第一話 友達から恋人へ
「付き合う意味って何なのかしら?」
困った感情を露わにした理歩に問われる。
「友達で良いと思わない?怜」
「突然どうした」
「また先輩に告白されたの。相手を振るのは疲れるからとても迷惑よ」
不機嫌な表情で彼女は俺の横に置かれている椅子に座り、黒い瞳を向ける。
「理歩って昔からモテるよな」
「彼氏とか面倒な存在を考えるより、美味しいケーキが食べたいわ」
理歩とは小学生時代からの付き合いだ。絹糸のような黒髪が特徴的で、この世のものとは信じられない程美しい光沢を放っている。顔立ちも整っていて、くりくりとした瞳で見つめられると殆どの男子は彼女に夢中になり、告白して惨敗するという道筋を辿る。媚薬でも使っているのではないかと疑うレベルだ。当の本人は全然自分の魅力を分かっていないから厄介である。
「それなら先輩の恋人になって、ケーキを沢山食べさせてもらえば良かったじゃないか」
「恋人でないとケーキを食べさせてくれない男なんてお断りよ。それに怜の家にいけば美味しいケーキを沢山食べられるのだから必要ないわ」
俺の母さんは洋菓子作りが趣味で、ケーキを毎日食べきれない程の量を作る。だから、余った分は理歩が大学の帰りに俺の実家に寄って全て食べきるのが日課だ。彼女は普段食が細いが、不思議なことにケーキだけは別らしい。あるときは十個ものモンブランを一時間かけずに食べきった。それには流石の俺も腰を抜かした。
「ああ、そういえば今日はいちごタルト作るって言っていたな……」
「ほんと!私それ大好きなの!早く行かなければならないわ!怜、帰る準備終わった?」
「そんなに慌てるな。少し落ち着け」
そう言って理歩の右頬を軽くつまむ。いちごタルトが食べられることに興奮していた彼女の笑みが一気に消え去り、ムスッとして口先を尖らせる様子を眺めていると全然飽きない。こんな可愛い子と家が隣で、正直俺は運が良いと思う。今日も天使のように可愛い笑顔でケーキを食べる彼女が見られるのか、と内心ほくそ笑んだ。
「そういえば怜、彼女作らないよね、やっぱり面倒だからなの?」
帰りの電車に揺られながら、理歩が聞いてくる。
「まあ、別にどっちでも良いかなって。それに理歩と違って告白なんて滅多にされないしね」
「そう……それなら、私と付き合いましょうよ」
「……へっ?」
突然のことに思考が追いつかず、間抜けな声が出た。理歩は長いまつげ越しにこれまで一度も見せたことの無い、熱を灯した瞳で俺を見上げる。
「……駄目かしら?」
「いや、駄目じゃないけど、理歩、さっき付き合う意味が何だって俺に聞いたばかりじゃないか。どんな心変わりだ?」
「洗面所で女子たちが話しているのを聞いてしまったのよ。料理サークルの内の一人が怜に告白するって言っていたわ」
料理サークルというのは、理歩のためにいつかケーキを作れるようになれればと思って入った大学のサークルである。ただ、メンバーの殆どが女子で居心地が悪く、最近殆ど顔を見せていない。
「そうなのか、あんまりサークルに誰がいたかすら覚えて無いけどな……」
「誰だかはそんなに重要ではないのよ。問題なのは、怜が女子と付き合い始めたらケーキが食べられなくなることよ!」
そういって彼女はそっぽを向く。
「いや、家が隣なんだから、俺が誰かと付き合い始めてもいつでも来れば良いじゃないか」
「何を言っているのよ!ケーキ食べに行って怜の彼女と鉢合わせたら気まずいじゃない。それに、あなたが彼氏になってくれれば私が周りから告られることも無くなるし、一石二鳥ね」
