ネイサン・ヴァレンタイン
ネイサン・ヴァレンタイン。
アデルハイト殿下の護衛騎士を12年に渡り務めた彼は歴史ある名門伯爵家の三男として生を受けた。何不自由なく生きてきた彼は三男であることから己の身は己で立てる事を幼少期から決めていた。
長男は嫡男ということもあり、必要な教育や剣術に馬術といった貴族男性の嗜みまで多くの事を朝から晩まで詰め込まれていたものの、それに難なくついて行くことから長男の優秀さは家族だけでなく、家庭教師や使用人からも称賛された。
次男は長男のスペアとしてこちらも教育を受けていたが、健康な長男にはほぼスペアは必要ないと思われ持ち前の器用さを活かして手を抜くところは手を抜いた。そうして偶に抜け出しては弟であるネイサンにかまってやることが彼の息抜きの一つだった。ネイサンも、忙しい兄に構ってもらえる事が嬉しくて自身も習い事をすっぽかすこともあった。その度、使用人たちに怒られ課題を増やされるまでが一連の流れである。
長女は母親に似てとても美しい。深窓の令嬢とばかりに部屋からほとんど出ることのない彼女は色白で、金髪碧眼を持つ。窓辺に腰かけ刺繍をする姿はまるで妖精のようだ。ネイサンは我が姉ながら一時期本当に妖精だと思い込んでいた程。兄弟唯一の女の子ということもあり、両親は勿論兄二人も姉を可愛がった。
優秀な兄二人と美しい姉を見て育ったネイサン。自分も兄たちのような人間になりたい。そう思って自分に施される教育を真面目に取り組むことにした。血筋なのか彼もまた、非常に優秀であった。兄達からは領地に残って長男の手伝いをするため、領地に残ってくれてかまわないと言われていた。両親もあまり慌てて決めることはないと笑っていた。
そうして本格的に将来を決めたのは14歳。
文官でも良かったが体を動かす方が自分に合っていると感じたネイサンは騎士になることを決め、15歳で騎士団の入団試験を受けて晴れて合格。騎士見習いとして貴族でありながら自分で自分のことはやり、騎士としての訓練だけでなく先輩の衣服の洗濯や食事の準備などを覚えた。初めは服を畳むことにも悪戦苦闘。同じ新米騎士の中には平民もいたので教えてもらいながら何とかやってこれた。平民に教えを乞うなど、というちっぽけなプライドは騎士団入団の前に捨てていたので苦でもない。
そうして厳しい訓練と下積みを経て正式な騎士となったのは18歳。努力を惜しまない元来の性格と真面目さ、さらに名門貴族出身と顔形の良さで近衛騎士に抜擢されたのは21歳。しかも王妃殿下付きとなった。これまでの努力が認められたことが嬉しかった。貴族出身や顔の事は自分ではどうすることも出来はしないが、騎士としての腕前を認められたことが何より嬉しかったのだ。
その頃には長男はすでに結婚していたし、夫婦仲も良好。子も、そのうち授かるだろうと楽観視出来る程の仲睦まじさだ。次男も半年後に同じ伯爵家の一人娘の元に婿養子として入ることが決まっていた。長女は結婚して3年で半年後に二人目が生まれる。順風満帆であった。
だが、これもその時まで。
王妃殿下が第二子をご懐妊され、生まれた子の護衛騎士として配置換えされてからすべてが変わってしまった。
陛下直々に生まれたばかりの第五王子であるアデルハイト殿下の護衛を頼まれた。とても栄誉な事であるはずだ。しかし、陛下の顔は暗く声も重い。余計な詮索は無粋であるため何も言わなかったがもしかしたらここが運命の分かれ道だったのかもしれない。
特殊な任務であったが故、騎士団から陛下直属の騎士となり騎士団からは表向き退団となった。家族とも今後許可が出るまでは接触することは叶わない。どうしてそこまでする必要が? ネイサンは疑問に思いはしたが、余計な詮索はすまいと心に留める。そうして荷造りを終え今後の拠点となる場所へと移る。
そこが〝北の塔〟だ。
騎士の中では実しやかに囁かれる別名〝王族専用監禁塔〟
ここに何故? 困惑するネイサンに陛下側近のエドガー・オールバンスが案内する。厳格な風貌と騎士団長にも勝らずとも劣らないという剣の腕前を持つオールバンス。そんな彼について塔の中へと足を進める。塔の最上部へとたどり着いたら部屋の前で一度オールバンスがネイサンを振り返る。そして。
