9. 夫の出産はアンビリバボー!ですわ
ゼウス様とわたくしの住まいを建て替えることになって数週間。思いつく限りの要望をパピルス紙に書き付けました。
もちろんわたくしの一存だけではなくゼウス様の意見も聞きたいので、今、ゼウス様の居らっしゃる部屋へと向かっているところですの。
ドアの前に立ってノックをしようとしたところで、先客がいるのか部屋の中から話し声がしてきます。
これは…………ヘパイストスの声?
「そっ、そんな事、私には出来ません!!!」
「良いから言われた通りにやってくれ。さっきから頭が痛くて仕方ないんだよ」
「そんな事言われましても、あたっ……頭をかち割るなんて……!!」
「君の作った斧と、巧みな作品を作り上げる君の技量なら上手くやれると思うんだ」
一体なんの話をしているのかしら?
わたくしの聞き間違いで無ければ、頭をかち割るって言いましたよね? 今。
「どうせ死にはしないんだから。ね?」
「わ……分かりました……。どうなっても知りませんよ」
「ああ、頼むよ」
えっ? えっ?? ええっ??!
これから何が起こりますの?!頭が大パニックですわ!
ドアの隙間から見えるヘパイストスが、両手で持った斧を、目の前に座るゼウス様に向かって思いっきり振り上げました。
息子が父親をぶった斬るですって……?!
有り得ませんわ!!!
「ストーーーーーーップ!!!!」
「え? ヘラ様?」
時既に遅し。
すっとんきょんな表情を浮かべてこちらを振り向いたのは顔だけで、腕の動きだけは斧の重さとその勢いで止められなかったようです。
薪割りでもするかの如く、見事に斧がゼウス様の頭に振り下ろされました。
「きゃあああああああああああ!!!」
「うおおおおおおおおおおぉぉ!!!」
わたくしの叫び声は、誰か別の女性の雄叫びでかき消されました。
「うっ、うわぁ!! なんだ? 誰だ?!」
ヘパイストスも突然割れた頭から現れた女性に腰を抜かしております。
え、なに? どうなっておりますの?
そんな事よりゼウス様は? と夫の方を見ると、パカッと割れた頭をパチンっと両手でくっ付けておりました。
頭や顔に残る血糊を、急いでハンカチで拭って差し上げます。いくら不死の身とは言え心臓に悪すぎるというものです。
「ヘラ、ありがとう。……それで、君が何者なのかこの2人に教えてあげてくれるかい?」
突然現れた背の高い女性を見上げると、鎧に身を包んでおります。戦神のアレスの様な鋭い眼光、そして威圧感を感じますが、戦闘狂なアレスとは違って知的な雰囲気も漂わせる方です。
「我が名はアテナ。ゼウス様とメティス様の子です」
「まっ、まあ! メティス様の?!」
皆様、メティス様を覚えてらっしゃいますか?メティス様はゼウス様の前前妻、わたくし達兄弟を父の腹の中から救い出すために知恵を貸してくださった女神ですわ。
「通りで頭が痛いと思ったよ。もっと別の場所から出てくると言う選択肢は無かったのかな?」
「申し訳ありません。私はメティス様が司る知恵の部分も持ち合わせておりますので、どうしても頭である必要があったのです」
「まあいいや、よく生まれてきてくれた。オリュンポスの一員として君を歓迎しよう」
握手をし合う2人を、ヘパイストスと一緒に呆然として見守ります。
「ええと、この状況というのはつまり、妊娠中だったメティス様から生まれてきたという事で宜しいのでしょうか?」
「そういう事だよ。ヘラも歓迎してくれるね?」
「ええ、もちろんですわ。アテナと言ったかしら。宜しくね」
以前メティス様と離縁なさった理由については端折ってしまいましたけど、ここで改めて説明致しますわね。
まあ簡単に言うと、メティス様はゼウス様に飲み込まれてしまいましたの。
突拍子も無いことを、なんて仰らないで下さいな。
メティス様がゼウス様の子供を妊娠すると、ガイア様が「メティスが男神を産めば、ゼウスの地位を奪うだろう」と予言なさったのです。
ゼウス様は父クロノスを打ち負かして、今の地位と権力をものにしました。今度は自分が……。とお思いになったのも無理はありません。
それにガイア様の予言は、笑い飛ばして無視できるような類のものでもありませんし。
そこでゼウス様は妊娠中の妻を飲み込んだのですわ。どうやって飲み込んだかと言えば、メティス様は変身術に長けていらっしゃる女神ですから。水に変身して飲み込まれたのです。
でもっ!
