風の町
一話から最終話までです。
『風と駅』 紀遥
駅に風が吹いた。この地は内陸の盆地であり周りは高い山に囲まれている。その山の標高は高いために日の出は遅く日の入りは早い、そして高い自然の壁となした山に阻まれて海から流れてくる風は弱く、まるで風呂桶の水のように空気の塊がそこにあった。そこから流れる風は純粋に町そのものを空気として滞留し運んでくる。この土地の唯一風が通る道であるのが隣町まで繋がっている電車の駅とその横を通る道だった。個人的なことで私は駅が好きでもあり嫌いでもある。町の匂いが香る駅の好き嫌いはこの町の住民である私にとってはこの生まれ故郷が好きでも嫌いでもあるわけだと個人的に思っている。難しい理解しがたいことを言おう。町がなんとなく分かる気がしていた。それが一つの優越感と同時に劣等感を感じさせ私が主体となれる唯一の場所だった。
私の父方の祖父は鉄道会社の元職員で私がまだよちよち歩きもままならない時からその駅に良く連れて行ってくれた。そんな小さな時の記憶があるのかと言えば私の鼻が覚えているのか、祖父がそう言っていたのか、なんとなく私がそう思うとしか言いようが無かった。もしかしたらもっと小さい時、まだ嗅覚が発達しきらない時にこの駅にいたのかもしれない、そう思わせるほど私はこの場所を気に入っておりよく電車にも乗らず駅の構内に設置されたベンチに腰掛け時間が過ぎるのを待った。そしてお腹がすけば家に帰り、ご飯を食べ、風呂に入り、就寝する。そんな毎日を繰り返していた。
祖父が死んだ葬式の後、仏の乗った霊柩車は町の葬儀屋の火葬場で焼かれることとなった。私は葬儀屋の会場から霊柩車を見送った後、駅に向かって走り出した。私が普段見せない気迫で走り出したものだから、家族は悲しみに耐え切れず逃げ出したとでも思ったのであろう。その日は雲一つない風の流れが見えそうなほど暑く湿った日であった。私は不格好に喪服を揺らしながら駅に向かっていた。いつものように改札を抜けた。片田舎の駅は無人であり、料金を支払わなくても自由に出入りが出来た。私は構内の階段を駆け登り、上りの電車が来るホームに駆け降りた。そしていつも座るベンチに腰掛け、目の前で手を合わせた。指と指が触れ合い、私は目を瞑った。時間が進むのを待った。もう夕暮れが近く、町から風が吹いてきた。
突然涙が出てきた。あまり気分の良いものではなかった。それは不快だとか悲しいとかじゃなかった。風になったはずの祖父は町の火葬場から駅を通り線路に吹いて抜けて行った。もう二度と感じることが出来ない死者の風をまだその時は言語化することは出来ず。私はただ自らの脳裏に焼き付けた。涙は私の頬を流れ続けた。
祖父が無くなった日から数年が経った。駅のベンチで私はいつものように街を眺めながら時間が過ぎるのに身をまかせていた。高校生にもなっていつまでも駅で時間を無為にするのを家族は良く思っておらず、祖父が亡くなったこともあり、そのことを両親は声には出さないが隠そうともしなくなった。しかし、そうやって私が回りくどく責められることが逆に私を家に居づらくし駅に向かわせた。私としてはもうこの駅で「無益」に時間を過ごすことができなくなる日が近づいているからこそ、この時間が自分にとっては大切なものであった。私はため息をついた。私の前で電車か止まり、人の乗り降りの後、ドアが閉まり、電車は動いていった。電車は見えなくなった。
少し毛色の違う匂いを持った弱い風が私の鼻孔をくすぐった。それは人工的で、町の風からはしない甘い匂いであった。最近になってわかった、ある時間の電車から一筋の弱い流れが私にその匂いを感じさせることを。目の前で制服を着た女が颯爽と歩き去って行った。その制服には見覚えがあった。この駅からいくつか行った駅の近くの高校で私の通っている高校より品や頭の良い学校だということだった。このあたりから通う生徒なら高校受験したか中学受験か、少なくとも私はその女に心当たりが無かった。
数日の後、私がいつものようにベンチに座っていると声がかかってきた。それは緊張しているのか裏返っているようで高くそして耳に残る音であった。
「あの、すいません。何をされているんですか?・・・・・・」
町を眺めていた私の横にあの女が立っていた。私は自分の時間に浸っていたばかりに、虚を突かれ、飛び起きてしばらく静止してしまった。
「・・・・・・風を・・・・・・感じ・・・・・・」
私は咄嗟に自分の口を押さえた。もし仮に喉にまで昇ってきた言葉を吐いたならまるで痛い人になってしまう。私は焦り、顔を自身の腕で隠すようにしてその場を立ち去った。女の顔を見ないようにして女の傍を走り去る時あの甘い匂いがした。やはりその匂いは今まで嗅いだことのない魅惑的な匂いであった。私は振り返ることなく走り、改札を抜け、電灯の光を避けるように裏の路地に逃げ込むように走った。
「ただいま」
私は息を吐きながら小さな声でそう言って玄関から家に入った。玄関で靴を脱ぎ、二階にある自分の部屋に急いだ。一階の居間では祖母と母と妹がテレビを見ているのか笑い声がした。木造の階段は一歩ごとに軋み特徴的な音をたてた。居間から母の声がかかった。
「早いわね。ご飯はまだだから先にお風呂にしてね」
私は返事をすることなく階段を上がり自分の部屋に入った。扉を閉め、鞄を机の横に置こうとした時過去の自分を呪った。鞄が無かった。私はどうするべきか考えた。駅まで戻って鞄をとるか、明日になって取りに行くか、勉強道具は学校にあるのでその必要もないか、どうするべきか数十分悩んだ挙句私はベットに横になって寝ることにした。もちろんそれは狸寝入りであってふて寝であった。現在の心拍数が高い状態では寝ることすらできない。私は明日いつも通りに駅に行って落とし物コーナーに自分の鞄があることを確認できる未来を思い描いて心を落ち着けることにした。私はあの女が良識に則った行動のできる人間か心配であったが自然とそうであるという思いが強くなっていった。根拠は無いが逆に自分に危害を加えんとする人間があのように丁寧に声を掛けてくるか、逆説的に考えれば何とか材料に出来た。そして無理に納得してベッドに横になっていた。
「たーだー今―帰りました」
階下で声がした。父親の酒気の入った間の抜けた呑気な声であった。
「「エッ」」
祖母と母と妹の驚いた声が聞こえてきた。私はうつ伏せになって枕をかぶるような形で耳を塞いだ。しばらく時間が経った。ゆっくりと確実に階段を上がる音が聞こえた。それは複数の音であり、きっと四人分の音であった。私の部屋で囁き声で一悶着あった後ノックの音が聞こえた。
「おーい。起きてるか。何かあったのか」
父の声だった。さっきの声よりもハキハキとした無駄に低い声だった。あの女と鞄の事よりもこのことの方が私には心配だった。両親は私の行動を一種の反抗期だと考えており、それだったらきつく言うのは逆効果だと考えている節があった。直接的には何も言わなかった。だが単に反抗らしい反抗でもないことが不安であったのだろう。急に私が早く帰ってきたことに驚き不審がっているようだった。
「ちょっと開けていいか聞いてみてよ」
「おいおい。男にはなぁ」
「聞いてみるだけじゃん」
私からしたら何故早く帰ることがこんなにも変なことなのか、どこかあきれる思いと共に小さな怒りがあった。私は枕の端と端を強く握りなおした。
「大丈夫だから、開けないで下さい」
私はそう言って黙り込んだ。情けない声だったのか言った傍から私は自身の言葉を心の中で反芻した。
「わかった。わかった。」
「よし。解散、解散」
父の声がした。そのあとぞろぞろと階段を下りていく音がした。でも最後まで扉の前に気配を感じて僕は静止したままであった。
「お風呂わいてるからね。あと夕飯の準備もできるから・・・・・・持ってこようか?」
しばらくの沈黙の後、階段を下りる音が聞こえ、私は安堵した。
私はその日遅い時間になってお風呂に入った。ラップされて居間のテーブルに置かれた夕食をチンして食べた。食事をしながら今日の出来事を振り返った。あの匂いの女が声をかけてこなければいつも通りの時間を過ごせたのに、八つ当たりの感情が湧いてきては女から香った甘い匂いに言い難い感情を抱いた。その日はいつもより遅い就寝となった。
駅でベンチに腰かけていた。私はいつものように町を眺めながら呼吸をした。そうしていて何十分か経った頃、隣の席から声がかかった。
「何をしている」
