第二話 包丁と後輩
理歩と俺の家は駅から大通りを通って十分ほど歩いた場所にある。しかし俺たちは手を繋いで、大通りではなく人通りの少ない裏道を歩いていた。
大好きな彼女と手を繋いでいるだけで心臓の鼓動が早まる。何か良い話題が無いか思考を巡らせていたところ、理歩が弾んだ様子で聞いてきた。
「怜は私のどこが好きなの?」
「えっと、そりゃ可愛いところとか、髪が綺麗なところかな」
「それだけ?」
理歩が俺をからかうように、にやっと笑う。聞かれて困ることではないけど少し恥ずかしい。
「あとは、ケーキを美味しそうに食べるところかな」
「怜のお母さんの作ったケーキだもん。美味しくて当たり前よ」
「そう言ってくれて嬉しいよ。母さんも喜ぶ」
実を言うと俺は、ケーキを食べる彼女の笑顔に救われたのだ。昔、母さんは怖い存在だった。すぐに怒り、罵声が飛ぶのは日常茶飯事で、部屋の隅で縮こまって震えることしか出来なかった。
こんな日々が永遠に続くのかと途方に暮れていたとき、理歩は隣に引っ越してきた。近所の挨拶として家に呼ぶことになり、外面の良い母さんはケーキを作ってもてなした。そのケーキを見て理歩が歓声をあげ、美味しいと何度も言いながら食べていたのを俺は隣で見守っていた。
「怜君って幸せね。こんなに美味しいケーキが毎日食べられて、羨ましい。こんなお母さんが私も欲しいわ」
理歩のその言葉を聞いた母さんはその日以来ケーキ作りに夢中になった。
「私が作ったケーキでもっと理歩ちゃんを笑顔にしたいわ」
生き生きとした母さんは、今まで罵声を飛ばしていたのが嘘みたいにとても優しくなった。理歩が毎日ケーキを食べに来て、母さんを褒めて元気づけてくれるお陰で、怖さでうずくまることなく安心して過ごせる。
だからケーキを美味しそうに食べ、笑顔で母さんを褒めてくれる彼女は救世主であり、俺にとっては神様のような存在なのだ。この恩を返したい、そう思ってこれまで理歩の将来を壊さないように、小さい頃に宿った恋心を隠しながら支えてきた。でも隠すのも今日で最後だ。
「ねえ、怜。さっきから誰かに追われている気がするのだけど、気のせいかしら……」
突然理歩が立ち止まり、繋いでいた手を離して後ろを向いた。俺も確認しようと振り返ると五メートル先位にある電柱の陰に見覚えのあるツインテールの女性が立っていた。
「あーあ。見つかっちゃったか」
そう溜息をつきながら女性は俺たちのすぐ近くへ小走りで近づいてきた。鞄を地面に置き、腰に手を当てる。
カールのかかった茶髪を二つに分け、低い位置で結んでいるこの女性は確か、篠田さんだ。ふんわりとした雰囲気をまとっていて、誰にでも好かれそうな印象がある。
篠田さんは料理サークルの後輩で何度か顔を合わせたことがあるが、なぜこんなところにいるのだろうか。確か俺たちとは反対方面の電車で大学まで通っていた筈だ。
「ハグとかキスとか見せつけられて参ったのだけれど……ねぇ、怜、どういうことなの!」
きつい眼光を俺に向けながら、甲高い声で篠田さんは俺に詰め寄る。
どういうことと突然聞かれても意味不明だ。先ほどのキスを見ていたということはずっと後をつけてきたのだろうか。篠田さんに怜と呼ばれた覚えは今までに無く、ぞっと寒気がしてくる。
「……えっと、篠田さん、どうしたの?」
「どうしたのって……わからないの!?最低ね!地獄に落ちれば良いのに!」
怒りの籠もった声が耳を突き刺す。
「んーと、悪いけれどこの後予定があるんだ、この話は明日大学でしようか」
……なんか嫌な予感がするな。
「意味が分からないからとりあえず今は走って帰ろう、この様子では話にならない」
戸惑った表情を浮かべている理歩に小声で伝え、手首をつかんでその場を立ち去ろうとした。その時、篠田さんが不気味な笑みで地面に置かれている鞄から何かを取り出した。それをみて身体が固まる。
「何で逃げるのよ、怜。ちゃんと最後まで聞きなさいよ」
それは綺麗に研がれた料理用の包丁だった。理歩が怪我したら危ない。すぐに誰かに助けを呼ぼうと辺りを見回すが、裏道だからか人の気配がまるで無い。それなら警察に電話をしようとスマートフォンを取り出すが、隣にいた理歩に止められた。
