三、陰惨なるパーティルーム
人生は旨くいった時に限って下降するものである。
楊は親友の所有物であり、犯罪現場となったグランドオリエント渡辺の二階パーティールームの中心に立ち、そこから内部をぐるりと見回して大きく溜息をついた。
「百目鬼は道場だと言い張っていたが、そのとおりじゃねぇか。」
犯罪現場となった広間は小さなレストランほどはあり、壁には水色の花の連続模様のラインがある黄色の壁紙が貼られ、照明器具がシャンデリア風であるなど、楊の目には最近の高級マンションに備えられている華やかなパーティルームとしか映っていなかった。
グランドオリエント渡辺のパーティールームは、廊下に沿って大小の部屋が連なっている作りである。小部屋の扉がエレベーターホール側に、大部屋の扉は通常の廊下になった位置に存在する別個の部屋でもあるが、仕切りの引き戸を全開すれば大きく使えるのだ。
そして、その引き戸は大部屋の方についている。
従って大部屋の引き戸を閉めれば開けていた扉が無くなった変わりに壁が現れるのは当たり前だが、廊下側になる左側の壁が内側に開く隠し扉となっていたのだ。
少々大きめの個室トイレサイズの空間には登りの階段がついており、そこを登りきると縦長の細い部屋に行き着く。
鼠はそこから放たれてパーティルームに辿り着き、逆に凶暴な鼠から逃げ出した信者達はその部屋に逃げ込んで次々と昏倒したようなのである。
楊は監視カメラ映像での混乱を元に警察に連絡し、いち早く救助に向かうべく武本の部屋を飛び出したのだが、既に事件現場の地下駐車場には鑑識を搭載した警察車輌と救命用の救急車がひしめいており、楊はそれらを従えるように立つ通報者の百目鬼に押し留められたのである。そして、黒衣に黒眼鏡姿の僧侶に心酔しているのか、彼の指示によるものか、待機している者達の誰も動かない。
「どうして誰もすぐに助けに向かわないんだ!お前は何を言ったんだ?」
百目鬼は軽く肩を竦めると、楊が気がつくべきだった言葉を吐いた。
「あんな凶暴な鼠など見たことないだろう?保健所職員とお前の相棒の到着指示待ちだよ。大型の鼠に噛み付かれたら大変だろう。俺はこれから事情聴取だってさ。武本の事は頼んで大丈夫か?」
「あ、ああ。」
その後百目鬼の言うとおりに保健所職員と楊の相棒の髙悠介が現場に到着すると、百目鬼は近くの警察署に連れて行かれ、楊は上司でありながら副官の髙の鋭い一重の目に射抜かれ、一瞬にして髙へと指揮権を手放した。
楊と同じ背に同じような細身の体を持つこの男は元公安で、県警内で同僚さえも挙げる死神と恐れられている男でもあるのだが、警察官として落ち零れだった楊になぜか目を留め、楊を警部補にまで仕立て上げて部下まで持たせたのである。
教官でしかない顔を見せる髙に楊は自分はなぜ反発しないのだろうと考えながら、彼を相棒で信頼の置ける友人と考えているからだろうと自分を慰め、自分が髙に調教されきった犬同然かもしれないという可能性から目を背けた。
「まず僕と鑑識の宮辺が保健所の皆さんと中に入りますからね、かわさんは安全確認を僕がしてから皆を連れて入って下さい。」
身体中にプロテクターを着けて魚取り網のようなものを物をぶら下げた数人の保健所職員と建物内部に入っていった相棒を楊は見送り、その数分後に救急隊員が突入して意識の混濁している八名の信者を搬出して現場から去っていった。そこでようやく髙のゴーサインが出て、楊以下の警察官が現場に上がることができたのである。
「酷いな。」
現場に入ってすぐの楊の本心である。
まず、パーティ会場の入り口ドアは髙の指示によって文字通り完全に破られていたが、監視カメラ映像では華やかだった壁紙は、今や赤い手形に手形にもなってない赤い血の筋で所々にスタンプされてうらぶれた雰囲気となっている。その雰囲気を後押しするが如く、磨かれていただろうフローリングには張替えが必要なほど大きな傷跡がそこら中に走っていた。その上、部屋は生臭い生き物の血肉の臭いで充満しているのである。
