風と靴
私は起き上がり、呆然とした。掛布団を握りしめ、汗ばんだ手で口を覆った。そして何かを飲み込むようにして手の平を丸めた。眼だけを動かして時計を確認する。デジタル時計で夜中の三時〇分の時を示していた。一分間時計を見続けて時計が正確に時刻を刻むことを確認しこれが夢でないことを確認し安心した。では私の見たあの駅でのことは何にあたるのか、最後に捨て台詞のように有無を言わさず去っていった帽子を被った青年が私には何を表しているのか。私はあまり夢を見るほうではなかった。だが夢を見るときは決まって何か自身とのつながりがあると考えていた。青年は粗暴な不審者のように人の庭に入り込んできた。だが彼のこの町に対する考えは言うならば、青年は私自身。それが私には余計に気に食わないと感じた。でもあの青年は私の脳が見せた私、私であることは否定はできない。私は乱雑に脱ぎ捨てられ床にへたれこんでいた服を掴んでベットに座った。まだ朝日が昇るまで時間があったが、駅に行くにはまだ早かった。
朝日が昇り、母が一番早く起きて、朝食の準備をしていた。私はいつもより早く家を出て駅に向かってからきっとあるであろう鞄を取りに行くつもりであったのでいつもより早くテーブルについていた。今日は土曜日であったので父親と妹とは私は顔を合わすことはないだろうと思った。祖母は私の隣の席で新聞を読んでいた。
「昨日、早かったね。帰ってくるの」
朝食を準備する母親が私に言った。彼女は手を動かしながら背中越しに疑問と心配が含まれているであろう質問を私にした。どうこたえるべきか私は思案し
「ちょっとね」
と言った。当然「ちょっと」何があったのか聞きたくなるだろうが、そこまで攻めてくる人ではないと私は考えていたが、それはちょっと違った。
「ちょっとって何よ」
母親は「ちょっと」の先が気になって聞いてきたのか、反射的な応対なのかわからないが手を動かし続けながら聞いてきた。私としてはそれが面倒で「ちょっと」と言って何があったのか何があったであろうことは教えるつもりがないことを示したつもりになっていたが今日の母親には通用しなかった。
「あそこに行ったの?」
あそこって・・・・・・変な言い方をしやがる。たとえ私があそこに行ったとしてもあそこに行かなかったとしても、あそこと駅を表現しやがった母親に負の感情が芽生えた。私は私以外の家族・親戚を含め葬式に来るような人は駅をあそこと表現するのか、心の中で毒づいた。
「ちょっと早く帰ってきただけでしょ」
我ながら回りくどく婉曲に説明しているが、こう牽制しとかないといけない気がした。
「そう・・・・・・」
母親はそう呟いてから私の前に目玉焼きとウインナーとお味噌汁を置いた。そして同じように三つそれらを置いてから席に着いた。私は
「いただきます」
と言ってから自分でよそったお茶碗を持った。そして箸を動かし食事をしていった。その間に私に向かって視線を伸びているのを気にしないことは出来なかった。私は箸を置き
「ごちそうさまでした」
と言うと、流しの水の溜まった金属の桶に食器を重ねてからつけた。
「昇。今日おじいちゃんの法事だから家にいなさいね」
母親は洗面台に行こうとする私に向かって言った。私は祖父の法事と聞いて思い当たった。もしかしたら私の見た夢の青年は祖父かもしれないと。私の顎が上がり何かに納得して静止していたがその動きが不自然だったのか
「昇。あなた大丈夫?」
と母親は言った。
「大丈夫・・・・・・法事ね」
私はそう答えて洗面台に向かって歩いた。祖母は食事を済ませてまた新聞を読んでいた。
そのあと自室に戻りベットに横になった。仰向けで天井を見た。木の模様が目に入った。私は祖父のことを考えていた。祖父が死んで満六年、七回忌に当たる今日の日は晴天で暑く風は穏やか。そんなことを考えながらベットに横になって時間を過ごした。鞄は終わってからでも良い気がした。
家族は玄関で待っていた。私は靴の収まった棚の下のすきまから箱を取り出した。黒い革靴が出てきた。それは今の私が履くには小さかった。当たり前のことだった。
「そうか」
僕は一言呟いてからいつも履いているスニーカーに手を伸ばした。
「それはもう捨てなきゃなぁ。新しいの買っていくか」
父親の履いている黒光りした黒の革靴が見えた。私は顔を上げて父親を見た。
「また今日のためだけに買うことになるかもよ」
私はそう彼に言った。父親は少しだけ考えてから私の言葉に笑った。
「もう成長せんだろ」
私は父親が私の発言の意味をどう解釈したのか、私は立ち上がった。私は六年前に履いた革靴をしまってから家を出た。妹と母親はもう車で待っており、私はスニーカーのつま先を地面でたたきながら車に向かった。
「昨日なんで早かったの?」
車のドアを開けると同時に妹が聞いてきた。もう一度話すのが面倒なので私はそれを無視してシートベルトを締めた。