くたびれてはいるがつばの部分は鏡のように光る鉄道員の帽子を被った私と同じくらいの青年が立っていた。私はその青年をまじまじと見た。私は立ち上がり、青年と向かい合った。青年は私を不審者か何かと考えているのか肩から腕の筋肉と顔の表情は緊張していた。制服をきっちり来ているところからこの青年はこの駅の鉄道員だろうか、手には黒く四角い長方形の武骨な鞄を下げていた。
「ただ、座っていただけです」
私は普段から考えている使ったことの無い常套句を使った。あの時何故同じようにあの女に対して対応できなかったのか私は不思議でならなかった。そんなこともお構いなしに私の内心を写すかのように自分の手の平から汗が伝わり落ちた。突然身知らぬ人に話しかけられてうまく対応できるほうがおかしいはずだ。こんなことで動機が早くなるのは正常なはずだ。私が考えていると青年が喋り出した。
「・・・・・・嫌。別に、隣。座っていいか」
駅の構内にはベンチは一つしかなかった。構外となれば老人たちが社交場としている石造りのテーブルと椅子が沢山あるのが見えるのだが、構内となれば私の座っている木のベンチだけであった。
「・・・・・・どうぞ」
私は落ち着いて声を出した。私はベンチに座りなおしてから端にまで寄った。青年は私の隣に座った。しばらくの静寂があった。私はいつものように町のほうを見たが頭の中で隣に座る青年のことを探っていた。
「君は電車が好きなのかい」
青年は尋ねてきた。そして頭に被った帽子の唾を少しさわりまた黙った。
「別に好きではないよ」
私は正直に答えた。別にどうということは無かった。たまに聞かれ且つ答えなれた質問でさらに続く質問にも答えが用意されてあり、さらに言えば私の中では会話の終点も決まっていた。馬鹿らしいことだと私でも思うがこうすることが私の内の思考を占めていた。
「じゃあ、仲間だ」
青年は嬉しそうに言った。私は次に答える用意していた言葉を飲み込んだ。私には「仲間」という言葉の曖昧さに疑問を持った。
「何でだい、私と君が仲間だなんて」
私は青年にむけて気持ち前のめりに言った。青年は私のそんな様子に短く小さく笑って言った。
「君は知っているかね。この駅には風が吹いてくる」
「あぁ、当然知っている」
青年は私の返事を待って次を話し始めた。私は「当然」という言葉にこの町の地理的条件から、多くの要因が風が吹くことの原因であるということも含めた。
「風は何を運んでいるか知ってる」
「知ってるよ。町の空気が流れてくる」
私は確認するように言った。だが
「そうだよ。よく解ってるじゃないか」
「ここに少し詳しいぐらいの人なら知ってることだよ」
青年は頷いた。私は物質的な空気の流れが確かであることは町の図書館の本で裏を取っていた。一時期に気になって調べたことが日々の自身の行動の基礎になったのか、その逆かは自分の中でもうやむやにしていた。
「何を感じる」
「感じる?・・・・・・この町の感じがなんとなく分かる?」
普段なら素性の分からない輩に対して答える事は無いが、目の前の青年になら言っても問題ない気がした。私は質問されたことに疑問を持ちながらも答えた。誰にも言ったことのないことを私はこの青年になら面と向かって言えるのか、自身のその判断に言った後に少しだけ後悔の念を生じさせた。私の言葉に青年は何か納得したように頷き、流れるように私の目の前で立ち上がった。私は青年を見上げた。青年は目深く帽子を被り直し
「ありがとう、話せてよかった」
そう言って後ろに一歩、二歩、三歩と下がり線路に天を仰ぎ見るようにして落ちた。青年の動きと共にあたりは暗くなり、私はどうすることもなくだたその様子をベンチに座り見ていた。丁度青年が線路に落ちた時、何処からともなくライトを照らした電車が通過した。私は立ち上がり腕を青年に向け伸ばした。私は助かるはずの無い青年に手を伸ばした。電車は煌めきをまとい私の目の前を走っていた。私の目は光に覆われた。
僕は起きた。
風と靴
私は起き上がり、呆然とした。掛布団を握りしめ、汗ばんだ手で口を覆った。そして何かを飲み込むようにして手の平を丸めた。眼だけを動かして時計を確認する。デジタル時計で夜中の三時〇分の時を示していた。一分間時計を見続けて時計が正確に時刻を刻むことを確認しこれが夢でないことを確認し安心した。何かの映画で見た現実か夢かの判断方法だが、そうやって安心を求めた。兎にも角にも頭を整理したかった。では私の見たあの駅でのことは何にあたるのか、最後に捨て台詞のように有無を言わさず去っていった帽子を被った青年が私には何を表しているのか。私はあまり夢を見るほうではなかった。だが夢を見るときは決まって何か自身とのつながりがあると考えていた。青年は粗暴な不審者のように人の庭に入り込んできた。だが彼のこの町に対する考えは言うならば、青年は私自身。それが私には余計に気に食わないと感じた。でもあの青年は私の脳が見せた私、私であることは否定はできない。私は乱雑に脱ぎ捨てられ床にへたれこんでいた服を掴んでベットに座った。まだ朝日が昇るまで時間があったが、駅に行くにはまだ早かった。
朝日が昇り、母が一番早く起きて、朝食の準備をしていた。私はいつもより早く家を出て駅に向かってからきっとあるであろう鞄を取りに行くつもりであったのでいつもより早くテーブルについていた。今日は土曜日であったので父親と妹とは私は顔を合わすことはないだろうと思った。祖母は私の隣の席で新聞を読んでいた。
「昨日、早かったね。帰ってくるの」
朝食を準備する母親が私に言った。彼女は手を動かしながら背中越しに疑問と心配が含まれているであろう質問を私にした。どうこたえるべきか私は思案し
「ちょっとね」
と言った。当然「ちょっと」何があったのか聞きたくなるだろうが、そこまで攻めてくる人ではないと私は考えていたが、それはちょっと違った。
「ちょっとって何よ」
母親は「ちょっと」の先が気になって聞いてきたのか、反射的な応対なのかわからないが可笑しいのか微笑、手を動かし続けながら聞いてきた。私としてはそれが面倒で「ちょっと」と言って何があったのか何があったであろうことは教えるつもりがないことを示したつもりになっていたが今日の母親には通用しなかった。
「あそこに行ったの?」
あそこって・・・・・・変な言い方をしやがる。たとえ私が駅に行ったとしても駅に行かなかったとしても、あそこと駅を表現しやがった母親に負の感情が芽生えた。私は私以外の家族・親戚を含め葬式に来るような人は駅をあそこと表現するのか、心の中で毒づいた。
「ちょっと早く帰ってきただけでしょ」
我ながら回りくどく被害妄想が酷く婉曲に説明しているが、こう牽制しとかないといけない気がした。
「そう・・・・・・」
母親はそう呟いてから私の前に目玉焼きとウインナーとお味噌汁を置いた。そして同じように三つそれらを置いてから席に着いた。私は
「いただきます」
と言ってから自分でよそったお茶碗を持った。そして箸を動かし食事をしていった。その間に私に向かって視線を伸びているのを気にしないことは出来なかった。私は音を立てて箸を置き
「ごちそうさまでした」
と言うと、流しの水の溜まった金属の桶に食器を重ねてからつけた。
「昇。今日おじいちゃんの法事だから家にいなさいね」
母親は洗面台に行こうとする私に向かって言った。私は祖父の法事と聞いて思い当たった。もしかしたら私の見た夢の青年は祖父かもしれないと。私の顎が上がり何かに納得して静止していたがその動きが不自然だったのか
「昇。あなた大丈夫?」
と母親は言った。
「大丈夫・・・・・・法事ね」
私はそう答えて洗面台に向かって歩いた。祖母は食事を済ませてまた新聞を読んでいた。
そのあと自室に戻りベットに横になった。仰向けで天井を見た。木の模様が目に入った。私は祖父のことを考えていた。祖父が死んで満六年、七回忌に当たる今日の日は晴天で暑く風は穏やか。そんなことを考えながらベットに横になって時間を過ごした。鞄は終わってからでも良い気がした。
家族は玄関で待っていた。私は靴の収まった棚の下のすきまから箱を取り出した。黒い革靴が出てきた。それは今の私が履くには小さかった。当たり前のことだった。
「そうか」
僕は一言呟いてからいつも履いているスニーカーに手を伸ばした。
「それはもう捨てなきゃなぁ。新しいの買っていくか」
父親の履いている黒光りした黒の革靴が見えた。私は顔を上げて父親を見た。
「また今日のためだけに買うことになるかもよ」
私はそう彼に言った。父親は少しだけ考えてから私の言葉に笑った。
「もう成長せんだろ」
