4-2 行列にて
九課を後にして魔法省の玄関へと向かっているリンディは、隣を一歩下がって歩くフィリスに振り向く。
「それじゃ、とりあえず……」
「レストラン街ですか?」
助手が、先回りして聞いてきた。
「え?」少し驚いた様子のセデイター。「あー、食品街」
「あ、なるほど。そっちですか」
「うん、まぁ……」
例の太ったEランク対象者でも、さすがに夕食には早い……レストラン街には喫茶店や甘味処などもあるものの、そちらではなく、食品街での買い食いをすると踏んだ……。マスターの考えを、助手はそう読み解いた。
「……そうですよね……まだ夕食の時間ではないですし」
「ま、そんな感じで……」
リンディの口ぶりにどことなく歯切れの悪さを感じ取ったフィリスは、何らかの深謀遠慮がありそうに思うが、口に出さないからには意味があると思い、そこには踏み込まない。
「あの患者……ではなく」医者ゆえに、セデイト対象者もついそう呼んでしまう。「対象者は、今のところ、犯罪や迷惑行為はなにもしてないようですね」
「そうだねぇ……ばれてないだけってこともあるけど……」
セデイターの経験上、そちらの可能性が高い。ただし、Eランクなので、あっても軽犯罪だろう。
「魔法テクノロジーのエンジニアで、上司から依頼があったと……家族以外からの依頼もあるんですか?」
「あるよ。恋人とか、友人とかね……。上司ってのは珍しいけど、上司でもそういう関係はあるわけで……」
ああ、なるほど。フィリスは納得。
「そこは、プライバシーってことですか?」
「そう。セデイトに当たって、必要なければ聞かないはず」
それは依頼を受付るときのことで、基本的にリンディはそこには関わらない。
「友人はともかく、上司と恋人って……あれですね」
「『あれ』って?」
「禁断のオフィスラブですよ」
「あー」自分はそういう話に興味はないけど、フィリスは好きそうだ。それにしても……。「『禁断』なの?」
「そのほうが燃えるでしょう?」
恋愛として。
「いや、別に……」
「燃えます。絶対燃えます。間違いなく燃えます」
「あ……そう」
ここは反論しないほうがよさそう。
「ですよね、やっぱ」フィリスは二度うなずいてから、突然、視線を上に向けて拳を握る。「いえ。それよりも!」
強められた語気に、リンディは嫌な予感を禁じえない。
「な、なに?」
しまった、聞き返してしまった……とはいえ、スルーできる勢いでもなかった。
「不倫です! オフィスでの不倫……これこそが燃え上がる……」
「ちょっと、声が大きいかな」
ここはまだ魔法省内。廊下を歩いているところ。
「す、すみません」
「……ったく、該当者がいたらどうすんの」
不倫の。
「該当者! 誰ですか?」
「知らないよ、そんなの。いたらって話でしょうが」
「ですよね、リンディさんがそんなこと知るはずは……」魔法省職員ではないし、恋愛音痴……。落胆しつつも、フィリスは気を取り直す。「でも、絶対いるはずですよね……これだけ大きい省で……」
なぜ、気を取り直す? そういえば……リンディはいやなことを思い出した。
「……いたじゃない」
「え?」
あまり口にしたくはないけど……。
「……オーランとヘイトン」
「あ……ああ、例の汚職事件の逃避行……男同士……薄毛と肥満……」
医師ゆえに、言い回しに配慮している――もっと簡単な言い方もあるが。
「やめて。思い出したくない」
リンディはもとより、腐女子でさえも敬遠する組み合わせ。フィリスにその嗜好はない。
「イケメンだったら、よかったのに」
……なくはないかもしれない。
「あたしは忘却の女神に祈りたいよ、まったく」
「忘却治療でもします?」
フィリスの医療ジョーク。ちなみに、忘却治療は、記憶操作魔法による、ピンポイントで特定の記憶を消す心理療法で、かつては活用されることもあったが、技術的安定性の欠落、並びに、道義的見地から、現在は禁止されている。もとよりメカニズムの定かではない暗黒系魔法に属する記憶操作魔法には、そこまでの精度を求めることはできず、催眠効果による記憶の改変という様相が強いものだったといえよう。