「お祖母ちゃん。お兄ちゃんが無視した」
そう言って甘えるように癇癪を起して祖母に抱きついた。座席でドタバタするのがうっとうしかったが私は窓の外、車の進行と共に移り変わる景色を見ていた。
「早く帰っただけだよ」
そろそろ隣の妹が鬱陶しく感じたので一言、それだけを言った。ものを言わせぬ兄の威光を持ち合わせていなかった私は妹からの執拗な攻撃という問いが待ち受けていると思ったが妹はそれ以上は何も言わなかった。私はそれが気になって妹を見たら妹が何故か申し訳なそうに顔を伏せて座席におさまっていた。逆にそれが気になって私のほうから質問したかったがその気持ちを抑えた。車内には微妙な空気が流れた。なんとなく私は察したがこの空気をどうにかしようとは思わなかった。私は窓のほうに振り返ってじっと外を見つめていた。住宅街を抜けると大通りに差し掛かった、街道沿いには旗や行き交う人が祭りの準備をしていた。組み立てられた鉄パイプの枠組みの間からは世話しなく動き屋台の準備をしていた。祭りが始まるのが明日、駅から大通りを通り、その先無駄に長い階段を上るとお寺があってそこが最終地点であった。私は小学生のころよく駅からゆっくりとポケットに小銭を握りしめて縁日をゆっくりと楽しんだ。その日はあたりの町から人が駅にやってくるそれが私には何となく好きで、風が色々なものを運びそれを感じながら進み、スズメの涙の金を最後お寺に向かって投げつけた。私はそんな過去を窓越しに映る外の景色を見て思い出していた。
「昇。靴買わんか?」
数分の沈黙の後父親が言った。車を運転する彼は僕をミラー越しにちらりと見てきた。私は父親が冗談を言っているのかと思ったが
「うん」
と返事をした。別にどっちでも良かったがあの革靴は履けないのでそれもよかった。
「そうか。なら○○によろうか」
そういって次の信号で右折した。男二人でその○○で買い物をすることになった。
「時間大丈夫なの」
そう心配した母親に彼は
「すぐ戻るよ」
そういって出てきた。私は自分の履いているスニーカーをみた。もとは白かった部分が薄く黒くなっていた。だが黒い革靴と言えるわけではない。そんなジョークを考えながら私は父親の後ろについて店に入っていった。普段からお店に通っていたのか父親は迷うことなく男性向けの革靴の売っているエリアまで歩いて行った。私はこのようなお店に入ることは人生のうちでも初めてで周りは珍しいものばかりであった。私が周りを珍しそうに見まわしていると父親の声がかかった。
「昇。来なさい」
私は父親の隣に立った。沢山の革靴が陳列してあった。父親が見ている棚は一番安い革靴の棚で同じようで同じではない、革靴がきれいに整頓されてあった。
「この値段のやつでいいのあるか?」
私は上の段から右に歩きながら見ていった。父親はそう言った後に別の売り場に歩いて行った。私の目に留まったのはシンプルな、あの黒い革靴のような、単純な革靴であった。私は陳列されてあった物を手に取った。指を靴のかかとに引っ掛けるようにして持った。そして靴を裏返してサイズを見た。決まるのは早かった。棚の側面に於かれた四角い椅子に腰かけてスニーカーを脱いだ。革靴は固く紐を緩めても履きにくかった。そばに置かれてあった靴ベラで足を上手く滑り込ませた。かかとを地面で叩き、固定し、そのまま靴ひもを下から順に絞めていった。私は両足を履き終えて立ち上がりつま先を見た。つま先は丸く足の甲でしっかりと固定されているように感じた。私は置かれた鏡を見ることなく歩き、戻り、歩いた。そして父親のもとにまで歩いて行った。
「これに決めたよ」
そう言って止まった。父親はネクタイを物色していたがその手を止めて、私を見た。私の靴を見て
「それなら普段使いもできそうだな」
そう言って持っていたネクタイを吊り下げに掛けた。「じゃあ」と言って父親は店員を呼びに行った。そのあと父は支払いをすました。私は靴を履いたまま車に乗り込んだ。店員は車が敷地を出て行っても頭を下げたままにしていた。
「無難じゃないか」
車を運転する父親が言った。妹が私の足元を見て怪訝そうな顔をした。
「いかにもお兄ちゃんが選びそうな地味な奴ね」
私は妹が何でも難癖をつけようとしてくるのはわかっていたので
「そうだね」
と肯定してあげた。母親は
「靴はもう買わなくて済みそうね」
と言った。祖母は何を考えているのか分からないが何も言わずに私の足元を見た。私の履いている革靴は固く、履いていることに違和感を感じるものであったがそれは靴の一つの楽しみで許容できるものであった。私は靴の中で指を動かしてその感覚を感じた。六年前の自分もこんな風に感じていたのかは定かではなかったが、革靴を履くような機会がなかった私はきっと気分がよかったであろう。事実私は気分がよかった。安い革靴であったが地面を踏むのには充分であった。