私は父親が私の発言の意味をどう解釈したのか、私は立ち上がった。私は六年前に一度だけ履いた革靴をしまってから家を出た。妹と母親はもう車で待っており、私はスニーカーのつま先を地面でたたきながら車に向かった。
「昨日なんで早かったの?」
車のドアを開けると同時に妹が聞いてきた。もう一度話すのが面倒なので私はそれを無視してシートベルトを締めた。
「お祖母ちゃん。お兄ちゃんが無視した」
そう言って甘えるように癇癪を起して祖母に抱きついた。座席でドタバタするのがうっとうしかったが私は窓の外、車の進行と共に移り変わる景色を見ていた。
「早く帰っただけだよ」
そろそろ隣の妹が鬱陶しく感じたので一言、それだけを言った。ものを言わせぬ兄の威光を持ち合わせていなかった私は妹からの執拗な攻撃という問いが待ち受けていると思ったが妹はそれ以上は何も言わなかった。私はそれが気になって妹を見たら妹が何故か申し訳なそうに顔を伏せて座席におさまっていた。逆にそれが気になって私のほうから質問したかったがその気持ちを抑えた。車内には微妙な空気が流れた。なんとなく私は察したがこの空気をどうにかしようとは思わなかった。私は窓のほうに振り返ってじっと外を見つめていた。住宅街を抜けると大通りに差し掛かった、街道沿いには旗や行き交う人が祭りの準備をしていた。組み立てられた鉄パイプの枠組みの間からは世話しなく動き屋台の準備をしていた。祭りが始まるのが明日、駅から大通りを通り、その先無駄に長い階段を上るとお寺があってそこが最終地点であった。私は小学生のころよく駅からゆっくりとポケットに小銭を握りしめて縁日をゆっくりと楽しんだ。その日はあたりの町から人が駅にやってくるそれが私には何となく好きで、風が色々なものを運びそれを感じながら進み、スズメの涙の金を最後お寺に向かって投げつけた。私はそんな過去を窓越しに映る外の景色を見て思い出していた。
「昇。靴買わんか?」
数分の沈黙の後父親が言った。車を運転する彼は僕をミラー越しにちらりと見てきた。私は父親が冗談を言っているのかと思ったが
「うん」
と返事をした。別にどっちでも良かったがあの革靴は履けないのでそれもよかった。
「そうか。なら○○によろうか」
そういって次の信号で右折した。男二人でその○○で買い物をすることになった。
「時間大丈夫なの」
そう心配した母親に彼は
「すぐ戻るよ」
そういって出てきた。私は自分の履いているスニーカーをみた。もとは白かった部分が薄く黒くなっていた。だが黒い革靴と言えるわけではない。そんなくだらない事を考えながら私は父親の後ろについて店に入っていった。普段からお店に通っていたのか父親は迷うことなく男性向けの革靴の売っているエリアまで歩いて行った。私はこのようなお店に入ることは人生のうちでも初めてで周りは珍しいものばかりであった。私が周りを珍しそうに見まわしていると父親の声がかかった。
「昇。来なさい」
私は父親の隣に立った。沢山の革靴が陳列してあった。父親が見ている棚は一番安い革靴の棚で同じようで同じではない、革靴がきれいに整頓されてあった。
「この値段のやつでいいのあるか?」
私は上の段から右に歩きながら見ていった。父親はそう言った後に別の売り場に歩いて行った。私の目に留まったのはシンプルな、あの黒い革靴のような、単純な革靴であった。私は陳列されてあった物を手に取った。指を靴のかかとに引っ掛けるようにして持った。そして靴を裏返してサイズを見た。決まるのは早かった。棚の側面に於かれた四角い椅子に腰かけてスニーカーを脱いだ。革靴は固く紐を緩めても履きにくかった。そばに置かれてあった靴ベラで足を上手く滑り込ませた。かかとを地面で叩き、固定し、そのまま靴ひもを下から順に絞めていった。私は両足を履き終えて立ち上がりつま先を見た。つま先は丸く足の甲でしっかりと固定されているように感じた。私は置かれた鏡を見ることなく歩き、戻り、歩いた。そして父親のもとにまで歩いて行った。
「これに決めたよ」
そう言って止まった。父親はネクタイを物色していたがその手を止めて、私を見た。私の靴を見て
「それなら普段使いもできそうだな」
そう言って持っていたネクタイを吊り下げに掛けた。「じゃあ」と言って父親は店員を呼びに行った。そのあと父は支払いをすました。私は靴を履いたまま車に乗り込んだ。店員は車が敷地を出て行っても頭を下げたままにしていた。
「無難じゃないか」
車を運転する父親が言った。妹が私の足元を見て怪訝そうな顔をした。
「いかにもお兄ちゃんが選びそうな地味な奴ね」
私は妹が何でも難癖をつけようとしてくるのはわかっていたので
「そうだね」
と肯定してあげた。母親は
「靴はもう買わなくて済みそうね」
と言った。祖母は何を考えているのか分からないが何も言わずに私の足元を見た感情が表情に出ないのか出るのか判別しようの無い顔を祖母はしていたので特に何か分かるわけではない。私の履いている革靴は固く、履いていることに違和感があるものであったがそれは靴の一つの楽しみで許容できるものであった。私は靴の中で指を動かしてその感覚を感じた。六年前の自分もこんな風に感じていたのかは定かではなかったが、革靴を履くような機会がなかった私はきっと気分がよかったであろう。事実私は気分がよかった。安い革靴であったが地面を踏むのには充分であった。
法事が終わった。足腰の弱い祖母のために長くはしなかった。七回忌ともなれば家族の内で細々とやる、人は多くはなかった。
「ふ~。終わった」
そう言って妹は腕を空高く上げて背伸びをした。空には雲一つなく涼しい風が吹いていた。
「ちょっと用事があるから」
私はそう言って車に乗って帰ろうとしている家族に言った。誰も止めなかったが祖母が最後にこう言った。
「駅に行くならこれ持っていきなさい」
そう言ってティッシュに包んだものを腕に掛けたポンチョから取り出して渡してきた。私は祖母のしわくちゃな手に持つものが何か知っていた。ティッシュに包んで千円札を渡すのが祖母のやり方であった。
「ずるい。お兄ちゃんだけもらって」
そう言って車の中から妹が体を乗り出してきた。祖母はゆっくりと振り返り妹にも同じものを上げてから私に向き直った。
「何か食べてきんさい」
そう言って祖母は車に乗っていった。私は家族が出ていくのを見送ってから背伸びをした。風に揺られて手に持ったティッシュがなびき私の手から離れていった。私は手に五千円札を持っていた。祖母の真意は分からない。季節は夏、晴天で直射日光が暑く、風は涼しく感じた。
私は各制服の右ポケットに祖母からもらったものを入れて駅に向かった。もう何にも邪魔されることなく一本道を歩いていた。私が法事中に何を思っていたか、祖父の命日であった昨日の夜の夢のことを考えていた。青年はきっと鉄員、叔父であり私であった。色々なものがないまぜになりそれが日ごろ溜まったストレスか何かが開放された訳だろう、そう思う。感謝はしないがあの女とは話がしてみたいと自分には似合わない考えだが私は思い、駅に向かう私の足取りは自然と軽くなった。私は何かが知りたかった。靴の違和感かもしれないが本来の予定を完遂することができるだろうことに私は安心し同時にその先に不安と何かがあるのではないかと思えてしまった。
駅に着いた。人の出入りは無い。お昼時に駅を利用する人はおらず駅構内では人っ子一人おらず閑散としていた。周りの伸びきった木々が風に煽られ擦れて揺れる、その音と虫や鳥の鳴く声もした。なかなか趣のあるのが今日の駅だった。私は駅前の自販機に五千円札を突っ込んだ。そして高いほうの炭酸飲料のボタンを押した。
ガシャン
と音がした。私は中腰になって自販機の口に腕を伸ばし冷え切ったペットボトルを手に取った。お釣りをズボンのポケットに入れた。片手でボトルを持ちながらもう一方の手で夏服の上のボタンを外した。
「暑いな」
そんな独り言が出てくるほどに日が頭上で輝いていた。
「よし」