「待って怜。この方は私たちの後輩でしょう。大学で見かけたことがあるわ。まずは話を聞きましょう。念のため、録音はしておいてくれるかしら?」
確かに後輩だが、流石に包丁は駄目だろうと反論しようとしたが、篠田さんが話し出す方が先だった。
「前に私たち一緒にホテルに行ったよね。もしかして忘れてしまったの?それ以降予定の日になっても月の物が一向に来ないのよ。それと、これ、見て。線が2本ある」
そう言って包丁を持っていない方の手を使って取り出したのは妊娠検査薬だった。判定と書かれた四角い枠に赤い線が一本入っている。その隣の終了と書かれた円い枠にも線が入っていた。これは妊娠している可能性が高いという結果を示している。
篠田さんの言葉の意味を理解した俺は声を荒げて言い返す。
「は、ホテル?何を言っているんだ?俺はそもそも、そういう経験一度もないし、俺が篠田さんの妊娠に関わってるなんてあり得ない」
「え、何を言っているの、怜。このお腹にあなたの子が宿っているのよ、見捨てる気?俺の子を産んで欲しいとか言っておいて、嘘だったのね、最低」
妊娠検査薬を鞄に戻し、お腹に左手を当てながら篠田さんは泣き出した。その狂い様をみて呆気にとられる。理歩の様子を伺うと目をギラギラさせて篠田さんを睨んでいたが、不意に悲しそうな表情を一瞬みせ、俺に視線を向けた。
「この方の話は本当に嘘、なのよね……記憶が無かったなんてことは無い?」
「ありえない。この頃家以外でお酒飲んでいないし」
「そう、よね……」
俺たちが小声で話していると、篠田さんは右手に持っていた包丁を上へと振り上げた。
同時に理歩が俺を守るように体制を整え、構える。理歩は柔道や空手を小さい頃からやっていて正直のところ俺より強いのである。本当は俺が理歩を守りたいところなのだが、運動が殊更苦手なので俺が前に出たら彼女の動きの邪魔になって逆に危ない。諦めて理歩に守られる。
「死ねば良いんでしょ死ねば!私もお腹の中の赤ちゃんも、死ぬしかないのよ!」
そう泣き叫びながら篠田さんは包丁を自身のお腹へと振り下ろした。危ないと俺が止めようとする前に理歩は素早く動いていた。すんでの所で理歩の手が篠田さんの手首をつかみ、捻る。包丁が手から離れ、飛んでいった。
「ねえ、死なせてよ、なんでよ。折角心から信用出来る人が出来たと思って怜の全てを受け入れたのに、こんな仕打ちするなんて、酷いじゃない!」
泣き叫ぶ篠田さんをみて少し可哀想に感じるが、何の心当たりも無く、困惑する。
「だから何度も言っているけど、俺は知らない。人違いだったりしない?」
「逃げる気なの?証拠だってあるのよ!」
そういって篠田さんは鞄の中身をあさり、録音機を取り出した。その間に理歩が飛んでいった包丁を回収して戻ってきた。包丁は理歩の鞄にとりあえずしまっておくようだ。
篠田さんは録音機に保存されている録音を再生した。辺りは静かなので、音は十分に聞こえるが、それは外で聴くような内容のものでは無かった。男女の息づかいとシーツの摩擦の音、そして会話が再生された。男の声は非常に俺に似ていた。理歩の表情がだんだんと無くなり、代わりに俺を軽蔑した瞳で見つめる。
「やっぱりこの方の言っていることは本当なのね、怜」
「いや、違う。これは異母兄の声だ」
「……異母兄?」
俺の父親は昔不倫していたらしい。俺が産まれる前、仕事に行くと嘘をついて、他の女の家に何度も通っていたようだ。
母さんがそれに気がついたときはすでに妊娠六ヶ月で、離婚することも考えたらしいが専業主婦でシングルマザーになるのは厳しく、俺のためを思って耐え、今まで育ててくれたという。
それを知って以降、俺は父親を父さんと呼ぶことは無くなった。
一度だけ、父親の不倫先の息子である異母兄に会ったことがある。偶然町中で自分と似た顔をした彼にすれ違った際、声をかけられたのだ。他人のそら似だと思い、興味本位で話をしてみたところ、異母兄だと発覚した。
