4-9 トレーニングの自由
その頃、九課の就業時間を終えたナユカは、すでに自室へ戻っていた。そこで同居しているフィリスの帰りを待っている……それは、事実。しかし、気分としては別の部分もある――たまにはひとりで過ごしたい。今夜は帰ってこないかもしれないと聞かされ、その欲求が刺激されてしまった。つまるところ……帰ってきて欲しくない。帰ってきたらいやというわけではないけれど……。
回復魔法が効かない異世界人の健康と安全に、いつも配慮してくれるフィリス……そんな人の帰りを望まないなんて、自分は薄情なのかも……などと思いつつも、今、感じているのは、開放感。こんなことを感じてはいけないと思っても、自由への欲求には勝てない――とはいえ、世話になっている友人が帰ってこないことを期待する罪悪感も、一掃はできない。そんなダブルバインドに、悶々とするナユカ……。こんなときに、彼女が導き出す結論は……。
「トレーニングしよう」
それである。体育脳とでもいうべきか……。幸い、ここにはフィリスはいない。これなら、思いっきりトレーニングしても、怪我するだの何だのと文句は言われない……なんという開放感! それを実感したナユカは、元の問題に戻った。
「ああっ」
友人がいないことを思いっきり喜んでしまった……なんてひどいやつ……。でも、トレーニングがしたい。かの健康管理責任者がいなければ、一晩中筋トレすることもできる。……いや、やっちゃ駄目だけど……それは、フィリスとは関係なく、やってはいけない。無茶で無意味だ、あちらの世界でも。……とにかく、一晩中ではなくても、自由に体が動かせる……好きなようにトレーニングができる。トレーニングの自由! 怪我なんかするもんか!
ここで、ナユカは、はっと我に返る。……はたしてそう言い切れるだろうか。アスリートなら必ず経験する故障というものを、彼女も当然ながら経験している。鬼のいぬ間に好き勝手にトレーニングをしていて、翌日戻ってきたときに怪我をしていました……なんてことになったら、どんなに失望されるだろう。無茶なことはしないと、信用されているはずなのに……。自由は……難しい……でも、それは放棄しては駄目だ。たとえリスクがあっても、手放してはいけない……トレーニングの自由は!
部屋の中を歩き回りながら、ナユカが特定の部分へと特化してしまった問題の結論を導き出しつつある頃、呼び鈴が鳴った。中から確認したところ、棟の管理人だ。たぶん、連絡だろう……フィリスからの。
ふたりの住んでいる、ここ「臨時宿泊棟」は、魔法省外の者も宿泊することがあることから、魔法省とネットワークがつながっているのは管理人室のみであり、棟内部のネットワークは構築されていないため、魔法省からの連絡は管理人よりもたらされることになる――フィジカルな形で。
さて、どちらだろう……帰ってくるのか、こないのか……。ナユカは扉を開ける。
「……それでは、失礼します」
管理人は去っていった。
「さてと……」
ドアを閉めたナユカは、ポンと軽く手を叩く。フィリスはすでに魔法省へ戻っており、これからセデイト関連の雑務、すなわち、対象者の入院手続きやリンディの瘴気処理などを済ませ、一時間後くらいには帰ってくるとのこと。つまりは、今晩、トレーニングの自由はもう残り少ない……となれば、やることは決まりだ――外に出よう。
ナユカは、定番のランニングウェアなどないこの世界で、いつも走るときに着ている服に急いで着替え、棟を後にする。フィリスのお達しにより、通常、ひとりで走るときは魔法省の敷地内から出ることを禁じられているが、今はいない。公道をソロで走るには、今しかないということだ。一時間、といっても、部屋へ戻って着替える時間、並びに、フィリスがそれよりも早く帰ってくる危険性を考慮すれば、その半分くらいしか走れないだろう。それでも、自由を謳歌できる――好き勝手に走れる。
以前、外を走るときに、フィリスに付き添ってもらったことはあった……でも、走りにはならなかった。彼女は何度か加速魔法を使ってついてきたが、魔法の反動が大きすぎてすぐにギブアップ。それからはジョギングをはるかに下回る速度――早歩き程度となって終了。以来、外でのランニングにはサンドラに付き合ってもらっているものの、パワー系筋肉姉さんでは、スピード系筋肉スレンダーを満足させられる速度にはならない。もちろん、それでも常人よりも早いし、一緒に走ってもらえるのはありがたいのだけれど……。
そんなわけで、とにかく、今がチャンスである。鬼の居ぬ間にソロでランニング。ナユカは、魔法省の敷地から駆け出た。
この世界では――といっても、この異世界人はほぼセレンディアしか知らないが――趣味やエクササイズとしてのランニング、要するに、用もないのに走るような習慣はない。街中は街灯があるとはいえ、暗がりの中をひとり疾風のごとく駆けゆく者など、他にはいない。よほど急ぎの用があるか、そうでなければ、泥棒などの犯罪者だろう。後者であれば、追手がいるはずなので、さすがにナユカがそれと間違えられることはない……と、本人は思いたい。ただ、追手がいれば、競走の要素が加わり、それはそれでおもしろいような気も、元競技ランナーとしてはしてしまう……不謹慎なのは承知の上で。
