風と嵐
口いっぱいに広がった甘い味が鼻の鼻孔まで侵入していた。だが甘い炭酸水一本でお腹は満足はしなかった。きっと家族は何処かで御馳走でも食っているだろう。私は立ちあがり駅前の中華屋さんに行くことにした。
「また居る」
声が聞こえた。その声は特徴のあるハスキーな声で昨日聞いた女のものに似ていた。私は声のする方向を向いた。そこにはやはり女がいた。肌色のワンピースに麦わら帽子、今の季節に合った服装であった。髪は黒く短い、ボケっと突っ立ているその容姿からは幼さが感じられた。私はその言葉があまり気に入らなかった。鞄の件は感謝するが私が何をしようが私の自由であろう。私は首を傾げた。
「こんにちは」
でも私は常識的に初対面の方には挨拶をする。その言葉に女はちょっとびっくりして顎を少し引いたが、すぐに言った。
「こんにちは」
相手のペースでしゃべる必要はない。私はつづけた。
「鞄、ありがとうございました。落し物入れに置いてくれて。それじゃあ」
そう言って僕は足早にこの場から逃げようとしベンチから腰を上げた。
「ちょっとっまちなさいよ。質問に答えてないじゃない」
女は私が聞かれたく無いことを立ち上がった私に向かって言った。私は顔上げて女の顔を見た。俗に言うと美人の部類であった。日焼けした肌に一筋の汗が流れた。どうやら私の顔は怖かったのか口の端が左右に引きつっていた。
「質問?」
私はわざと知らないふりをしてこの場を乗り切ろうとした。答えて私に何かメリットがあるように思えなかった。女は私の言葉にひきっつていた顔の口が動き、そのあとため息をついた。私から見たらため息をつかれた。
「昨日の夕方。あなたはここで同じように座っていたでしょ。その時に何で座っているのと私は質問したと思うのだけれど。もしかして忘れたの?」
忘れられることなら忘れたいことだが目の前の女によって事細かにその時のことが思い出されて差恥心に苛まれた。あの時にもっと上手く対応出来ていれば何事もなく、ただベンチに座れていただろう。一つの運命だろうが容易に別の道も自身の動きによっては辿れた。私は次の選択は間違ってはならないと思い、軽く息を整えながら思考した。どうすれば何事も無く、ベンチに座っていられるか、それだけを考えた。「忘れた」の一言で終わらないのは女の言葉からにじみ出ていた。きっと同じ質問を繰り返し付きまとわれるだろう。私は何と言えば彼女は何も発することなくこの場から去ってくれるだろうか考えた。彼女の視座に立って
「何故ベンチに座っているのか?」
という質問が出てくるのか、駅のベンチに座っていることは別に不思議なことではない、一見してみると私は次の電車を待っている利用者である。ただ私は次の駅など待ってはおらずただ町を眺めているに過ぎない。そこに彼女は気が付いて何故と疑問に思い、思わず声をかけたのだろう。何故彼女は気が付けたのか、気が付いたとしたらいつから気が付いたのか、気が付いたのち何故声をかける気になったのか、それが疑問であった。私はほぼ毎日同じような道を通り駅に行き、大体同じ時間に駅に着いてベンチに座っていた。彼女は私が駅に座っている間に駅を利用するのだろう。その時に私を確認しておりそれがここの町の高校の生徒であり、通常ならば駅のホームと電車の行き先の関係上彼女が乗っていた電車に乗って帰路に着くはずであると予測できるが、私が一向にベンチから立ち上がらないのを不思議に思って、それが毎回のように続くので不思議に思って声をかけたのだろう。このように私は予想した。
以上のことを考慮した上でどう返答すべきか考える必要があった。あまりに私が考え込んでいたのかここで女が喋った。
「そんなに考え込むことなの」
彼女の言っている通りだった。きっと目の前の女は自分の好奇心を満たしたいだけで論理的な納得できる回答を聞きたい訳ではないだろう。そもそも私は昨日と同じように女の横を鞄を持って通り過ぎれば済むことだろう。失敗するとしたら鞄を忘れることだけでそれは今私が手に力を込めている限り大丈夫であった。だが「質問」とやらに答えずに無視して帰るのは誠実ではないように感じた。彼女には鞄を届けてくれた恩がある。それを仇とまではいかないまでも無視して帰ることはどうにも私の良心が腐ってしまうようで決断することは出来なかった。でも真実を答える義理もなかった。私が考えていると一筋の風が吹いたその風は女の匂いを運んで来た。それは口の中に広がっていた甘い香りとは違い汗と人工的に造られた香料が混ざった官能的な香りであった。私は思い出した。何故こんなにも彼女を避けるのか、避けようと思いもしたが話してみたい、会ってみたいと花に惹きつけられる蝶々のように足取り軽く駅に来たではないか、私は自身の中で矛盾が生じていることに気が付いた。
「・・・・・・長くなるけどそれでもいいなら座ってよ」
私はベンチに座った。自分でも自分の口から穏やかに流れる風のようにして言葉がこぼれ出る。そして女から顔を外して町を眺めた。どうにでもなれなのかどうにかなるかどうにかするのか、私にも明確にこうだと言うものは無かった。この状況による思考能力の衰えを感じる。これはまずかった。今そうなってはこれから起こる出来事に対して適切な対応ができるだろうか自身は無かった。でもこんな風が吹く日があってもいいように感じた。そう割り切った自分から自分が分離して俯瞰した視点から自分を見ていた。そこには隣に座る女性は無かった。
「短くお願い・・・あとお腹がすいてるなぁ~~」
私の耳に届いた言葉に僕は握りしめる手の握力がつよくなり、女の方を向いた。女はわざとらしく笑い、先ほどの仕返しか、何処か満足そうに顎を上げて私を見ていた。私はため息をつき鞄を持つ手を離した。手を座席に置いてからため息を吐いた。私は目の前の女が一時の嵐であることに気が付いた。そして観念した。
「中華にでも行こうか」
私は女に向かって言った。女は頷いてわざとらしく優雅に回って歩いて行った。