異母兄とは、外見上殆ど違いが無く、そっくりだった。髪色と、俺と異母兄にしか分からない程度の声の高低の違いのみしか見られなかった。俺の髪色は母親譲りの日本人にしては珍しい薄茶色で、異母兄は父親と同じ漆黒だ。声は俺の方が若干高い。
それらの話を二人に伝えた。
「で、でも、怜だって名乗っていた筈よ。確かに怜って呼んでって頼まれたもの」
「異母兄が俺のふりをしたんだろう。なんであいつは俺の周りの関係とかそういう物を全て壊そうとするんだ……一体あいつに何をしたって言うんだ……」
「そ、そんな筈……」
篠田さんが絶望した目ですがるように俺を見る。
「髪は何色だったんだ、そいつ」
「確か黒だったけど……バイトとかで規定があって染めたのかなと」
「残念だけど、これまで一度も髪を染めたこと無いんだ……ごめん、篠田さんも異母兄の被害者だな。異母兄の連絡先は一応持っているけど、いる?……あと、異母兄の名前は確か涼太だ。広川涼太」
「連絡先はもらっておきます。まさか先輩のふりをした別人だったとは……」
そう言って篠田さんは静かに涙を流しながら俯き、これまでに起こった事柄をかいつまんで教えてくれた。
「三週間ほど前、授業が終わって一人で歩いていたところ、大学の門辺りで先輩を名乗った男の人に声をかけられたんです。レストランで豪華なディナーをごちそうしてもらったんですが、ワインを普段より飲み過ぎてしまって……そのまま言われるがまま身を委ねてしまいました……結婚しようとも言われて浮かれていたんです」
……あいつは結婚の約束なんてほのめかしたのか!俺を困らせるために、だろうな。
「それから予定日になっても月の物が来ないので一応検査薬で調べてみたんです。妊娠していると分かり、何としてでも先輩を捕まえて話をしようと授業を抜け出して教室前で待ち構えていたんですけど、なかなか先輩が一人にならないので後ろからこっそりとついてきてしまいました」
異母兄には、一度会ったときに俺の通っている大学を教えてしまっている。多分異母兄は、はじめから俺のふりをして酷いことをし、俺の評判を落とすとともに、己の欲を満たす計画だったに違いない。
大学の門前で待ちぶせをし、好みの範疇の女性に一人一人声でもかけて、俺と面識のありそうな人を探したところ、篠田さんに出会ったと考えるのが無難だろう。篠田さんが異母兄を素直に俺だと勘違いしたため、望み通りに上手く事を進めることが出来た。
俺への当てつけにしてもやり過ぎだろう。どうしようもない怒りがふつふつと腹の底からわき上がってくる。
「一度病院に行ってちゃんと検査してもらいな。親とも話した?」
不可抗力であったにしても、俺が関わった出来事には違いない。被害者の篠田さんは何も悪くないのだ。
「まだ、話していないです。ごめんなさい、人違いだった上に包丁まで振り回して……それに坂下先輩に許可無くタメ口をきいてしまっていましたね、本当にすみません……」
とても申し訳なさそうに何度も謝ってきた。篠田さんが悪いわけではないと伝えても首を振るばかりである。
篠田さんが先ほど馴れ馴れしい言葉遣いだったのは、異母兄にタメ口で良いと言われたかららしい。いつもと違う口調に驚いた程度で、そんなにタメ口か敬語かは重要では無いと安心させようとしたとき、理歩が口を開いた。
「怜は案外そういうの気にしない人だから大丈夫よ、それより、お腹に赤ちゃん、いる可能性が高いのよね、辛くない?大丈夫なの?」
そう声をかけながら理歩は上着を脱ぎ、篠田さんに着せた。そして心配した表情を浮かべて篠田さんに問う。
「家はどこなの?遠いなら今日私の部屋に泊っていった方が良いわ。怜のお父さんとも話せるかもしれないのよね?」
「ああ、一度俺の父親とも話しておいた方が良い」
そう提案したが、篠田さんは首を再度横に振った。未だ絶望した表情で辺りを見回すと理歩の鞄に目を止める。そして先ほど理歩が拾い、しまっておいた包丁を、チャックを開いて取り出し元々入れてあった鞄に戻した。そして上着を脱いで畳み、お気遣いありがとうございますと言って理歩に返す。
「私はもうこれ以上お二人には迷惑はかけられませんので帰ります」