体と頭の開放感とともに、疾走するナユカ……しかし、この時間は限られている。気づけばもう、そろそろUターンの時間だ。本意では別の道を走って魔法省内へと戻りたいところだが、その際のラップタイムが不確定につき、同じ道を戻るのが賢明だろう。遅れてフィリスにばれたらお仕置き――は、ないにしても、確実に怒られる……。いや、失望されるかも……。
少しばかりの罪悪感を抱きつつも、ともかく波風を立てるのを避けるためには、最初に予定した時間内に部屋へたどり着くことと、気持ちを切り替えたランナーは、そこでUターン。ゴールである自室を目指し、着実にストライドを稼いでゆく。
そのまま、しばらく進むと、後方斜め上から飛んできた光るものが、ナユカの視界を一瞬よぎり、走行している先へ刺さった……が、スピードに任せてすぐには止まれず、その場を追い越してから、ランナーは立ち止まる。後ろを振り返って、その何かが刺さったと思われるところへ戻り、その辺りを警戒しながらざっと見てみたものの、特に何も見つからない。不審に感じながらも、フィリスが戻ってくる時間のことを考えるとぐずぐずしてはいられないので、気のせいだと思い直し、すぐに走り出す。
それから、何事もなく走りを楽しみ、予定した時間通りに自室へ到着。手短にシャワーを浴びて着替え終えたところへ、フィリスがリンディとともに戻ってきた。
「お風呂入ったの?」
何気なく聞いたフィリスが、いかにもさっぱりした感じのナユカに視線を留める。
「え? あ、うん……まぁ……シャワーを……」
答えたほうは、何気なくない……。同居人がじっと見つめる。
「運動してた?」
「あ……まぁ、ちょっと……ね」
それもさっぱりした理由だ……気分的に。
「ふーん……」
疑惑の目……。そこへ、リンディが口をはさむ。
「こっちも運動してたよ」助手へ笑みを向ける。「ね?」
「あ、いえ……その……まぁ、ちょっと」
うろたえ気味のフィリスを、今度はナユカが問いただす。
「してたの?」
「すごくしてたよ」答えたのは、本日のマスター。「……フルパワーで」
「あ、リンディさん、泊まるんですよね?」
あわててさえぎったフィリス。
「あ、うん。今から帰るのめんどくさくって……いい?」
駄目出しされるとは思わないものの、いちおう許可を求めたリンディに、ナユカがうなずく。
「ええ、もちろん」
「それで、運動……」
リンディが蒸し返そうとしたところ……。
「夕食!」
フィリスとナユカが同時に声を上げた。顔を見合わせるふたり。
「どうしましょう?」
「どうしますか?」
フィリスとナユカが、またも同時発声。
「あー……とりあえずデリバリーと……ユーカ、なんか作って」
料理上手であることが判明した食道楽から、まさかの要請が来た。
「え? わたしが?」
「ユーカの料理はおもしろいから……異常で」
「は?」
そこまでひどくはないはず……。眉をひそめた異世界人へ、料理上手が解説。
「いや、つまりね……意外性があるんだよね。この食材なら甘くして、こっちはしょっぱくっていう、味付けの定番が逆になってたりして」
「……あ、それあります」取ってきたデリバリーのメニューを、フィリスはテーブルの上に置く。「……たまにびっくりしますね」
本当は割とよくあると思っている同居人からの賛同を得て、食通が続ける。
「それでいて、まずくない。ちょっと変わってて……異国の味というか……異世界の味になるのかな? 食べてて、楽しい」
「ほんとに?」
調理した本人には、そういう自覚がない。ただ、こっちの料理を食べて、逆にリンディが言ったように感じることはあった。
「ほんとに」うなずく料理上手。「フィリスの料理とは全然違う」
「な……」自分の腕を知っているつまらない料理人でも、とばっちりを食らえば抗弁したくなる。「一度しか食べたことないでしょう?」
失敗はそのときだけと言いたいのだろうか……。リンディは苦笑い。
「……もっとあるけど」
「え?」
そんなはずは……。この料理マスターに自分の出来損ないを何度も出した記憶は、フィリスにはない。
「あー、そういえば……ありましたね」
しかし、ナユカにはあった。当人が外しているときに、リンディがつまみ食いすること数回。それがフィリス作。
「い、いつですか……それは?」
出来損ないの「製作者」から追及された食道楽は、はぐらかす……というよりは、異世界風料理のほうに興味がある。
「それで……」ナユカを見る。「作ってくれるの?」
料理上手に頼まれ、気分がいい。
「それじゃ、ちょっとだけ作りますね」
「たくさんでもいいよ。全部食べるから」
調子のいい食いしん坊に向け、フィリスが手を挙げる。
「それなら、わたしも作ります」
「あ、フィリスは」あわてるリンディ。「……先にお風呂入ったら? あと、今日の報告書も書かないとね。それから……」
「大丈夫ですよ、作りませんから」
冗談だったのに、本気で嫌がられた……。そんな料理下手の傍ら、食道楽はほっとした様子。
「なら、いい……いや、まぁ……で、なに注文する? あ、メニューはどこ?」
できない誤魔化しなら、しなければいいとフィリスは思う。
「……目の前です」




