注ぎ温泉談
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーらくんの家では、常備水の用意などはしているだろうか?
地震があちらこちらで起こって、日本全国、いつどんな災害にみまわれるか分からないほどだ。いざというときの憂いは、残しておきたくないねえ。
意見はいくつかあるが、1人あたり飲用水が3リットル、歯磨きや洗濯に使う生活用水が3リットル。1人暮らしでも6リットルは確保しておくことが薦められているらしい。
――ん? 水道水を6リットル分、ペットボトルに入れておけば簡単に確保できる?
うむ、量ならばそれで確保できるね。ただ頻繁に入れ替えが必要になる。
普通なら3日。冷蔵庫入りなら10日。それ以上は水の中の菌が増えて、安全に飲める保障はないといわれているんだ。身体に欠かせないものとして、色々と気をつかわなきゃいけないのさ。
この飲用できる水について、先生もいくつか昔話を聞いたことがある。こーらくんの好きそうな話も最近仕入れたからね。耳に入れておかないかい?
水、健康といえば、温泉は欠かせない要素だろう。
昔から温泉は傷病に効果があるといわれ、多くの人にありがたがられてきた。信玄のかくし湯などは、その最たる例といえる。
ある地域でも、山の中に湧く温泉が見つかり、たちまちのうちに名所として知られるようになった。地元民はもちろん、他国からはるばるやってくる客もいて、宿や道の整備が進められたという。
地から湧くと共に、小さな滝を成して、上からも湯が注がれる立地にあるこの温泉の水は浸かるばかりじゃなかった。飲むことによって身体を暖め、腹痛をやわらげる効力があったという。
ふもとから、半日も経たずに行き帰りできる距離というのも手伝い、足腰の達者なものが温泉の水を汲んで、ふもとで寝たきりになっている病人のもとへ運ぶ、ということもしばしば行われたらしい。
温泉の好評はおよそ20年あまり続いたものの、とある事件をきっかけにして、ぴたりと止むことになってしまった。
きっかけは、温泉に入った子供たちの声だ。
用意された露天風呂は、子供たち数人が泳ぎ回るには十分な広さを持っている。客のはけた時であればその空間を存分に生かし、泳ぎを競う姿も見受けられたとか。
その日も、ざばざばと水しぶきをあげながら、風呂の端から端まで泳ぎ切る二人の子供がいた。子供の入湯料が安いのをいいことに、三日にあげず通い詰めている常連だったが、泳ぎ切った二人は、顔を見合わせて首をかしげてしまう。
何度も泳いだことのある彼らは、ここの温泉の湯が目や鼻、耳に入っても痛くならないことを知っている。
むしろ、入り込んできたところからじわじわとぬくもりが広がっていって、身体全体に染みていくんだ。多少のだるさがあっても、すぐに吹き飛んでしまうほどの効き目もあった。
それが、ない。
泳ぎ切るまでの息継ぎで、何度か誤って口の中に水が入り込んでしまったものの、いつもある癒される温さが消えていたんだ。
喉を通り、腹へ注がれる時にはもう、身体の熱と一緒になってどこにいるかもわからない。後は冷たくなって、下から流れていくばかりだろう。そう感じさせる下腹の震えが、遠慮なくやってくる。
これはなにも二人ばかりの訴えではなかった。
かつて飲んだ時に比べ、湯の効き目が弱くなっている。これまでは傷の治りが早かったのに、ここ最近は足しげく通っても、傷の痛みがひどくなって口もなかなか塞がらない。そのような不評が漂い出したんだ。
いずれも感覚的な領域での話。それでも迷信深い従業員たちは、私的に温泉の水源を求めて調査に出たんだ。
この間も営業は続けることになり、ごくわずかな人数が山中に分け入った。
先にも触れたように、この温泉は地下から湧くものと、上から滝のように注ぐものの、二つのお湯が混じり合って構成されている。入る場所の地面を掘り返すわけにはいかず、上のほうの水源を目指すことにしたんだ。
彼らとて、これまでに水源を確かめようとして、登ったこともなくはなかった。だが途中で水に濡れた岩肌の壁が立っていて、それが降り落ちる湯によって非常に滑る、という難所があったんだ。
実際に、そこで手足を滑らせて落ち、半身不随になってしまった従業員を出してから、誰もそれより上へ行こうとは思わなかったらしい。
だが今回の面々は命綱や、滑り止めの道具を持ち込んできている。是が非でも登り詰める腹積もりだったが、いざ現場へたどり着いてみると、いつぞやより湯のほとばしりがない。
あの時は、「絶対に誰も上へ上らせない」といわんばかりのしぶきが、滝そのものが見えないうちから、顔へ降りかかってくるほどだった。
それが今は、量こそ減っていないものの、通り道にない岩を濡らす元気もない、平凡な流れに終始している。
「これは確かにおかしいかもしれん」
そう感じた従業員たちは、滝を避けてかつての難所であった崖に手を掛ける。
岩は完全に乾いている。かつての滑りやすさはみじんもなく、身軽な者はすいすいと登り詰めて、てっぺんから他の従業員たちをせかす余裕があったくらいだったとか。
崖の上から、湯の川をたどって歩いて小半刻。従業員たちは水源と思しき、泉を発見する。
下で用意した露天風呂と、ほぼ同じ大きさ。ほどよく湯気が湧き立ち、手を差し入れてみると、ちょうどいい湯加減。
靴を脱ぎ、足を洗って中へ入っていった面々は、ぼこぼこと泡立つ泉の中心で、おそらく原因であろうものの姿をはっきり捉えた。
そこには、人の背丈ほどはあろうかという、つばを持たない長い刀が刺さっていたんだ。
湯に浸かっているのは、刀身の3分の1ほどに過ぎない。だが、水面越しに見るその姿は、ほとんど赤さびの塊となっていた。それより上の部分も、ところどころにさびが浮かび、柄もほつれてかびの臭いを放っている。
一同、その悪臭に思わず鼻をつまんでしまった。こんなもののダシが、自分たちの入っていた湯の中へ混ざっていたかと思うと、怖気が走る。
さっそく集まった中でも力のある者たちが、刀の腹の部分を挟み、引き抜きにかかった。よほど強く差したようで、しばらくはびくともしなかったらしい。
それでも何度か繰り返すうちに、ちょうど水面のあたりで刀がぽきりと折れてしまう。
長い刀身はそのまま泉の外へ。残った、見るも汚らわしいさびきった刀身は、先ほどまでと同じ面子から、猛攻を受ける。
身体の大半を失い、軽くなった刀にそれを受け止める力はない。ついにはいくつものかけらとなって、泉の中と別れを告げる羽目になってしまったとか。
これで元通りになると思った従業員たちだったが、現実は期待と真逆に振れる。
その日から、温泉は苦痛をもたらすものへ変貌をとげた。浸かれば肌は腫れ、髪は抜け落ち、肉まで溶ける。
飲めば口が荒れ、喉は焼け焦げ、胃までえぐれる。本来出るべきでないものが、身体の穴のあちらこちらからあふれ出た。
瞬く間に廃業に追い込まれ、温泉はついに大量の岩でもって埋め立てられてしまう。
回収された刀については、多くの者に尋ね回ったところ、とある刀工が柄に掘られた印から、自分の師が打ったものだと判断したんだ。
その師は世に出た刀の数は少なく、名も知る人ぞ知るという程度。だが祭具としての注文をしばしば受け、打った刀には邪を退ける力があると、一部の者の間では伝わっていたそうな。
きっとあの温泉を人が浸かれるようにするため、誰かがこの刀を差したのだろうと、人々は噂したとか。