「ネイサン・ヴァレンタイン。ここから先のことは口外することを禁ずる。もし、無理だと思ったならばすぐに言え。この事で貴殿の評価が落ちることはない。また騎士団へ戻そう」
「はっ、お心遣いありがとうございます」
「……この任務はある意味過酷なものになるやもしれん。だが、貴殿を信用しての抜擢である。無理にとは言わないが出来れば力になってもらいたい」
そう言って扉を開けるオールバンス。
光が逆行して中にいる人物の顔が一瞬わからなかった。大人が二人。そして。
「おぎゃあぁぁ、おぎゃあぁぁ」
「よーしよしアデルよ。いい子だいい子だ」
赤子。陛下自ら抱いていることから腕の中にいる子が先日お生まれになったばかりの第五王子殿下なのだろう。配置換えの際にお会いした陛下の何処か厳しいお顔とは違い、本当に愛しいものを見る顔をしていた。
陛下の腕の中で泣くのはアデルハイト第五王子殿下。これから先12年もの間お仕えすることになる人物。この時はただ、生まれたばかりの赤子で誰かが庇護しなければすぐに死んでしまうような弱い生き物だった。
それが例え『黒持ち』であったとしても。ネイサンの中ではすでに決めていたのだ。ただ泣く事しか出来ない赤子を、どうして見捨てることが出来る? どうして任務を放棄することが出来る?
あどけない寝顔を眺め、お守りしなければならないという謎の使命感に駆られ任務を受けた。
ネイサンと同様に殿下のお世話係を務めるのは執事のブライアン。彼は第一王子殿下の事も生まれた頃からお世話をしていたので赤子の扱いには慣れている。正直赤子の面倒などみたことのなかったネイサンにとっては非常に頼もしい存在だった。
自分でも殿下のおしめを変えたりあやしたりした。周りから見ればとてつもなく危なっかしい抱き方だったのだろう。落とさないかブライアンはネイサンがアデルハイトを抱く度、凝視してくる。
そして、乳母というものが遅れてやってきた。
やってきた人物にネイサンは両目を見開き、驚きを隠せなかった。何故なら。
やってきたのは自分の実の姉だったからだ。先日、第二子である男児を産んだばかりの姉。まさか乳母に選ばれるなんて。
(姉は普通の貴族女性だ。本当に殿下の乳母が務まるのか?)
その心配は的中する。姉はアデルハイトが『黒持ち』と知ると明らかに動揺した。陛下の御前ということもあり、それ以上の失態はなかったが本当なら嫌悪を前面に出していたことだろう。淑女の仮面を少しぐらつかせた程度にとどめたことは称賛する。
だが、乳母になることを遠回りに拒否した。それが家を守る貴族女性にとっては正しい選択であっても。
(人間としては失格だ)
そんな姉に失望したネイサン。冷たい視線を投げかければ、姉は怯んだ様子を見せた。そうして周りに助けを求めるかのように見回すが、明らかに残念がっている。アデルハイトもお腹がすいたのか、先ほどから泣いている。
流された。と言えばそうなのかもしれない。姉は結局アデルハイトの乳母になる事を受け入れ、その日から塔に移った。それはしばしの実子と愛する夫との別れを意味している。そのことに、ネイサンは気づいていなかったのだ。
恐ろしい『黒持ち』を抱きかかえ母乳をやる生活は姉にとってとても負担だった。日に日に元気がなくなり、『帰りたい、帰して』と訴えるようになった。ブライアンとも相談し、乳が最低限必要な時期までは滞在してもらい、その間は夫である伯爵に顔を出してもらってはどうかと提案した。
だが、その提案はあっけなく棄却される。
「姉君の様子から何か察することがあるやもしれません。残念ながら伯爵は側妃派に属します。万が一、殿下が『黒持ち』としれれば第一王子殿下の王太子擁立も難しくなります。……今しばらくご辛抱いただきたい」