父親のクロノスと一緒にしてはいけませんわよ!!
メティス様は叡智や知性を司る神。
ゼウス様の身体の中から、ゼウス様にその知恵をお貸ししてアドバイスなさっているんだそうです。
ゼウス様のパワーにメティス様の頭脳。最早向かう所敵無しの究極体!
それにしても……メティス様が羨ましい。
ゼウス様の一部として生きていけるなんて、どんな心地がするのかしら。
愛する人とひとつになるのって皆様も幸せでしょう?
セックスで一時的にくっ付き合うだけでもあんなに気持ちがいいのに、完全な融合となると……想像しただけでゾクゾクしますわ。
わたくしも何とかしてゼウス様に飲み込んで頂けないかしら……。
「ヘラ、さっきからどうしたんだい? そんなに考え込んで」
「いっ、いえ。メティス様が羨ましいと思っただけですわ」
「?」
「だって、ゼウス様と一時も離れることなくずっと一緒に居られるんですもの。わたくしもゼウス様に飲み込まれて、ひとつにして頂けないかと思案しておりました」
首を傾げて聞いていたゼウス様が煌びやかな笑顔を浮かべながら、わたくしを抱き寄せました。
「それはダメだよ」
「何故ですか? ……ああ、わたくしを飲み込んだところで、何もお役に立てそうも無いですものね」
「そうだよ。君を飲み込んだところで何にもならない」
やっぱり。ゼウス様の返答に、がっくりと項垂れてしまいます。
わたくしにはメティス様やテミス様の様な、ずば抜けた頭脳や予言術は持ち合わせておりません。飲み込まれたところでお腹が重くなるだけで、まさしく御荷物です。
「ふふっ、ヘラ、そんなに気を落とさないでおくれ。もし君を飲み込んでしまったら、君のこの美しい髪に触れることも、柔らかい唇に口付けるする事も、僕に向けてくれる熱い視線も、全て失ってしまうじゃないか。君の居場所は僕の中じゃない。こうして隣に居てくれればいいのさ」
ずっきゅーーーーーーんっっっ!!!
はあぁ、もうクラクラしてしまいます。
そうでしたわ。ゼウス様とひとつになったら、触れて頂くことも、見つめる事も出来ませんもの。融合案は見送ることにします。
「コホンっ。あの、仲睦まじくしている所で申し訳無いのですが……」
ヘパイストスとアテナは、呆れつつも目のやり場に困っている様です。
すっかりゼウス様にメロメロになっておりました。
「ああ、悪かったね。ヘパイストス、アテナの神殿も追加で作ってくれ。出来上がるまでは僕の神殿で過ごすといい」
「かしこまりました」
「それではアテナの誕生祝いの宴をしなくてはなりませんわね。イリスに神々に集まるよう、伝えておきますわ」
イリスはああ見えて、地上でも海底でも、瞬く間に駆けて移動することが出来るんですのよ。彼女の通った後には虹がかかって、それは綺麗です。
ゼウス様の出産には度肝を抜かれましたけど、こうして優秀な神がまた、オリュンポスに仲間入りしました。
アテナは戦いだけではなく知恵も司る女神。
賢く強い女神なら、きっと、ゼウス様のお役にたつでしょう。何とも頼もしいです。