雑談をしているうちに玄関に着いた研修ペアは、早速、魔法省から一番近い食品街へと向かう。助手から見れば、たまたま件のセデイト対象者に出くわせばラッキーというような、行き当たりばったりの計画だが、今日は予定外に研修を始めたのでやむを得ないだろう――とはいえ、この捜索はあながち的外れともいえない。実際、彼女が近くの商店街に現れたことは確認されており、滞在場所をまだ変えていないのであれば、発見する可能性も低くはない。とりたてて犯罪行為などに走っていない対象者なら、あちこちへと移動する必要性もないので、その点からも可能性は高まるだろう。ただ、目立つ行動を取っていなければ、目撃情報も得にくくなるのは難点かもしれない。
「さて、と」食品街に差し掛かったところで、リンディは遠目で先を見渡す。「あ、やっぱり」
歩みを速めたマスターに、助手が倣う。
「え? もう見つけたんですか?」
セデイターは次第に小走りになり、目標の手前で歩き始める。
「もうこんなに……」
そこにあるのは長蛇の列……。不審がるフィリス。
「なんですか、この列は」
「これは……」列の最後尾につけたリンディは、先頭の方向を指差す。「あれ」
「えーと……」指し示された方向にはあるのは……。「スイーツショップですね」
「個数限定なんだよね……」
「は?」
「超ふわふわクリームパフケーキ」
「はあ……」なんのこっちゃと思ってすぐ、フィリスはその意図を理解した。「つまり、それを買うために、ここに来たと?」
「……だって、しょうがないじゃん。週一で時間限定早い者勝ちなんだよ……あたしにどうしろっていうのさ」
「どうって……」一瞬、間を置くフィリス。「あ、なんかもういいです……はいはい」
この人にこのことで説教してもしょうがない。で、その人は瞳をきらきらさせている。
「ひとり二個までね」
「それはそれは……。でも、なんで週一日だけなんですか?」
「そんなの決まってるじゃん、原料が入るのが今日だけだからだよ」
入手してから作るため、売り出すのがこの時間からとなる。
「そんな貴重な原料なんですか?」
「もちろん。それは……」食道楽で料理上手の長い説明は、その才が欠落した者の脳内を素通りして終わった。「……てことなんだけど、わかった?」
「……ここでは入手困難なのはわかりました」
この世界では、大量かつ高速な輸送ができる物流システムは、まだ未発達だ。ただ、高速という点では、これ以上ないものはある。
「……ったく、こういうものにこそ、転送装置を使ってほしいよね」
「それは……どうでしょうかねぇ……」
転送装置による輸送は容量が少ないので、主としてデータクリスタルや、緊急を要する医療品などに当てられている。医師としては、「超ふわふわクリームパフケーキ」の原料輸送に使うべきだとは思わない。
「ま、週一ならいいんだけどさ……あたしも、そうしょっちゅう来るわけでもないから……」
この街にいるときでなければ、来ることはできない。そして、今日は食べたくなってしまった……。そうなると、もう止まらない、止められない。
「それなら今日は……」
仕事中だから「諦めて」と、つなげたいフィリスとは違う応答がやってくる。
「絶対買わないとね」
フリーランスと宮仕えでは、職務時間の感覚が違う。
「……そうなるんですね」
「え?」
「わかりました」諦めたのは助手。「さっさと買っちゃいましょう」
「そうしたいのはやまやまだけど」
「あー、行列ですよね、そうですよね」
フィリスは人の列を見る。
「それに、まだ売り出してないみたい」
「ええ、そうでしょうとも、はいはい」
返事はおざなりだ。
「……怒ってる?」
「いえ、そこまでは」
むしろ、呆れている。行列に並んで食べ物を買うという感性のないフィリスには、理解しがたい。しかし、自分たちの後ろにも人が並んでいくことから、そういった種類の人たちは思ったよりもたくさんいるようだ。
「ちょっと待てばいいことあるんだからさ。忍耐って必要だよ」
この人にこんな風に諭されるとは……。
「ですよね」