と言って、駅構内に入った。そしてボロボロになって誰も座らなくなった朽ちた椅子の奥にあるごみ箱の横に置かれたプラスチックの箱を見た。そこには沢山の種類の落し物が入ってあった。基本的には落し物は時間と共に集約すべき駅に送られていくべきだがこの町の駅は無人駅であり落し物の量も少なければもし仮に落としたとしたら車両の中でなければ基本的に駅の利用者である元の持ち主に自然と帰っていく。だが例外もあって例外なだけに不気味な落し物が多い。経年劣化したものが大半でそれさえも処分されずに構内の隅に安置されている。その中で二つ異色のものがあった。まず私の革の鞄。乱雑に折り重なった忘れ物の中で箱の側面で立つようにしておかれてあった。私はわかりやすいように意図的に置かれていたとなんとなく感じ拾ってくれた恐らくあの女であろう主に感謝しながらその鞄を手に取った。もう一つ、私は一つの熊のぬいぐるみに目を付けた。真新しいわけではないが古くもない最近になってこの箱の仲間入りをしたものであるのがなんとなくわかった。きっと持ち主は幼い子だろう。女の子か・・・・・・。でもここにあるということは案外忘れられたもの、忘れられるほどのものだったのだろうか、色々妄想してしまう。私は熊のぬいぐるみを手で転がしながらそんなことを考えた。駅の落し物はなかなか面白いものだった。私はひとまず自身の目的を達成し安堵した。熊のぬいぐるみをそっと箱に戻して、構内に入り、いつものようにベンチに座った。今日は特別に砂糖と炭酸を味わうことにした。予想通りに事が運んだことに私は幸せを感じた。これだけで幸せを感じるのが私であることは自覚している。こうして駅構内に侵入してベンチを占拠することが、これが幸せだと理解されないのも理解している。でもこのことを卑下してはならないとも考えている。それが夢のお告げである。私は一本の炭酸飲料を飲み干すまでに夢の意図を考えた。それは素人考えの夢診断だ。きっと私以外に駅のベンチに座り続ける意味の無い行動を起こしていなのはそれはそれで貴重なもので客観的に見て不審者であっても私自身これは高尚な行いであると考えた。夢にまで駅が出てきて、そこでベンチに座っている。こんなにまで純粋な人はいるだろうかそう考えた。町から吹いて来る風はいつも通りジメジメした暗い色が少し混じった喉に引っかかりそうな、そんな風であった。たとえ空にまで突き抜けんばかりの雲一つ無い晴天の下であっても駅に吹く風は変わらないものだった。
風と嵐
口いっぱいに広がった甘い味が鼻の鼻孔まで侵入していた。だが甘い炭酸水一本でお腹は満足はしなかった。きっと家族は何処かで御馳走でも食っているだろう。私は立ちあがり駅前の中華屋さんに行くことにした。
「また居る」
声が聞こえた。その声は特徴のあるハスキーな声で昨日聞いた女のものに似ていた。私は声のする方向を向いた。そこにはやはり女がいた。肌色のワンピースに麦わら帽子、今の季節に合った服装であったがやけにきまっていた。髪は黒く短い、ボケっと突っ立ているその容姿からは幼さが感じられた。私は女の発した言葉があまり気に入らなかった。鞄の件は感謝するが私が何をしようが私の自由であろう。過去の自分がこの女と話したいと思ったことは驚くべきことで、私は首を傾げた。
「こんにちは」
でも私は常識的に初対面の方には挨拶をする。その言葉に女はちょっとびっくりして顎を少し引いたが、すぐに言った。
「こんにちは」
相手のペースでしゃべる必要はない。私はつづけた。
「鞄、ありがとうございました。落し物入れに置いてくれて。それじゃあ」
そう言って僕は足早にこの場から逃げようとしベンチから腰を上げた。
「ちょっとっまちなさいよ。質問に答えてないじゃない」
女は私が聞かれたく無いことを立ち上がった私に向かって言った。私は顔上げて女の顔を見た。俗に言うと美人の部類であった。日焼けした肌に一筋の汗が流れた。どうやら私の顔は怖かったのか口の端が左右に引きつっていた。
「質問?」
私はわざと知らないふりをしてこの場を乗り切ろうとした。答えて私に何かメリットがあるように思えなかった。女は私の言葉にひきっつていた顔の口が動き、そのあとため息をついた。私から見たらため息をつかれた。
「昨日の夕方。あなたはここで同じように座っていたでしょ。その時に何で座っているのと私は質問したと思うのだけれど。もしかして忘れたの?」
忘れられることなら忘れたいことだが目の前の女によって事細かにその時のことが思い出されて差恥心に苛まれた。あの時にもっと上手く対応出来ていれば何事もなく、ただベンチに座れていただろう。一つの運命だろうが容易に別の道も自身の動きによっては辿れた。私は次の選択は間違ってはならないと思い、軽く息を整えながら思考した。どうすれば何事も無く、ベンチに座っていられるか、それだけを考えた。「忘れた」の一言で終わらないのは女の言葉からにじみ出ていた。きっと同じ質問を繰り返し付きまとわれるだろう。私は何と言えば彼女は何も発することなくこの場から去ってくれるだろうか考えた。彼女の視座に立って
「何故ベンチに座っているのか?」
という質問が出てくるのか、駅のベンチに座っていることは別に不思議なことではない、一見してみると私は次の電車を待っている利用者である。ただ私は次の駅など待ってはおらずただ町を眺めているに過ぎない。そこに彼女は気が付いて何故と疑問に思い、思わず声をかけたのだろう。何故彼女は気が付けたのか、気が付いたとしたらいつから気が付いたのか、気が付いたのち何故声をかける気になったのか、それが疑問であった。私はほぼ毎日同じような道を通り駅に行き、大体同じ時間に駅に着いてベンチに座っていた。彼女は私が駅に座っている間に駅を利用するのだろう。その時に私を確認しておりそれがここの町の高校の生徒であり、通常ならば駅のホームと電車の行き先の関係上彼女が乗っていた電車に乗って帰路に着くはずであると予測できるが、私が一向にベンチから立ち上がらないのを不思議に思って、それが毎回のように続くので不思議に思って声をかけたのだろう。このように私は予想した。
以上のことを考慮した上でどう返答すべきか考える必要があった。あまりに私が考え込んでいたのかここで女が喋った。
「そんなに考え込むことなの」
彼女の言っている通りだった。きっと目の前の女は自分の好奇心を満たしたいだけで論理的な納得できる回答を聞きたい訳ではないだろう。そもそも私は昨日と同じように女の横を鞄を持って通り過ぎれば済むことだろう。失敗するとしたら鞄を忘れることだけでそれは今私が手に力を込めている限り大丈夫であった。だが「質問」とやらに答えずに無視して帰るのは誠実ではないように感じた。彼女には鞄を届けてくれた恩がある。それを仇とまではいかないまでも無視して帰ることはどうにも私の良心が腐ってしまうようで決断することは出来なかった。でも真実を答える義理もなかった。私が考えていると一筋の風が吹いたその風は女の匂いを運んで来た。それは口の中に広がっていた甘い香りとは違い汗と人工的に造られた香料が混ざった官能的な香りであった。私は思い出した。何故こんなにも彼女を避けるのか、避けようと思いもしたが話してみたい、会ってみたいと花に惹きつけられる蝶々のように足取り軽く駅に来たではないか、私は自身の中で矛盾が生じていることに気が付いた。
「・・・・・・長くなるけどそれでもいいなら座ってよ」
私はベンチに座った。自分でも自分の口から穏やかに流れる風のようにして言葉がこぼれ出る。そして女から顔を外して町を眺めた。どうにでもなれなのかどうにかなるかどうにかするのか、私にも明確にこうだと言うものは無かった。この状況による思考能力の衰えを感じる。これはまずかった。今そうなってはこれから起こる出来事に対して適切な対応ができるだろうか自身は無かった。でもこんな風が吹く日があってもいいように感じた。そう割り切った自分から自分が分離して俯瞰した視点から自分を見ていた。そこには隣に座る女性は無かった。
「短くお願い・・・あとお腹がすいてるなぁ~~」
私の耳に届いた言葉に僕は握りしめる手の握力がつよくなり、女の方を向いた。女はわざとらしく笑い、先ほどの仕返しか、何処か満足そうに顎を上げて私を見ていた。私はため息をつき鞄を持つ手を離した。手を座席に置いてから再びため息を吐いた。私は目の前の女が一時であってほしい嵐であることに気が付いた。そして観念した。
「中華にでも行こうか」
私は女に向かって言った。女は頷いてわざとらしく優雅に回って歩いて行った。
風と西村静香
私は立ち上がり、女について行った。陽気に足を運んでいる、夏風に吹かれる女の後ろ姿はこの夏の背景と上手く調和していた。もちろん彼女から香る、私の鼻腔を刺激した空気も同様に私と調和しているだろうか。それは私にはコントロールすることのできない事象であり調和も何も無かった。
「そう言えば名前は?」
私がなかば慌てて人に言えないそんな嗜好に戯れていると、前を歩く女は軽いフットワークで振り返り質問をしてきた。おかしなことだが今更何を聞いてくるのかと私は感じた。だが女の言った通り自身の名前を明かしてはいなかった。しかし自分から名前を明かすほど、目の前の迷惑な女に酩酊はしてなかった。