篠田さんは今にも消え入りそうな声でそう呟き、駅へと向きを変えようとした。俺はすかさず肩に手をかける。
「篠田さん、それなら俺が家まで来るまで送るから理歩と二人で、ここで待ってて。理歩、篠田さんの家まで一緒に車に乗ってくれるかな。俺と車内で二人きりよりは理歩が隣にいた方が安心できるだろうから」
「ええ、もちろんよ」
「それなら車取ってくるからそれまで篠田さんは任せた」
そういって走って家まで行こうとしたところ、篠田さんに服をつかまれた。
「一人で帰れます」
「でも、妊娠しているのだから安静にしないと。それに間接的ではあるが、こうなったのは俺のせいでもあるんだ。ごめんな、俺の異母兄が。妊娠させるなんてあいつは一度地獄に落ちた方が良い」
篠田さんは唇を噛みしめ、俯いたまま身体を震わせていた。
「……ごめんなさい。妊娠しているというのは嘘なんです。そのこと以外は本当なんですが……」
「嘘……?」
「はい、妊娠したといえば、先輩優しいから確実に恋人にしてもらえる気がして、友達のお姉さんから使用後の検査キットを譲ってもらったんです」
「そうか……異母兄とホテルに言ったことは本当なんだよな?」
篠田さんはこくりと頷く。
「先輩に誘われたことで恋人関係になれたと勘違いして喜んで馬鹿みたいですよね。先輩の振りをした偽物だとも気がつかずに一人喜んで……次の日以降、先輩と全く会えず、連絡しても既読がつかない時点で諦めるべきだとは思っていたんです」
……連絡しても既読がつかず、か。篠田さんから連絡なんて来ていたかな。
疑問に思いスマートフォンを開いて確認すると、篠田さんからのメッセージを受け取り拒否設定にしていた。「みさき」という名前でメッセージが来ていたので誰だか分からず、内容も覚えがなかったためその設定にしたことを思い出す。
「本当だ、連絡くれていたんだね、気づかなくてごめん。それと篠田さんは馬鹿ではないよ、悪いのは俺の異母兄だ」
「先輩はやっぱり優しいですね……その先輩のお兄さんと会ってから予定日を過ぎても一向に月の物が来ないので不安になった私は、ドラッグストアで妊娠検査キットを購入しました。結果妊娠していないことが分かってその時はとても安心したけれど、もし妊娠していたら先輩と付き合って、さらに結婚まで出来たのでは、とか都合の良いことを考えてしまって……」
「それで嘘を吐いて俺と付き合おうとした、ということか」
「その通りです。先輩と恋人関係にさえなれれば、後で妊娠検査薬の結果は間違いだったとか言ってごまかしてなんとかなると考えたんです」
「そうか、大体の事情は分かったよ」
「先輩と付き合えないなら自殺するしかないかなって本気で考えて取り乱してしまいました。止めてくださりありがとうございます」
篠田さんはそういって深くお辞儀した。
妊娠は嘘だったけど、先ほど包丁を刺そうとしたのは本気だったのか。先ほどの情景を思い出し、背筋がぞっとする。
「妊娠だと騙した上に、それを嘘だと伝えずに帰ろうとするなんて、私って最低ですね」
涙を目にためながら、篠田さんは俺の目を見て自嘲気味に笑った。
「人間、みんなそんなものだよ。篠田さんに限らずね」
綺麗な人間なんていないと思う。みんなどこかしら歪んでいるんだ。
「だけど妊娠しているとか、そういう良くない嘘をつくのはもう二度としないって俺と約束して」
「はい、決してそのような嘘は吐かないようにします、不幸になるだけだと身をもって実感したので」
「そうだね。だけど嘘だと正直に話してくれたのは良かったし、素直に謝れるのは君の美点だと思うよ。俺は篠田さんと付き合うことは出来ないけど、相談には乗るから」
「私も相談に乗るわ。女同士の方が話しやすいことも多いでしょうから」
俺と理歩の励ましを聞いた篠田さんはにこりと笑ってお礼を言って帰って行った。
時計を見ると既に駅を出てから一時間ほど経過していた。
「気を取り直して、早く帰ってケーキ食べるわよ、怜!」
「ああ、そうだな」
理歩はこういうときいつも切り替えが早くて助かる。
再び理歩と手を繋ぎ、直接俺の実家へ彼女を連れて帰った。