「食べれば、後悔は絶対しないから」
「そうですか? じゃ、楽しみにしてます」
話を合わせただけの助手。……ただ、この食道楽がこれほど勧めるのなら、味の期待はできるかもしれないとは思う。それが時間に見合うかは別として。
しばらく言葉少なに待っていると、ついに売り出しが始まり、列が動き出した。自分たちがじりじりと前へとにじり寄る……ということは、必然的に目的を終えて店から出てくる人たちも現れる。そんな折、前方を見据えるフィリスの目に、右肩に買い物用と思しき大きなトートバッグを掛け、左腕に大きな袋を抱えた……肥満体の女性が映った。
店を離れて道の対面へ歩いていく彼女は、食への衝動を抑えきれないかのように袋の中から例のブツ――「超ふわふわクリームパフケーキ」と思しきものを取り出してかぶりつく……。残念ながら、助手の位置からは横顔しか見えない。しかし、あれは確かに……。
「リンディさん、いました! 彼女です」
「え?」
「例の対象者ですよ」フィリスは指差す。「ほら、あそこ。あの太った女性です」
「まぁ、太ってるけど……顔が見えないし」
すでに後姿になり、この場からゆっくりと去りつつある。
「顔は見ました。たぶん間違いありません」
「ほんとにぃ?」
「ええ。それに、あの行動は対象者のものです」
フィリスはセデイターではなくても、セデイト対象者は患者として診てきている。
「そう……それじゃ……」
「はい」
ついに動くか。もしかしたら、本当はこのためにここへ並んでいたのかもしれない……さすが敏腕セデイターだ。助手はマスターを見つめる。……研修だから、わざととぼけていたのかも。すると……。
「見てきて」
聞き返す助手。
「はい?」
「まず、フィリスが見てきてよ。助手でしょ?」
「でも……」
それで、どうしろというのだろう。
「研修なんだから、自分で確認しなきゃ」
「そう……ですね」
「あたしはここで待ってるから」
このマスターが待つのは自分か、順番か……。疑念は拭えないものの、助手としては戻ってくるしかない。研修の趣旨からいえば、確かに自分で確認するのは経験にはなる。
「では、行ってきます」
並んでいた列を離れたフィリスに、リンディが後ろから声をかける。
「ばれないようにね」
軽く振り向いて肩越しにうなずき、助手は尾行に向かう。確認が目的なので、いったん追い抜いたのちに少し進んでから、さりげなくUターンして顔を視認したら、足早に行列へ戻ってくればいい。
とはいえ、いったん離脱した行列へは戻れないというのがセレンディアの基本的な習慣につき、フィリスはもう「超ふわふわクリームパフケーキ」を入手することはできなくなった。願わくば、マスターがひとつ分けてくれることを……無理か。助手は早々に諦めた。ただ、「超ふわふわ」なのはクリームのほうなのか、パフのほうなのかは気になる……。
ともあれ、フィリスは最初に想定したように、追いつき、追い越し、Uターン、顔の確認、足早に帰還という一連の作業を難なくこなした。まず、向こうには気づかれてはいないはず。きっちりと距離を取ったし、速度にも留意し、不自然ではないように……。ただ、そういうこちらの努力以上に、対象者自身が食べることに夢中で、周囲のことが目に入っていない様子だ。
「例の対象者です。間違いありません」
フィリスの報告を受けたリンディは、まだ行列の只中。助手を待つ間に、すでにセデイター用のスコープで、遠目から対象者の瘴気を確認している。
「そっか……だよねぇ……はぁ」
落胆のため息が聞こえる。ターゲットを見つけたというのに……。
「どうしましょうか?」
聞いたものの、食通ではない者としては、是非に及ばず。
「クリームパフ……あたしは悲しい」
「追いますか?」
「行くよ、行きますよぉ」
やはり、プロフェッショナルだ。泣きが入ってはいるが……。
「急ぎましょう」
先に歩き出す助手に対し、マスターは最初の一歩が踏み出せない。
「さよなら、あたしのパフ……」
つぶやいて、どうにか列を離れ、後ろ髪を引かれつつも、フィリスの後を足早に……ならずに追いかける。