「出口です。君は」
僕は嘘をついた。私の本当の名前は山郷昇であり、出口では無かった。私は思い出にしたかった、それも無意識に。この女との出会いを思い出にして、私は日常に復帰して駅から中華店を視界の隅にとらえてそう言えばあんなことがあったなぁと思い出にふけること。その映像が浮かんだ。だからこそ三度も会うことがないように願いも込めて偽った。自分の考えていることの意味が分からなかった。脳内で沢山の映像が崩壊しては女と共に現れた。私は一つ大きく唾を飲み込んだ。人生のアクセントを楽しもうと思った。数秒の間があり、目の前の女は考えるふりをしているように見えた。私は最後、知らない人に名前を聞かれても答えないというごく一般的な平凡な答えにたどり着いた。一瞬を駆け巡り自分の人生に芽生えてた歪みを摘み取り、自身を肯定した。
「出口君ね、よろしくお願いします。君はねぇ西村静香と申します」
ぎこちないのかわざとなのか私には分からないかしこまった言葉が一礼と共に行われた。女は純粋な笑顔だったのだろうが、私にはそうは見えなかった。
「よ、、、、、、、よろしくお願いします・・・・・・」
だが不甲斐ない私は反射的に礼を返して、口からは言葉がぎこちなく漏れた。私は噛んでしまった恥ずかしさに顔を伏せつつも、すぐに女のおちょくるような記憶の歪んだ笑顔に腹がたった。私は出来るだけ笑顔を作り、顔を上げた。きっとそれは口角が不自然に上がった不細工な表情であっただろう。目の前には西村は居なかった。駅構内の階段を上がり、一段飛ばしで、麦わら帽子を手で押さえて、哀れも無く、生足をちらつかせながら登っていた。
「お~い、出口君、出口まで競争しよう。負けたらおごりね~」
彼女は階段を登り切り、跨線橋の小窓からこちらに手を振っていた。私の目からもともと薄い光が失われた。私は数分前の私の行動を呪った。誘うべきでなかった。アクセントでは無かった。ただの愉快犯であった。私はその考えが頭の中で反復された。まだ私の耳に西村の声が聞こえる。聞こえてはいるが言葉の意味を私は知ろうとも知らずともよいことで、駅構内、アスファルトの地面の上で私はただ立っていた。彼女の声が横から聞こえてきた。そうか彼女は出口についたのか、そんなことはどうでもよかった。駅構内、蝉を含めた虫の鳴き声が私の鼓膜を揺らし、照り付ける太陽の光は周りで風に揺られる木々から反射して私に降り注いだ。その光さえも音を持つのか、頭がすっきりとしながら重たい湿った感覚に囚われていた。風が吹いた。風は体を通り抜け、私は軽い微熱感を感じた。また私の鼻に甘い香りが入ってきた。私は右を向いた。やはり私の視界には西村が居た。私は彼女を見つめていた。彼女も私を見つめていた。電車の発着音が鳴り出した。規則的な電子音が鳴る。
「まもなく、、、、、、」
決まった駅構内放送が流れた。西村が改札を出ることなく待っており、歩き、近づいた。私は甘い匂いを感じた。あの彼女の匂いであった。電車が遠くからやって来ていた。私は彼女がまた一歩近づいたことが分かった。不思議そうな顔をしていた。手を上げて私に彼女が手を振ろうとした時、電車が彼女の前を通過していった。それは数十秒の出来事で、電車が止まりまた発進すればそこにはそこにいた人がおらずいなかった人が改札を目指すだろう。電車が止まり空気の抜けたような音を共にドアの開く音が鳴った。少ないが人の出入りする音が聞こえた。私は走り出した。走る程に西村静香の匂いを感じられた。走る程に、階段を駆け上がる程にそれを感じた。いつものように静かに靴で一段ずつ上がることを私はしてなかった。こんな風に本気で走ることは無かった。階段を上り切った。両側に飾られた祭りのポスターは舞い上がる炎を描いていた。それが道となっていた。私はその炎の中を、匂いの強くなる前に向かって走った。電車の扉の閉まる音がした。
「1番線、ドアが閉まります。ご注意ください。」
アナウンスが鳴った階段を下りる。いつからだろう、階段を飛ばさずに降りだしたのは。顕著は無かった。履きなれていない靴がバランスを崩す。もう数段で階段を降りきる。大きく足を伸ばした。着地した。足が滑った。前のめりのまま走った。汗が地面に落ちた。私は転びそうになったのを何とか足で踏みとどまった。電車がすれ違いに動き、何処かに走って行った。私は息を整えようと、まえかがみになって何回か深呼吸をした。そうしている間にも流れてくる匂いがやはり私を刺激する。腰を屈めて腕に両手を置いて激しく呼吸をする私に近づく足音があった。私の前で止まった。私は顔を上げた。どうやら戸惑わせてしまったのか私を心配そうに見ていた。
「負けず嫌いなのね・・・」
私はその言葉に皮肉っぽく笑った。
「・・・・・・僕の負けか・・・・・・?」
私はそう言って西村の横を通り抜け改札を目指した。ここまで来たのなら相手のことを考える必要は無い、西村の言質も取った。まだ勝負はついていない。私は後ろから音がしないので振り返った。私を見る彼女が居た。どうやら怒っているらしく、機嫌の悪そうな顔を私に向けていた。私は内心、たまたま走ったことがここに来て裏目に出ようとも、彼女の機嫌を損ねようとも・・・・・・。私は立ち止まった。そしてため息をついた。自分の頭の中でこれから食事をしようとする相手を見て、納得した。彼女は私の前を顎を少し上げて抜けていった。
「私の勝ち・・・おごりなさい」
彼女は振り返り、笑顔になって言った。電車は戻ってはこない、時間は進む。私は仕方ないと思い、軽い足取りで改札を通り抜けた。それを見て西村は笑った。
二人で中華の店に向かった。会話は無かったが私は十分に体験したことの無い空気を楽しんだ。数歩先を行く、西村は楽しそうにしていた。そんな様子を見て、口角が上がった。甘い匂いが流れてくる。横断歩道を渡る。その時ふいにある後悔の念が浮かび上がった。私は不味く重い首を傾けた。嘘をついた。ただそれだけだっただがその歪みは正されてはいなかった。具合が悪いそう言って逃げ出したいという思いがその考えのもとに生まれた。損得ではなく、西村という女性に対してこれまで感じたことの無い感情が沸いてきた。そうやって考えていると彼女が中華の暖簾をくぐるのが見えた。私は逃げ出そうと考えたが、それも叶わなくなった。私がおごる約束であった。思い返せば唐突な仕掛けを、了承無く始まったことだが、それぐらいの甲斐性が私にあることを内心確認できた。私は中華の店に入って行った。
風と中華料理店
店に入る以前から感じていたが、中華料理店特有の匂いが鼻に付いた。それは別に嫌なもので無かった。むしろこれから食べる食事の舌、腹になるので好都合であった。相席する相手は除くが本来の予定を達成しようとしていた。私は重い足取りで暖簾をくぐった。匂いはさらに強く私の食欲を刺激した。私が店内を見回すと盛況なようで、店主の奥さんや黙々と食事をする客で店に熱気があった。
「お~い」
声のするお店の奥を見たら、窓側の座敷に座るテーブル席に西村の姿が見えた。手をこちらに向けて振っていた。それとすぐに店主の大きな声が響いた。この店には家族でよく通っていた。父と店主が知り合いであるから、当然私のことも小さい頃からしているはずだった。だからとでも言えなくは無いが、その声がいつもと違うように感じた。確かに女性を連れて入っていくことはこれまで無かった。私を見ている西村を見た。私には呑気に水を飲んでいるように見えた。私は気にしすぎだと考えて、身を小さくしてから客の間を通って行った。奥まで行くとその席に着いた。靴を脱いで、踵を合わしておいた。隣には西村が履いていたサンダルがそろえて置いてあった。私は座布団に座り西村と対面した。やはりこの店は熱気が充満しており暑かった。
「はい、ど~ぞ」
そう言って彼女はお冷とおしぼりを私の方にスライドさせてきた。この店の暗黙のルールとしてお冷などの細かいことはセルフサービスであった。家族で来るときは大抵の場合、私が担当することになっていた。だからか目の前の彼女が以外にも気の利く良い女性だと感じた。それも自意識のなせることなのか、それともおごられる彼女がそうさせたのか
「どうも、ありがとうございます」
そう言って頷いだ。彼女は嬉しそうに笑ってから、もぞもぞとし始めた。私はその様子を見ていた。彼女は横に置いてあるメニュー表に手を伸ばした。私は咄嗟にある考えが浮かんで行動に移した。
「すいません」