確かに姉が嫁いだのはブラッドフォード公爵家筋の伯爵家だ。騎士になった頃からすでにメイウェザー公爵家とブラッドフォード公爵家の対立は明らかだった。ネイサンはあまり派閥を気にしたことはなかったが今現在、王太子に最も近いとされているのが第一王子であるリオネル殿下だと聞いている。そしてリオネル殿下を推しているのがメイウェザー公爵家だということも。
決定打にかける今、少しの事で状況が動き出す。『黒持ち』であるアデルハイト殿下が生まれたと知られればそれはブラッドフォードの恰好の餌食なのは明らか。そして、それが知られてしまえば殿下の命にも関わる。
ネイサンは姉を外に出すことはまだ難しく、もうしばらくの間耐えるように説得する。姉も『黒持ち』の乳母を務めたと知られるかもしれないという事を告げればすんなり聞き入れた。だが、頭でわかっても心はそううまくはいかない。徐々に姉は心を病んでいく。生まれたばかりの我が子に会うことも出来ず、外のことも遮断され『黒持ち』と四六時中一緒にいたのだから。
とうとう姉はアデルハイトを全身で拒絶し始めた。腹がすいて泣くアデルハイトを怒鳴りつけ、そのあとすすり泣く。物をひっくり返し目についたものをネイサンやブライアンそしてアデルハイトにも投げつけた。日に日に病んでいく姉を見ていられなくなったネイサンはある夜密かに脱出させようとした。少しの間、ほんの一瞬。家族に、外に出ることが出来れば気も晴れるだろうと。
その日、運悪くアデルハイト抹殺の為に王妃が放った暗部に襲撃される。いち早く察したブライアンは殿下を守り抜き、ネイサンも暗部を追い払う。本来なら始末してしまいたかったが、相当の手練れであった事。姉を守りながらの事で逃げた相手を追うことも出来なかった。
逃げた相手を視線だけで追い、姉に駆け寄る。伯爵家の長女として蝶よ花よと育てられた姉。襲撃は彼女の心を壊すには十分だった。
怯え切ってガタガタ震える姉。この時になって初めてネイサンは己の判断が間違ったものだったと気づいた。
姉にはまだしばらく耐えてもらえば、せめて夫である伯爵から手紙のやり取りでもあれば、殿下の護衛を引き受けなければ……
後悔の念がネイサンを襲う。もっとやりようがあったはずだ。口の堅い、それこそメイウェザー公爵家派閥の人間が乳母を務めれば。それにヴァレンタイン家は中立派だった。そもそも姉はブラッドフォード公爵家派閥。何故、姉が。何故、何故何故……
そんなことがグルグルと頭を巡る。
殿下が、生まれなければ……
どす黒いものが心の奥底に生まれた。
襲撃を知り、駆け付けたオールバンス。殿下は無事と知るとほっとした表情をした。その顔が憎い。姉は、姉の心は死んだのに。あの美しかった姉が!
オールバンスは姉の状態を知り、明らかに動揺を見せた。
襲撃されたことが余程ショックだったと思っているようだ。その前から壊れる寸前だったと、何故わからないのか。ブライアンは毎日報告を上げている。見て見ぬふりをしたのはそちらだ。お前たちが、姉を壊したんだ。
ネイサン・ヴァレンタインは一人拳を握り締めた。これは私情だ、任務に関係ないことを考えるな。そう、自分に言い聞かす。だがそれでも、一度生まれてしまった感情を完全に消し去ることなど不可能。この憤りにも似た感情に蓋をして見なかったことにする。そうする他ないのだから。
結局姉はこの事がきっかけで外に出ることが出来た。壊れてしまった心は元に戻るまで時間がかかるようだが、王家が責任をもって治療にあたるという。また、これまでの乳母としての役目を果たしたことで陛下の個人資産から謝礼が支払われた。
治療として、塔にいた時の心のストレスがかなりの負担なため記憶の封印が行われた。
たった数か月の出来事だったが、姉が見たものは国家機密に等しい。厳重な記憶改ざんが行われたと聞いた。これで姉の心が救われることを祈った。あの美しい笑顔で我が子や夫、自分達に笑いかけてほしい。塔での生活など忘れてこれまでのように生きてほしい。
そう切に願うネイサン。
だが、悲劇はこれだけではなかった。
ネイサン個人だけではなく、ヴァレンタイン家を巻き込む派閥争いに発展していく。そしてそれがさらなる悲劇の始まりであった。
ありがとうございました!