じとっとした目を向けながらそう彼女は言い放った。理歩の頬がやや赤くなっている。普段は強がりな彼女がこんな風に照れているのは珍しい。もっとそういう表情を見たくなってくる。はあ、と一息吐き、理歩に笑いかける。
「良いよ、俺、昔から理歩のこと大好きだし、断る理由は無いよ」
するとたちまち理歩の顔が真っ赤になり、視線を逸らした。今日はなんて良い日だろうか。長年、密かに片想いしていた理歩に付き合おうと提案され、しかもこんなにも大好きな彼女の甘い表情を見ることが出来るなんて、最高だ。
「そんな、大好きだなんて冗談簡単に口にするべきではないわ」
「俺は本気だよ?」
その後、しばらく沈黙が続いた。理歩は未だに俺から目を背け、何やら考えこんでいる。こっちを見てもらいたくて、白くて細い手に指を絡めてみた。一瞬ビクッとして目を見開いた彼女と視線が交わる。
「手汗が酷いわね」
あ、しまったと青ざめた。付き合って初めての恋人つなぎが手汗で不快な思い出になってしまうのは良くない。緊張しすぎて全然気が回っていなかった自分に苛立つ。ごめんと謝ってすぐに手を離そうとしたが、理歩は更に指の絡まりを深め、強く握ってきた。
「何で離そうとするのよ」
「だって気持ち悪いだろ、手汗なんて」
「……気持ち良いわよ」
「……え?」
照れた彼女は、ここが電車の中じゃなければ思わず襲ってしまいそうになる程のぞくぞくとさせる笑みで俺を上目遣いに見つめてきた。
「だから、怜の手汗だと思うと、その……な、何でも無いわよ、忘れなさい!」
理歩の焦りようが思ったより可愛い。笑って観察していると仕返しだとでも言うようにさらに強く握りしめられた。
「分かった分かった。だからそんなに握りしめるな、いたたたっ」
俺より握力の強い理歩に全力で握られるとひとたまりも無い。そうこうしている内に最寄り駅へ到着した。
ドアの開く音がし、理歩の手を引いてホームへと降りる。人の波から抜けだして彼女と一緒に端まで歩いていった。電車が発車したばかりだからか、この辺りは人一人としていない。
「怜、階段上がらないの?」
理歩が不安そうに辺りを見回す。俺はにこりと意味ありげに笑うと、指を絡めている手を自分の方へ引き寄せ、抱きしめた。
「俺たちはこういうことをする仲になったのさ」
そう耳元に囁いてみる。理歩の耳の端が赤く染まった。
……今日から理歩は俺の彼女なのか。
嬉しさについつい頬が緩んでしまう。触れあう肌を通して直に伝わる彼女の温もりを感じながら、俺はこの幸せな一時を堪能していた。だけどそれは長く続かなかった。
理歩が俺の両肘辺りの袖をつかみ、片方の膝に足をかけ、くるっと身体をひねったのだ。
突然のことに驚き、倒れて尻餅をつく。さらに彼女が肩を押し倒し、視界にホームの天井が映る体勢になった。無理矢理倒され、地面に叩きつけられた背中が少し痛む。
……一体どうしたんだ?
もしかして俺に抱きしめられたのが嫌だったのではないかと冷や汗が垂れる。もう少し様子を見ながらゆっくり段階を踏んでいくべきだったと後悔しながら表情を伺うと、理歩は頬を真っ赤に染めて俺を見下ろしていた。
……怒っているわけではなさそうだな。
訳が分からずぼーっとしていると、理歩の桃色に潤った唇が近づいてきた。
そして抵抗する間もなく接吻される。
初めてのキスは一瞬だったが、微かに甘いレモンの味がした。頭の中が彼女の色でいっぱいになる。
「私の勝ちね!」
理歩が満足そうな声で俺の耳元に囁いた。女子に押し倒されて初めて唇を奪われるなんてなんだか少し悔しいが、勝ち誇った彼女の笑みを見るとそれだけで心が満たされる。
俺以外の誰もこんな表情をみせる理歩を知らないだろうと一人優越感に浸っていた。
だからこのときホームの自動販売機の裏で佇む人影に気がつけなかった。