私はそう言ってから手を天高く伸ばした。その声に反応した店員の奥さんが高く長い声を出した。目の前の西村は手を伸ばしたまま固まっていた。しばらくすると奥さんがやってきてエプロンの中からペンと注文表を出してめくり構えをとった。私はそれを確認したのちすらすらと注文していった。いつものメニューから自分が嫌いな、卵とじを抜き、餃子の量を二人前で、〆のラーメンを抜いた。
「以上です」
そう言い終わってから西村の方に向き直ってお冷を飲み干した。奥さんは注文を確認したのちお店で使われてる略語を店主に向かって大きな声で言った。彼女はこちらに向きなおっており、メニュー表を手にしていた。何故このような行動をとったのかあまり考えることは無く私も負けじと彼女を見ていたが時々お冷の方に目を向けた。しばらくして彼女はため息をついてから素早くメニュー表をもとの場所に戻してから窓の外を見始めた。
「負けたら、おごりはそうだが、何を食べるかは決めてなかっただろ」
私はこの言葉を言った後になってそもそも余りにも強引に了承を取られたことを思い出した。この言葉を聞いてもなお彼女は窓の外を見ていた。私は子供じゃあるまいし、それ以上のことは言わなかった。数分間の沈黙があった。私は店内を見ていた。やはりお祭りのポスターが壁に貼り付けてあったが、変色した数年前の物もあり、私の隣に今年のポスターが張ってあった。
「よく来るの?」
突然西村が質問してきた。どうやら納得しているのか怒った表情はしてなかった。私は頷いた。
「よく家族と来るんだ。いつものやつを頼んだよ。嫌いなもの抜き、少な目でね」
彼女は相槌を打った後、お冷を飲み干した。そしてお冷の入ったポッドからコップに水を注ぎだした。注ぎ終わり次は私に向かってポッドを向けた。数秒の間、私は彼女が血迷ったのか水をかけるつもりだと思い警戒したが、私の空になったコップに向けていることに気が付いてすぐに手を伸ばしコップを掴んだ。女性座りしていた彼女が少し身を乗り出そうとしていたので、私はコップをさらにポッドのもとに伸ばした。
「どうも」
私はそう言った。彼女はそのままの体勢で頷いた。
「別に怒ったりしてないから・・・そんなことよりも聞かせてよ」
彼女はポッドをテーブルに置き、私に向き合った。私は怒らせるためにやったことでは無いと言い訳しながら、それ以上に彼女の質問に答えることに抵抗があった。彼女の聞きたいことはもちろん私には分かっていたし、確かに私から説明しようと了承した。私はしばらく沈黙していた。彼女の視線を感じながら思考を巡らせた。これ以上嘘を重ねることは私の良心に沿って憚られた。そもそもだがあまりにも彼女のことを知らなさすぎることに私は打ち明けることをためらっていた。彼女が何故知りたいのかを逆に私は知りたくなった。その後で判断すればいいことだろうと私は考えた。まだ食事は来ないだろう。私はそう思いコップを持ってお冷を少しだけ飲んだ。
「西村さんは何で知りたいのかな?」
自分の声が普段より高いことが自覚できた。私は水を飲み込んで潤った喉を感じた。彼女がその言葉を聞いて少し考えるようにして顎に手を当てて首を傾げた。
「えっ・・・不思議に思ったから」
返答は思いのほか早かった。そこで私は西村に抱く思いを整理した。目の前の彼女はおそらく不思議大好きな、不思議ちゃんだろう。であるとしてたら、私の選択は間違いでは無かった。私はもう一回水を飲んで覚悟を決めた。彼女は自分の言葉に納得したように相槌を打っていた。私はそんな彼女の不思議を隅の隅まで解決しなくては、考えた末に私は私の憩いの場を奪われるだろうと考えた。ただ普通に食事をして解散したいのが私の切なる思いであった。私は悩みに悩んだ末、本来の考えとは毛色が違っていたが、外で走る電車を見て思いついた。だがおそらく嘘を含んでいた。それは自分にも分らなかった。
「祖父が鉄道員だったんだ・・・もう死んだけど」
死んだけど・・・私はこの言葉で相手の思考をコントロールしようとしていた。それが言った傍から口の中を苦く、粘度を感じさせた。不味いと感じ、水を欲したがコップには結露した雫が流れていただけであった。コップに水が注がれた。真剣になった顔があった。音を立てて水が満たされていく、私の直観もそれと同時に失敗を悟った。きっと目の前の西村静香とはそれを本気でやっていた。気遣いも心配も、私の話も、自身の疑問にも。これでは私が損だと思ったが、自業自得であった。ポッドを置きなおしてから目を私に合わせてきた彼女はそれから促すようにして目玉と瞼が動いた。私は水をまた飲んだ。眼が開いており、周りが見える。私たちがどんな話をしているのか露程意識をしていない人々が居た。今更だがカフェとかにしとけばよかった。そう思っても現状に活路は見いだせなかった。私はコップを置いてから、深呼吸をした。
「はい、おまちどうさま」
奥さんの声と皿が同時に湯気を伴ってエビチリ、青椒肉絲、酢豚、餃子が二人の目の前に置かれた。救われた、私はそう思った。私は目の前の香ばしい香りを嗅いで、目を輝かし、口角を上げた。西村はそんな私を見て手を前に出した。
「ちょっと、まだ」
私は言い切られる前に箸箱から箸を取り出そうとした。そして彼女の分まで二膳をつかみ取り彼女の前に置いた。取り皿を二枚、餃子のさらに直接ラー油とたれをさした。
「いただきます!!どうぞ!!」
私の声は思いのほか大きかったかもしれない。西村はむっとして不満そうにしてため息のあと手を合わせて
「いただきます」
とぎくしゃくと言った。それから小さないざこざが頻発した。まず最初に餃子の食べ方、どれだけ自分のさらによそうのか、最後の肉一切れの争奪戦、当然もう彼女はお冷をついではくれなくなっていた。はたから見れば行儀は悪かった。お互いにけなしあい関係は悪かった。だが最後には笑いが漏れた。そうしているうちに私は本当のことを話してもいいように思えた。私は手を後ろに付きながら天井を見上げた。案外近く、周りを見れば判読不可能なメニューの札が並べてあり、ビールを持った外国の美女が見えた。換気扇が音を立てて周り、ぞろぞろと人が出ていく、店主が中華鍋を回しコンロと打ち付け音が鳴る。いい匂いもまだ私の鼻腔に充満していた。女将さんが略語を元気よく言った。私は店にある古いジャンプでも読もうとか考えた。その前にお冷を一杯、口に含みたい欲求が出てきた。でも私は前を向けなかった。私は鼻で息を吸った。甘い匂いが流入してきた。前を見ると私をジト目で見つめてくる西村が居た。私はまた天井を向いた。そして息を吐いた。 あたりはまだ明るかった。
風と青年と私
「ふ~、おいしかったね」
私はそう言ってから立ち上がり、目の前の西村を無視して店を出ようとした。彼女は立ち上がる私を止めようと手を出してきた。がテーブルが邪魔をした。西村の手は空気を掴んだ。
「ちょっと待ちなさい。逃げる気」
彼女は周りに迷惑にならないように感情をにじませながらも声を小さくしていた。私は若干の怒りが沸いた。眉がピクリと動き私は西村を見下ろした。彼女は私の言葉を待っていた。だが怒り、私の発言の内容によってはもう一方の手に握ったコップを投げつけられるのではと冷や冷やした。
「今日は疲れたから・・・また今度ゆっくり」
私は努めて言い訳を考えようとしたが、ゆっくりと穏やかに空気を感じ自然とこの言葉が出てきた。西村はむっとしたまま私の言葉に考え込んだ。そして視線が不意に動き私の横の壁を見た。私は思い当たることがあり視線を動かさなかった。
「明日ね、明日の夕方、駅前集合。ごちそうさまでした~」
彼女はそう言ってから立ち上がり私と店員に向かいお辞儀をしたあと足早に店を出ていった。店員の声も同時に響いた。私は一人残された。口は開いたままだがお冷をコップに注いで震える手でコップを持ち、一気に飲み干した。
その後私は会計を済ませてから、店を出た。高くついたが、祖母の気前の良さがうかがえた。この時期にはお祭り分も考慮してか多めにもらえる。私はポケットにそのまま残りのお金を入れた。私は何とか心を落ち着けようと駅に向かおうとしたが、口から出まかせだったが言霊のせいか本当に疲れを感じ、さらに体調の悪さを感じた。熱中症かと思えてきた。私は家を目指した。帰りの道では西村もおそらくこの辺りに住んでいるはずだから、見つけたら許さないつもりであった。具体的に何をするは考えられなかった。それほどに意識もぼんやりとしていた。私は家に付き夕飯がいらないことを申告してからベットにつくまでをあまり記憶していなかった。私は眠りについた。眠りにつく瞬間に私は悟った。夢を見ると、そう言えるほど気持ち悪く、同時にある種の快感があった。