法事が終わった。足腰の弱い祖母のために長くはしなかった。七回忌ともなれば家族の内で細々とやる、人は多くはなかった。
「ふ~。終わった」
そう言って妹は腕を空高く上げて背伸びをした。空には雲一つなく涼しい風が吹いていた。
「ちょっと用事があるから」
私はそう言って車に乗って帰ろうとしている家族に言った。誰も止めなかったが祖母が最後にこう言った。
「駅に行くならこれ持っていきなさい」
そう言ってティッシュに包んだものを腕に掛けたポンチョから取り出して渡してきた。私は祖母のしわくちゃな手に持つものが何か知っていた。ティッシュに包んで千円札を渡すのが祖母のやり方であった。
「ずるい。お兄ちゃんだけもらって」
そう言って車の中から妹が体を乗り出してきた。祖母はゆっくりと振り返り妹にも同じものを上げてから私に向き直った。
「何か食べてきんさい」
そう言って祖母は車に乗っていった。私は家族が出ていくのを見送ってから背伸びをした。季節は夏、晴天で直射日光が暑く、風は涼しく感じた。
私は各制服の右ポケットに祖母からもらったものを入れて駅に向かった。もう何にも邪魔されることなく一本道を歩いていた。私が法事中に何を思っていたか、祖父の命日であった昨日の夜夢のことを考えていた。青年はきっと鉄員、叔父であり私であった。色々なものがないまぜになりそれが極度のストレスによって何かが開放された訳だろう。感謝はしないがあの女とは話がしてみたいと私は思い、駅に向かう私の足取りは自然と軽くなった。靴の違和感かもしれないが本来の予定を完遂することができることに私は安心していた。
駅に着いた。人の出入りは無い。お昼時に駅を利用する人はおらず駅構内では人っ子一人おらず閑散としていた。周りの伸びきった木々が風に煽られ擦れて揺れる、その音と虫や鳥の鳴く声もした。なかなか趣のあるのが今日の駅だった。私は駅前の自販機に千円札を突っ込んだ。そして高いほうの炭酸飲料のボタンを押した。
ガシャン
と音がした。私は中腰になって自販機の口に腕を伸ばし冷え切ったペットボトルを手に取った。お釣りをズボンのポケットに入れた。片手でボトルを持ちながらもう一方の手で夏服の上のボタンを外した。
「暑いな」
そんな独り言が出てくるほどに日が頭上で輝いていた。
「よし」
と言って、駅構内に入った。そしてボロボロになって誰も座らなくなった朽ちた椅子の奥にあるごみ箱の横に置かれたプラスチックの箱を見た。そこには沢山の種類の落し物が入ってあった。基本的には落し物は時間と共に集約すべき駅に送られていくべきだがこの町の駅は無人駅であり落し物の量も少なければもし仮に落としたとしたら車両の中でなければ基本的に駅の利用者である元の持ち主に自然と帰っていく。だが例外もあって例外なだけに不気味な落し物が多い。経年劣化したものが大半でそれさえも処分されずに構内の隅に安置されている。その中で二つ異色のものがあった。まず私の革の鞄。乱雑に折り重なった忘れ物の中で箱の側面で立つようにしておかれてあった。私はわかりやすいように意図的に置かれていたとなんとなく感じ拾ってくれた主に感謝しながらその鞄を手に取った。もう一つ、私は一つの熊のぬいぐるみに目を付けた。真新しいわけではないが古くもない最近になってこの箱の仲間入りをしたものであるのがなんとなくわかった。きっと持ち主は幼い子だろう。女の子か・・・・・・。でもここにあるということは案外忘れられたもの、忘れられるほどのものだったのだろうか、色々妄想してしまう。私は熊のぬいぐるみを手で転がしながらそんなことを考えた。駅の落し物はなかなか面白いものだった。私はひとまず自身の目的を達成し安堵した。熊のぬいぐるみをそっと箱に戻して、構内に入り、いつものようにベンチに座った。今日は特別に砂糖と炭酸を味わうことにした。予想通りに事が運んだことに私は幸せを感じた。これだけで幸せを感じるのが私であることは自覚している。こうして駅構内に侵入してベンチを占拠することが、これが幸せだと理解されないのも理解している。でもこのことを卑下してはならないとも考えている。それが夢のお告げである。私は一本の炭酸飲料を飲み干すまでに夢の意図を考えた。それは素人考えの夢診断だ。きっと私以外に駅のベンチに座り続ける意味の無い行動を起こしていなのはそれはそれで貴重なもので客観的に見て不審者であっても私自身これは高尚な行いであると考えた。夢にまで駅が出てきて、そこでベンチに座っている。こんなにまで純粋な人はいるだろうかそう考えた。町から吹いて来る風はいつも通りジメジメした暗い色が少し混じった喉に引っかかりそうな、そんな風であった。たとえ空にまで突き抜けんばかりの雲一つ無い晴天の下であっても駅に吹く風んは変わらないものだった。