第一回カウンセリング
翌朝、いつものように朝食までのルーティンを繰り返した私は、カウンセリング用の相談室へと向かっていた。診察室とカウンセリング用の相談室は別室となっており、病室から2つ隣の部屋であるため、診察室より近い位置にある。
緊張せず、ありのままを正直に答えなければいけないと、今朝起きてから心を落ち着けることに専念して、この時間を迎えた。思うのは簡単で、自分は思いのほかすぐに嘘という衣をかぶってしまう所がある。それを反省し、すべてをさらけ出すつもりで相談室のドアをノックした。
7畳ほどの部屋に少し洒落た内装を施された相談室には、五郎先生が座って待っていた。
まずは朝の挨拶と、現在の体調を聞かれ、快調である旨を答える。それでは、ここからは先輩の「遁走」が、どのように始まったのか、その謎を解いていく時間にしましょう、と、五郎先生は言った。まずはご自身の人生を振り返ってみましょう。もちろん、語りたくないことがあれば、伏せていただいても大丈夫ですよ、との言葉に、私は自身の人生を振り返るのだった。
北海道の大都会、札幌で生まれた私は、物心つく直前に近郊の小さなベッドタウンに引っ越したと聞いていた。物心がつく頃、最初の記憶は、初めてできた地元の友人と雪遊びをしていたことだったと思う。新興住宅地であった実家の周りは、まだ緑にあふれており、道端に大きなクワガタムシが歩いていた、そんな写真も残っている。
幼稚園の頃は落ち着きもなく、家の周りをちょろちょろと走り回る子供だった。その割には少し臆病なところもあり、当時幼稚園で2大派閥、まぁ、今思えば可愛いものだが、その一方のリーダー的存在の男の子と、家も近くて仲が良かった。
やがてそれぞれ子供たちも、仲間たちとそれぞれの家にお邪魔して遊ぶようになったが、私はあまり人の家にお邪魔したり、招待することが得意ではなかったように思う。なぜだったのかな。
ここまで一気に語った私は、持参してきた麦茶を一口飲んだ。五郎先生はノートにポイントを書き込んでいるようであるが、逆文字読解の素養を持たない私には判読できなかった。こういう医者の取ってているメモは、昔から気になっていたのだが、一向に読み取ることはできていない。視線に気づいた五郎先生は顔をあげて、気になりますか、と聞いてきたが、大丈夫、気にしていない、と答え、供述を再開した。
何の話からだったか、そうだ、小さい子供の頃ののコミュニケーションが不得手だったことだったか。きっとおそらく、父親が苦手だったからだ。私の父は教育関係者で、しつけは厳しい方であった。仕事も忙しそうであったし、そんなところを邪魔するのはいけない、と、いらない気を廻していたのかもしれない。それが、もしかしたら八方美人となる原点であったのかもしれない。
一つ思い出した。あれは幼稚園の頃、冬にソリ滑りがしたいとわがままを言った私を、父が近くのそり滑りができる場所へ連れて行ってくれたことがあったんだが、あいにくとお休みの日だったんだ。癇癪を起して泣きわめく私に、父が一言怒鳴りつけた。すでにもう、なんと言っていたのかは忘れたが、あの一件で、父に逆らっちゃいけない、不愉快にさせると怒鳴られる、それと不信感みたいなものを覚えてしまったのかもしれない。
麦茶の残りを一気に飲み干すと、もう一本持ってきた分の蓋を開ける。まだまだ話は進んでいないのに、かなり集中力を持っていかれた気がする。
小学校へ進学した。私の通っていた小学校は、3つの幼稚園と一つの保育園から集まってきた子供達であったが、やはり出身の幼稚園の友達とずっと仲良く過ごしていた。水泳と空手を習い出したのも、この頃だ。まぁ、ほとんど遊んでいたようなものであったけれど、楽しかったのは覚えている。
ごくごく普通の小学校低学年を過ごした。ただ、父も夏休みが長かったので、その期間はキッチリと我が家の掃除に駆り出されて、そこまで手放しで楽しめる夏休みではなかったと思う。
高学年になり、この頃に初恋を経験した。はじめはよく分かっていなかったが、その頃に70年代フォークソングを家族で聞いたり弾き語りするということがあったため、その歌詞から類推して、自分が恋に落ちてるらしい、と把握した。結局、なにも伝えられないで終わったがね。
学校生活でも、勉強は出来た方で、その頃から勉強に対して慢心していたと思う。それと、学ぶ事の楽しさ、と言うものを、身につけられなかった気がする。
人を笑わせる事に、とてもやり甲斐を感じて、クラスの中では面白い人、という立ち位置になった。細かい記憶はないが、生徒会に入って、色々お笑い大会を企画したりしたよ。あの頃は、まだ向上心というものが擦り切れていなかったんだ。
少しずつ思い出を掘り返す作業は、精神的疲労も蓄積する。思い出したくない思い出や、痛みを伴う思い出を掘り返してしまうことがあるからだ。疲れを感じながらも、私ははじめての遁走までの思い出を再び掘り起こしにかかる。
中学生の頃の自分は、徐々に時代に追い付けなくなって、笑いの中心から、時代遅れの変わり者へとその立ち位置が変わって行った。家族で弾き語りをする70年代フォーク、特にさだまさしに心奪われて、その頃に流行っていた音楽を見下していた。アニメや漫画も見ずに、歴史シミュレーションゲームや、親の好きだった漫画にハマっていた。今思い返すと、あの頃は本当に、自分主体の趣味なんて無くて、ほとんど親の影響ばかりを受けて、それ以外を寄せ付けなかった空気を纏っていたかもしれない。逆らっちゃいけない、という念が、強く私の心を支配していた。勉強もそこそこ出来たが、あの時代に、自分独自の趣味や嗜好を発展させるという体験がなかったから、その後の人生で「上昇志向」が育たなかったのかも知れない。
自分の部屋はあったけれども、プライベートなんてなく、いつでも親は侵入してきたし、友達を家に呼ぶのは歓迎されていない様に感じていた。どこか心の中で、疎外感と寂しさ、自分なんてどうでもいい、という思考が、毒のように私の心に回り始めた時期なのかも知れない。
ここまで語った内容は、入院してからほぼ自身で思考してきた考察であり、メモを取ったりしてまとめたものをより深く練って考えたものであった。話し終わるまで五郎先生は最低限の相槌を打つに留めてくれたため、ひたすらに自分の考えをしゃべることに集中してしまっていた。
入院生活によって、人とここまで長い時間話すことがなかった私は、第一回目の遁走までの話を終えるまでの体力が持たなかったようで、五郎先生にここまででの中断を申し出た。先生は快く応じてくれたため、この続きは次回、二日後とすることとした。
カウンセリング終了後、五郎先生からは冷静な自身の人生の振り返りに驚きました、と言葉をもらった。私は疲れから、力なく笑みを返すばかりであった。いくらジムで体力をつけても、こういった会話の体力は短期間でひどく衰えるようだ。一応、電話での友人や家族との会話はしているものの、対面しての会話となると、別種の力が必要となる。そのことを五郎先生に伝え、私は自分の病室へ向かった。
病室への帰還後、私は何をする気力も起きなくなってしまい、久しぶりにジムを休んだ。昼食はいつも以上に素早く平らげ、購買でひそかに購入していたポテトチップスも、あっという間に空けてしまった。失った精神的カロリーを取り戻そうと、体が必死なのだろう。
その後はひたすらに眠った。夕飯を採った記憶はないが、どうやらしっかり食べてから寝たようである。