私は駅にいた。そう思えるのはベンチに座っている感覚がそれに近かったからだった。それ以外に判別が出来ないほどに辺りは暗く私の視界を覆っていた。だが何かの匂いがした。その匂いは私の向く先からやってきていた。私の肌を刺激しては唯通り抜けて去っていく。私の鼻はその匂いに、香りに痙攣した。体の内で鼓動が始まったように感じた。血流が早まり、鼻腔で感じた何かを全身に脳に送っているのを感じる。大きな音が鳴った。頭の中で鳴った。
ドン・・・・・・ドン・・・・・・ドン・・・・・・ドン・・・・・・
ずっと同じ。私の中でこんな音が鳴っていたのか体が震えるような低音があった。
「どうして正直に話さなかった」
後ろから声がかかった。私が振り向くとそこには青年が居た。浴衣に革靴そして鉄道員の帽子を被っていた。青年はこちらに目を向けぬままベンチに座っていた。私はベンチに座っていた。
「昨日会ったばかりの人が僕ら・・・・・・どうせ」
私は青年の見た目から祖父を重ねていた。だからこそ青年から言われたことは厳しく感じたが共感してくれそうにも思っていた。私の言葉を聞いた青年は私の方に少しだけ顔を動かした。
「闊達でいい子じゃないか・・・・・・これから考えればいい事だろう」
青年はそれだけ言って黙った。私も黙ってしまった。どこかでそう思っていた自分がいることはもう知っていた。
「・・・・・・君の祖父の話をしようか」
青年からの言葉に私は驚いてから首をゆっくりと壊れた機械のように動かした。それが青年にはおかしかったのか苦笑してから話し出した。
「君の祖父も君と同じように駅に来ていた」
青年は手をあげた。手には鉄道員が持っている笛があった。青年はそれを口に近づけた。そして笛を吹いた。風が吹いてから周りの景色が変わり始めた。私の座っていたベンチは急に色を付けて、いかにも手作りな木の椅子に変わっていった。私はあまりの発光に目を閉じた。
「目を開けて」
青年の言葉に私は目を開けようとした。だが私はその前に分かってしまった。目を開けた。見覚えがあった。祭りの日であった。周りには人だかりができており人々は駅から大通りに流れている。服装や持ち物からそれが過去のことであることが分かった。そしてその流れが終わった時目の前に二人の若者が居た。私は目を見開いた。私は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「もういいだろう」
そう言って青年はもう一度笛を吹こうとした。私は青年の手を掴んだ。青年はそうすることが分かっていたように微動だにせずに止まった。笛を口から離した。私の力んだ手に青年の手が触れた。そうされると私の手は力なくしおれたように落ちた。落ちた私の手を私のひざ元に青年は動かした。
「君は違うかもしれないが・・・・・・」
青年はもう一度笛を吹いた。永遠だと感じられた。その音は匂いによって遮られた。懐かし匂いであった。そう表すのが妥当であった。
私は目を開けた。ゆっくりと感覚が戻る。戻るとは正確では無かった。元々持っていたものが蘇えったように感じられた。鼓動が早く永遠に鳴りやまなかった。私は布団を投げ捨てて時刻を確認した。デジタル時計は正確に時間を刻み、丁度日が落ちる時刻であった。隣の日にちを確認すると日付が変わっていることに気が付いた。私はどれだけの時間を寝ていたのだろう。開け放たれていたカーテンから月の光が私を照らした。空気は夏そのもので気だるげなものに包まれる。風が窓の隙間から流れてきた。眼をつむってから私はその小さな流れを感じた。ふと戻れはしない日常を感じた。遠くで音が鳴っていた。町に似つかわしくない音が風に運ばれ聞こえたように思えた。
太鼓や金楽器、笛の音、騒がしい喧噪、それが一体混雑となって何度も繰り返し、私の聴覚を刺激した。私はそれを聴いていた。頭に浮かぶ情景に鼻腔が何かを思い出した。私は軽いめまいをした。まだ小さかった頃、和服姿の祖父も隣にいた。駅の中、ベンチに座り、りんご飴を片手に一本道を見ていた。いつもはすかっらかんの電車から様々なひとが流れ出し、道に流れていった。道の両端に屋台が並び、その上を提灯が照らしていた。神輿がいくつも奥の寺を目指して進んでいった。人の声が良く聞こえた。老若男女いつもよりみんな声が大きい。顔がよく見えた。そして駅に吹き込む風が色々なものを運んで来る。きっと祖父に聞いたはずだ。たわいもない子供の思いつくようなたわいもない言葉だったはずだ。年を経ると一人私は駅にいた。
「あぁ・・・」
私は呟いた。そして窓の方を見た。私は味わいたいと、思い出したいと思った。西村は知っているのか、この風を、甘い香りのする彼女はあの感覚を知っているのか気になった。毎年どこかに居たであろう彼女に出会えた。彼女を見た時から彼女はこの町には似つかわしくなかったと同時にひどく駅になじんでいた。私は祖父から何を受け継いだのだろうかそう考えて思い出そうとした。だがそれは私の知れることでは無いように思えた。
私は起き上がり、押し入れを開いた。奥の方に手を伸ばし、懐かしい肌触りを感じた。私は引っ張り出した。私のものでは無い和服が私の手にあった。私はそれを着た。帯を締めて、懐にお金を入れた。それから家を出た。家の中には母親が居たが、私を見て驚いた様子であった。
「行ってきます」
そう言ってから昨日買った革靴を履いた。
「・・・・・・あんた一日中寝てたの?・・・・・・大丈夫?」
母親が心配そうにしていた。私の姿を見ていた。私は頷くだけで何か言うことはしなかった。私は玄関に置かれてある鏡を見た。上下ともにしっくりとこなかったが気にするほどでもなかった。
「似合ってるよ」
言ったのは祖母であった。私は祖母を見た。祖母は無表情でどこか遠くを見ていた。私は祖母に喉にまで出てきた言葉を飲み込んだ。私は靴を履いた。祖母の方を振り返り
「行ってきます」
そう言ってから私は家を出た。私は駅を目指した。私は賑わう大通りを避けてその数本横の道を走っていた。もう夕方だと言えばそうである時刻だと腕時計が告げていた。もう時間には遅れているだろうかそうなってしまったら寧ろ諦めがつくもので私は気にすることなく腕を振って前に向かって走った。大通りの方から空に向かって光と音が漏れて来ていた。その光と音に誘われた虫のような人々がおしゃべりしながら向かっていく。一つの壁を境に全く違う空間があるのであろうことが流れる風から感じられた。感覚が鋭敏になっているのが分かる。もうそろそろ駅に着く、そう考えると、先からやはりあの匂いを感じた。辺りからの人の波が駅に集中して大通りに向かって流れている。それはまるで一匹のムカデが蠢く様の様で気持ちが悪くもある、その人波に入っていった。押し寄せる物理的な人の波と多種多様な人の放つ熱気のこもった風が私に当てられる。私は腕を伸ばし人の流れに逆らい、風の流れに身を任せた。
人工的で甘く、懐かしい匂いがした。私は人の流れの中にある割れ目に手を伸ばした。何かが触れた。私はその何かを握った。急に温かい血の通った柔らかいものであるのが分かった。人の波が終わり、私の握った物が現れた。
「遅刻」
西村であった。彼女は浴衣を着ていた。綺麗な藍色の浴衣で黄色の帯をしていた。私は顔をあげた。彼女はハーフアップにしていた。留めるために使っている髪飾りは光に反射して煌めいていた。爪にはマニキュアが塗ってあるのかこちらも光源によって淡く血色の良いピンク色をしていた。私は彼女の手を握っていた。そして離した。
「ごめんなさい・・・・・・」
私は夢の中での出来事が気になって西村を直視することが出来たくなった。そんな私を西村は笑って私の手をとって握った。
「どうしてここにいるのが分かったの、嘘つき山郷昇君」
私は彼女の発した言葉に動揺して顔に愛想笑いが出来上がってくるのが自覚できた。
「どうも・・・・・・山郷昇です。嘘ついてすいません」
急所を突かれた。そのまま顔が引きつっていった。
「おかしい顔してないで質問に答えなさい」
彼女は怒っているようで私の手をぴっぱってベンチに座らせた。隣に彼女も座って私の方を向いた。私は生唾を飲み込んだ。そして覚悟を決めた。夢の話が本当なら運命の相手かもしれないだがその相手である女がこんなにもずかずかと他人の敷居をまたいでくるとは思いもしなかった。私は喋り出した。
