第二十二話「第三医療棟」-5
そんな激昂すらも、彼は一笑に付した。
やはり、駄目だ。彼と言葉を交わすことに意味なんてなかった。なかったんだよ、と、僕は心中で呟いた。
脳味噌が、煮えたぎるほどに熱を帯びていく。高温の怒りは、僕の体を理性の軛から解き放った。
「お、まえ、は――!」
拳を振りかぶり、駆け出す。もう、細かいことは頭から抜け落ちていた。
とにかく、あいつの頬を打ち据えなければ気が済まない。そんな単純な感情だけが、僕の体を動かしている。
握った拳の中で、爪が手のひらに食い込んで血が滲んだ。それも厭わずに、思いきり、リトラの顔面めがけて叩き込もうとして――。
「……残念、時間切れだ」
――横合いから襲ってきた衝撃に、吹き飛ばされた。
「がっ、は、あ……!」
派手に吹き飛ばされた僕は、硬質な壁に打ち付けられる。肺から空気が丸ごと追い出され、酸素を求めて口をパクつかせる姿は、さぞ滑稽だったろう。
痛みすらも遠く、僕の頭は疑問符で埋め尽くされる。
今の衝撃は?
いったい、どこから?
まだ、敵が潜んでいたのか――?
軋む体を起こしつつ、状況を確認しようと努める。
僕が、先程まで立っていた場所。
突き立てられていたのは――分厚い刃の、大剣だった。
「……っ、な、なんで、こいつが……!?」
エミリーの用いていた、大剣使いのリッチ。突然現れたそいつは、丁度、剣を振り抜いたような体勢のまま静止していた。
しかし、彼女はエイヴァに負け、今も往来に転がされているはずだ。
どうして、こいつが――僕の疑問に対する答え合わせは、ほんの数秒後に行われた。
「ぼ、ぼぼぼ、ぼっちゃ、ま……」
遠くから、微かに聞こえてくる、震えた切れ切れの声。この、第三医療棟の入り口から聞こえてきたのだと、僕は反射的に、そちらに視線を向けた。
そして、それを目にする。
そこに立っていたのは――【骸使い】、エミリー・トゥーム。
しかし、何か様子がおかしい。元々、褐色だった肌は、どこか血の気が退いたように青白く染まり、体のあちこちが油の切れた歯車のような、チグハグな動きをしている。
「まさか――お前、自分を!?」
「――そう、彼女は自分自身を、魔術師の屍にしたのさ」
自分自身を、魔術師の屍に。
けれど、そんなことをしたら彼女は。
「……はっはっは、坊っちゃん。何をショックを受けたような顔をしているんだね。彼女は、君にとっても敵だろう」
「そういう、問題じゃないだろ。これは、親父が求めていた、正しい死霊術じゃない」
「正しいも間違っているも無いだろう。彼女の覚悟に、他人が正誤の判定をするなど、烏滸がましいにもほどがある」
「……どこまでも」
僕は裾の砂埃を払って、立ち上がりつつ。
「お前は他人事なんだな、リトラ。人の痛みなんて、お前には分からないんだ」
「そうだな、だって、私の痛みも、君にはわからないだろうからな」
そう、リトラは肩を竦める。そのまま背を向けた彼は、エミリーの立つ入り口の方へ、悠々と歩みを進めようとする。
しかし、大人しく行かせるわけにはいかない。
「どこへ行く気だよ、お前……!」
「どこって、決まっているだろう。少々この街で遊びすぎた。私は忙しいんだ、次に行かなくては」
「行かせると思うかよ……!」
一歩踏み込んだ僕の足下が、突然爆ぜる。凄まじい衝撃に、思わず体はバランスを崩した。
ふらつくエミリーの、さらに後方。見えたのは、魔弾の魔法陣――。
「本当なら、ここで君も連れて行けたら最高だったんだけどね。そう上手くはいかないものだ」
「……お前となんか、行くもんかよ」
「いや、君は来るさ。だってほら、もう一度――」
そこで、リトラの足が止まる。
僕たちのことなど、脅威に思っていないのだろう。鷹揚に振り返ると、意味ありげに目を細めながら、その薄い唇を震わせる。
「――君も、家族に会いたいだろう」
家族に、会う?
僕は一瞬だけ、彼の言葉に対する理解を放棄しようとした。普段通りの戯言なのだろうと、そう、切り捨てようとして。
「家族って、おい……!」
最悪の予想に辿り着いてしまう。
普通であれば、ありえないだろう。しかし、こいつは外道も外道。何をしでかしてもおかしくはない。
そして、それが僕の心を折る最短距離だというのなら――間違いなく、その最悪を選び取るだろう。
「はっはっは。もし、君がここを凌ぎきったなら、三日後に【大陵墓】で待とう。是非とも、一人で来てくれるとありがたいね」
もっとも、と、その口元を酷薄に歪めながら。
「――君は一人で来ざるを、得ないだろうけどね」
一人で来ざるを得ない?
それはどういう意味だ、と追及する間もなく、彼は医療棟の外に行ってしまう。そして、追いかけようとした僕の前には、大剣使いが道を阻むように回り込んできた。
「くっ、退けよ、エミリー!」
その言葉が彼女に届いているかは、もう、わからない。ふらふらと、不規則に揺れる頭部は彼女の自我が曖昧であることを表している。
立ち尽くす僕に、背後から近付く気配があった。痛みに顔を歪めながら、エイヴァが隣に並ぶ。
「……少年。ここはどうにか凌がねばならんが、私が動けるようになるまで、数分かかる」
言わんとしていることは、すぐにわかった。それと同時に、先程の彼女の言葉が去来する。
『君の役目は、今じゃない――』ならば、ついにその『今』が訪れたということなのだろう。誰もが逃げられない、運命と戦わなければならない瞬間がやってきたのだ。
「――ああ、任せとけ」
僕は片手に霊符を、そして、もう片手に、さっきの戦いで奪い取った、エミリーの杖を構える。
どこまでやれるかはわからない。しかし、やらなければやられてしまう。
心の中に、僅かに灯った熱に浮かされるようにして、僕は戦いに臨む。
誇りもなく、奢りもなく、自信の欠片もない。それはそんな僕が、自ら身を投じた戦いの――正しく、初陣とでも呼ぶものだった。