者や医者たちの姿が見えないあたり、避難することができたのだろうか、それとも――と、そんなことを考えていた、矢先のことだった。
「ぼっ……ちゃま……」
不意に、横合いから声がかけられる。
見れば、ひっくり返った棚の影に、倒れている影があった。あちこちが破けた黒服は、元々は立派な生地で仕立てられたタキシードであったことを思わせる。
二時間前に見たときには整えられていた髪も、今は乱れ、額のあたりに生じた切り傷からは、絶えず血が流れ続けている。
壁に寄りかかるようにして――ダグラスが、そこに倒れていた。
「ダグラス! おい、お前、一体何が……!」
駆け寄ろうとする僕に、彼は医療棟の奥を指し示す。破れた白い手袋の先からは、まるで、枯れた枝のような指先が覗いていた。
「カンバールの、手のものが。今はあちらで、リタ様が時間を稼いでおります」
耳を澄ませば、確かに遠くから、戦闘音が響いてきている。何か硬いものがぶつかる音、何かが派手に壊れるような音。
この先で――リタが戦っている。
それに僕が気付くと同時、ダグラスが顔を上げ、僕と目を合わせた。色褪せた、エメラルドグリーンの瞳が、僕、そして、従えた二体のリッチに向けられる。
「おお、お坊ちゃま。これは、メアリーの……彼女に、勝ったのですね」
「ああ、そうだ。でも、これはどうなってるんだ? お前は、カンバールの……」
間者なんじゃないか、と続けようとして、それ以上が言えなくなってしまう。
今の、ボロボロの彼を見て、そんなことが言えるはずもない。水分を失った肌は擦り切れ、額は割れ、出血が朦朧とさせようとも、彼は戦っていたのだ。
その姿に――僕がこれ以上、悪態を吐くことなど、どうしてできようか?
と、そこでダグラスが激しく咳き込んだ。口元を覆った手の中には、鮮血が滴っているのが見える。
「お、おい、大丈夫かよ……医療術師たちはどうしたんだ!?」
「皆、地下に避難しております。戦いに巻き込むわけには、いきませんから」
「……なら、すぐに連れてくる! 応急処置をしないと、お前だって――!」
駆け出そうとした僕の腕を、ダグラスが強く掴んだ。今、まさに死にかけている老人のものとは思えない、万力のような握力に、思わず僕の両足が止まる。
「なりません、坊ちゃま。私のことは気にせず、今はリタ様の加勢に向かってください」
「リタの加勢に……? でも、あいつは……」
なおも食い下がる僕を、諌めるようにして彼は首を振る。
「……恐らく、連中の狙いは最初から、リタ様だったのでしょう。真っ向から倒すのが難しい彼女を、消耗させ、この場所に引き込み、確実に倒すのが、カンバールの策だったのです」
「っ、そんな! まさか……!」
信じたくはないが、確かにそれなら、納得ができる。