明瞭な説明では無かった。私にもわからないことが起こっていたのは確かであった。それにすべてを記憶の通りに話すのはためらわれた。そうやって私が言葉尻を濁すと私の俯いた顔を彼女が覗き込んできた。それが私には飛び上がるほど心臓に悪いことであったのでその行動をやめてもらうためにも正直に話した。私が私の趣向や趣味まで話終えて頭から蒸気を発し、ため息を吐いていると西村は私の肩に手を置いてくれた。
「話してくれてありがとう」
西村はそう言ってから私の手を握った。
「夢の中でこの駅に居るおじいさんとおばあさんの二人を見たの?」
彼女の言葉に私は頷いた。私は赤面してるであろう顔を西村に向けた。
「もうこれ以上何も質問しないでくれ」
私の顔を見た彼女は驚いたようにしてからいたずらっぽく笑ってから
「私の事どう思っているの?」
そう聞いてきた。私は西村の顔を見た。彼女もさすがに恥ずかしいようで光の加減のせいなのか化粧のせいかほのかに顔を赤らめていた。私は頷いた。
「うん。じゃなくてどう思っているのかってこと」
私は思いのほかすんなりと言葉が出た。
「好きだと思う」
西村は私の言葉に目を泳がせた。私はその目に合わせて目を動かした。
「もう、お祭りまわろう」
耐えられなくなったのか西村は立ち上がった。そして歩き始めてしまった。視界の先には蠢く人の流れがある。それは波のように揺れており火の粉を飛ばしながら動いている。その動きに合わせて私と西村の影は動いていた。電車の行ってしまった駅のホームには私達二人しかいなかった。臨時でバスが動いてはいるが一駅前の途中で降ろされて町の住民や関係者でない限り徒歩で歩いてくる。私は何とか切り返せたと心の中で優越感に浸った。そして自分がかけた駅との呪い。呪いと言える何かと私は決別したように思えた。
それから私たちはお祭りを回った。祭りの熱気を浴びて私は夢ごごちであった。彼女の手を握ったのは祭りの主役である行列が火を掲げてそれを左右に揺らしながら行進していた時だった。彼女は寄りかかるようして倒れて来たから、私はそれを支えるついでに手を握り、その手を離さなかった。私たちはその最後尾についてお寺に続く階段を上って言った。その間私たちは会話をしなかった。ただ私はそれが不気味だとか不誠実だとか退屈だとかは感じずに目の前で揺れる炎の光が眩しかった。頂上に位置するお寺に着いた。まだ私は風が運ぶこの町の空気を感じていた。そして隣にいる西村の甘い香りと混じり合い私を酩酊させた。あたりは火の粉が舞って人が踊り、空気が楽器によって振動していた。手から伝わる彼女の熱も周りの喧噪と同化していた。懐かしい感覚があった。きっと小さい頃祖父とこうして手を握って駅から大通りを通って、祭りの行列と共に階段を昇った。私と西村は踊った。私は暗闇の中で踊り狂い、私は隣にいる西村を見た。
「今日は楽しかった」
その言葉に私はこれまでの駅での無為と言われた時間がすべてが報われたようだった。西村は笑顔になってお寺の雑木林の中に私の手を引いて入っていった。そのまま西村は私の手を引いて引いていった。そして周りがもう祭りの火が見えなくなってもさらに私を引いて奥に行こうとした。
「ちょっと」
私は暗闇の中何かにつまずいた。頭部に鈍い衝撃が走る。そして西村を掴んでいる手の先の感覚が徐々に薄れていった。
「起きろ」
私の目の前には青年が立っていた。周りには駅さえも無く、ただの真っ黒い空間で青年と私が二人いるだけであった。浴衣を着た青年は私を見ていた。ただ突っ立ていた。
「何が何だかわかってないようだな」
私は訳も分からずに頷いた。青年は頷いた私を見て薄く笑い
「闊達ないい子だがそんなものは存在しない」
青年は喋り出した。最初から最後まですべて真実を話した。西村静香は私の妄想であった。祖父が死んだ日から私は変わった。丁度祭りの前日であった。私が駅に執着するようになったのもその日からであった。祖父が祭りの日に祖母からもらった小遣いをもって祭りに連れ行ってくれた。そこで私は祖父にいろんな質問をした。この町の地理。この町には一つ駅があったがぼんやりとしていても風が吹いてくるわけでは無かった。祖母との出会い。もともと町に住んでいた二人が出会い結婚した。お互いに年齢がそこそこであったので周りが気を利かしたお見合いであった。駅前の中華店は過去には夫婦で営んでいたが今ではよぼよぼの婆さんが一人で切り盛りしていた。祭りの規模は年々縮小していき寺の前に数店の出店と飾りの電球の入った提灯が等間隔で並んであった。西村は妄想の女性であった。
「もう・・・・・・やめてくれ」
私はそう言ってから膝から崩れ落ちた。それでも青年は話を続けた。
「お前は何がしたかったんだ」
青年は私の前に足を出した。
「・・・・・・・うるさい」
そう私は嗚咽と共に呟いた。青年は笛を鳴らした。私の手のつく地面が線路になっていき、そこから振動が手に伝わってきた。電車の音とともに段々と大きくなり、それが最高になった時光と共に私の体を鈍い感覚がよぎった。
私が起きた時には彼女は居なかった。腕時計を確認するともう昼になる頃だった。雑木林を抜けるとすでに祭りの撤収が粗方終わり人もいなかった。私は階段を下りた。大通りから駅の方に歩いていた。視界に駅が見えた。お腹もすいていたので余ったお金で中華屋に行った。軽く中華を食べ終えて店を出るときにふと駅の方を向いた。そこに西村らしき人が居るのが分かった。私は走った。駅の改札を超えるとそれらしき人が居た。私は階段を上がろうとした。丁度その時に駅の構内放送が鳴った。私は急いだ。階段を駆け下りた。そして後ろ姿を見つけた人に近づいてからその女性の肩を叩いた。
「西村」
女性は振り返った。私を見て驚いているようだった。私も驚いた。その女性は私の知る西村では無かった。
「すいません。人違いでした」
そう言ってから頭を下げた。その女性の方も申し訳なさそうにしてから駅に着いた電車に乗って行った。私は見送るようにしてその場に立ち尽くしていた。降りて来た人たちが居なくなった後私はベンチに座った。私は日が落ちてから夜になるまでその場で目を瞑っていた。私は狸寝入りを続けた。相変わらず風は何も知らずに吹いていた。
「ねぇ、あんた何してんの?」
声がかかった。私は飛び起きた。狸寝入りをしている間に本当に寝てしまったようだった。私は眠気眼をこすりながら立ち上がり目の前の女性を見た。何処か見覚えのある女性だった。記憶を探るとそれが同じ学校に通う女性であることが分かった。女は驚いている様子であった。周りを見るに日も落ちてからずいぶん経っていて、駅に居るにはおかしい時間であった。
「浴衣来てるし・・・・・・もしかして昨日からここに居たの?」
彼女はどこか馬鹿にするような声をしていた。私は若干不快であった。
「そうだけど・・・・・・なんか文句があるのか」
女は笑い出した。私はうつむいて黙った。
「帰らないの・・・・・・?」
そう言ってから女は立ち去ったように見えたがしばらくして彼女は戻ってきた。私はもうひと眠りしてから帰ろうかなと、彼女の言葉を意識するあまり逆に眠れなくなっていた。じんわりとした感覚があった。
「なんだよ」
私は靴のなる音が近づいてきてることが分かっていたので何かされるだろうことは知っていたがそれを目を開けて確認することをしなかった。それでもほほに当てられるとは思わなかった。
「さすがに寒くないの、あげるから。じゃ」
そう言ってから彼女は私の手に缶コーヒーを置いてから本当に立ち去ろうとした。ぼんやりと缶コーヒーを手のひらで転がしながら彼女の鞄にぶら下がる熊の小さなぬいぐるみをみていたが私は立ち上がった。そして
「ありがとう」
と叫んだ。彼女は聞こえたのか振り向いたようにも見えたが、暗くて本当のところは分からなかった。私はベンチに座って缶を開けた。寒くは無いのだが何となくすり合わせた。私の手のひらが段々と温かくなっていった。私はもし学校で彼女と出会えたら何かお返しでもしようとか考えながらコーヒーを飲み干してからゴミ箱に捨てた。もう一度ベンチに戻ろうとしたがさすがに遅くなりすぎたら、ただでさえ一日帰ってないのは家族が心配するだろうと考えて帰ることにした。肩をおとして歩き改札を通り抜けた時に落し物コーナーに目がいった。熊のぬいぐるみが無くなっていた。私は立ち止まった。私はそのぬいぐるみが落とした本人の手元に戻ったのかどうかを考えた。西村はこのぬいぐるみを見たはずだ。そう考えた時になって私は気が付いた。
「何をしているんだろう」
私は一言呟いて改札を通り抜けた。そして私はその日から一度も駅には行かなかった。
特に整合性とか無く終わりました。無念(´;ω;`)