風と西村静香
私は立ち上がり、女について行った。陽気に足を運んでいる、夏風に吹かれる女の後ろ姿はこの夏の背景と上手く調和していた。もちろん彼女から香る、私の鼻腔を刺激した空気も同様だった。それは私にはコントロールすることのできない事象であった。
「そう言えば名前は?」
私がそんな嗜好に戯れていると、前を歩く女は軽いフットワークで振り返り質問をしてきた。おかしなことだが今更何を聞いてくるのかと私は感じた。だが女の言った通り自身の名前を明かしてはいなかった。しかし自分から名前を明かすほど、目の前の迷惑な女に酩酊はしてなかった。
「出口です。君は」
僕は嘘をついた。私の本当の名前は山郷昇であり、山口では無かった。そもそも私はこの女と中華を食べていつもの日常に戻ってから駅で女と出会い中華のを食べた思い出とする予定だった。いつかはその記憶も風化して私は再び駅に戻り、ベンチに座って、風を感じる。人生のアクセントを楽しもうと思っていた。数秒の間があり、目の前の女は考えるふりをしているように見えた。
「出口君ね、よろしくお願いします。君はねぇ西村静香と申します」
ぎこちないのかわざとなのか私には分からないかしこまった言葉が一礼と共に行われた。女は純粋な笑顔だったのだろうが、私にはそうは見えなかった。
「よ、、、よろしくお願いします・・・」
だが不甲斐ない私は反射的に礼を返して、口からは言葉がぎこちなく漏れた。私は噛んでしまった恥ずかしさに顔を伏せつつも、すぐに女のおちょくるような記憶の歪んだ笑顔に腹がたった。私は出来るだけ笑顔を作り、顔を上げた。きっとそれは口角が不自然に上がった不細工な表情であっただろう。目の前には西村は居なかった。駅構内の階段を上がり、一段飛ばしで、麦わら帽子を手で押さえて、哀れも無く、生足をちらつかせながら登っていた。
「お~い、出口君、出口まで競争しよう。負けたらおごりね~」
彼女は階段を登り切り、跨線橋の小窓からこちらに手を振っていた。私の目からもともと薄い光が失われた。私は数分前の私の行動を呪った。誘うべきでなかった。アクセントでは無かった。ただの愉快犯であった。私はその考えが頭の中で反復された。まだ私の耳に西村の声が聞こえる。聞こえてはいるが言葉の意味を私は知ろうとも知らずともよいことで、駅構内、アスファルトの地面の上で私はただ立っていた。彼女の声が横から聞こえてきた。そうか彼女は出口についたのか、そんなことはどうでもよかった。駅構内、蝉を含めた虫の鳴き声が私の鼓膜を揺らし、照り付ける太陽の光は周りで風に揺られる木々から反射して私に降り注いだ。その光さえも音を持つのか、頭がすっきりとしながら重たい湿ったた感覚に囚われていた。風が吹いた。風は体を通り抜け、私は軽い微熱感を感じた。また私の鼻に甘い香りが入ってきた。私は右を向いた。やはり私の視界には西村が居た。私は彼女を見つめていた。彼女も私を見つめていた。電車の発着音が鳴り出した。規則的な電子音が鳴る。
「まもなく、、、」
決まった駅構内放送が流れた。西村が改札を出ることなく待っており、歩き、近づいた。私は甘い匂いを感じた。あの彼女の匂いであった。電車が遠くからやって来ていた。私は彼女がまた一歩近づいたことが分かった。不思議そうな顔をしていた。手を上げて私に彼女が手を振ろうとした時、電車が彼女の前を通過していった。それは数十秒の出来事で、電車が止まりまた発進すればそこにはそこにいた人がおらずいなかった人が改札を目指すだろう。電車が止まり空気の抜けたような音を共にドアの開く音が鳴った。少ないが人の出入りする音が聞こえた。私は走り出した。走る程に西村静香の匂いを感じられた。走る程に、階段を駆け上がる程にそれを感じた。いつものように静かに靴一段ずつ上がることは私はしてなかった。こんな風に本気で走ることは無かった。階段を上り切った。両側に飾られた祭りのポスターは舞い上がる炎を描いていた。それが道となっていた。私はその炎の中を、匂いの強くなる前に向かって走った。電車の扉の閉まる音がした。
「1番線、ドアが閉まります。ご注意ください。」
アナウンスが鳴った階段を下りる。いつからだろう、階段を飛ばさずに降りだしたのは。顕著は無かった。履きなれていない靴がバランスを崩す。もう数段で階段を降りきる。大きく足を伸ばした。着地した。足が滑った。前のめりのまま走った。汗が地面に落ちた。私は転びそうになったのを何とか足で踏みとどまった。電車がすれ違いに動き、何処かに走って行った。私は息を整えようと、何回か深呼吸をした。だが流れてくる匂いがやはり私を刺激する。腰を屈めて腕に両手を置いて激しく呼吸をする私に近づく足音があった。私の前で止まった。私は顔を上げた。どうやら戸惑わせてしまったのか私を心配そうに見ていた。
「負けず嫌いなのね・・・」
私はその言葉に皮肉っぽく笑った。
「僕の負けかな?」
私はそう言って西村の横を通り抜け改札を目指した。ここまで来たのなら相手のことを考える必要は無い、西村の言質も取った。まだ勝負はついていない。私は後ろから音がしないので振り返った。私を見る彼女が居た。どうやら怒っているらしく、機嫌の悪そうな顔を私に向けていた。私は内心、たまたま走ったことがここに来て裏目に出ようとも、彼女の機嫌を損ねようとも。私は立ち止まった。そしてため息をついた。自分の頭の中でこれから食事をしようとする相手を見て、納得した。彼女は私の前を首を上げて抜けていった。
「私の勝ち・・・おごりなさい」
彼女は振り返り、笑顔になって言った。電車は戻ってはこない、時間は進む。私は仕方ないと思い、軽い足取りで改札を通り抜けた。それを見て西村は笑った。
二人で中華の店に向かった。会話は無かったが私は十分に空気を楽しんだ。数歩先を行く、西村は楽しそうにしていた。そんな様子を見て、口角が上がった。甘い匂いが流れてくる。横断歩道を渡る。その時ふいにある後悔の念が浮かび上がった。私は不味く重い首を傾けた。嘘をついた。ただそれだけだった。具合が悪いそう言って逃げ出したいという思いがその考えのもとに生まれた。損得ではなく、西村という女性に対してこれまで感じたことの無い感情が沸いてきた。そうやって考えていると彼女が中華の暖簾をくぐるのが見えた。私は逃げ出そうと考えたが、それも叶わなくなった。私がおごる約束であった。思い返せば唐突な仕掛けを、了承無く始まったことだが、それぐらいの甲斐性が私にあることを確認できた。私は中華の店に入って行った。