そこかしこに踏み潰されて死んだ鼠の死骸の残りがこびり付き、部屋の隅の方には鼠の死骸を纏めてあるのだから当たり前だと、楊は耳障りな音の方へと視線を動かした。
視線の先にはいくつもの籠が重ねられ、まだ命のある鼠が数匹ずつ籠に納められているが、それらがキイキイと叫び続けているのである。
鳴き続ける鼠達の体の震えは尋常でなく、この攻撃性も興奮も薬によるものだろうと想定できるからでもあるが、楊にはその命があと十数分も無いだろうとなぜか確信していた。
「百目鬼さんたら、クリスマスだからって凄い打ち上げ花火を上げちゃいましたね。」
軽薄そうな声に横斜めを見上げれば、ひょろりとした長身以外に特徴の無い山口淳平である。
楊の部下の一人でもあるが、高校卒業後に警察入りをした彼は、二十七歳という若輩ながら楊よりも確実に経験値の高い刑事である。
楊の相棒の公安時代の秘蔵っ子と言えば、山口の凄さがわかるというものだ。
百目鬼ぐらいの一八〇を超える身長と整った顔立ちながら、姿勢を悪くしてスマイルマークのような笑顔を常に顔に貼り付けているせいで美青年に見える事はなく、彼はいつでも特徴の無いその他大勢に埋没してるのである。
「あいつの仕業じゃないよ。やりそうだけどさ。あいつは最初に監視カメラを設置しただけで、このマンションには近付いていないからね。」
「その時に鼠を仕掛けたのでは?彼が物件を手に入れてからまだ半月も経っていませんからね。空腹にされて狂った鼠が溢れ出すにはいいタイミングではないでしょうか?」
楊は反射的に「違う。」と山口に答えていた。
「違いますか?」
「違うね。鼠は二、三日で餓死するんだ。鼠の毛並みがいいところを見ると、キチンと管理されて計算された上で放たれたものだろう。それにあの状態は薬物でしょう。それなら数時間以内だ。違うね。あいつには今日できる時間が無いよ。突然入った山仕事で他所の寺の法事の手伝いで拘束されていた。」
「はは。かわさんたら友達だから否定しているわけではないのですね。それじゃあ、信者の知らない隠し通路を図面で確認していたとしたら?彼は誰にも知られずに行動を起こすことができると思いませんか?監視カメラの位置を熟知している彼ならば、カメラを掻い潜っていくらでも仕掛け放題ではないですか。事件の起こる一時間前には、仕事を終えている彼が此方に戻っていましたよ。」
「ははは。君は知っていて俺にカマをかけたんだね。それに、合同捜査に加わらなかった君は、あいつをマークしていたんだ。でもさぁ、どうして君達はそんなにも百目鬼を犯人にしたいの。どうしてかな?」
山口は答えず、殆んど缶バッチのスマイルマークにしか見えない顔を楊に向けただけだ。
「百目鬼は馬鹿じゃあないよ。山が排除したい新興宗教団体に百目鬼がこんな大騒ぎをしかけたと公になれば、山は簡単にあいつを切り捨てるだろうからね。そのために干していたあいつに白羽の矢を立てたんだ。いつでも切れるってね。」
自分で口にしながら憤りを感じているのは、楊自身が百目鬼に罪悪感を抱いていることもあるが、百目鬼を養子にまでした俊明和尚が亡くなった後の百目鬼の姿をも楊は思い出してしまっていたのだ。
殆んど骨と皮だけの痩せこけた姿となり、山に完全に干されたよと、三厩が経営する近所の合気道道場をひたすら磨いていた彼の惨めな後ろ姿を、である。
楊が辛かったのは彼の親友だからと百目鬼を想うからではなく、楊が百目鬼の高校時代の親友を死なせる原因であった事を隠している事実と、親友を亡くした当時の百目鬼の姿を思い出したからである。
その罪悪感から楊は百目鬼を一人にしておけないと、時間が許す限り神奈川と東京を往復したのだ。
百目鬼は楊のその行為を純粋に感謝してくれているとまで思い出し、百目鬼を騙しているといういたたまれない感傷が自らに押し寄せてきたそのまま、楊は俊明和尚の口癖をいつの間にか吐き出してしまっていた。
「あいつは純だよ。」
「かわさん?」
独り言で驚かせたらしき部下に軽く微笑むと、楊は軽く頭を振って気持ちを切り替え、信者達が倒れていた隠し通路にいるはずの相棒をインカムで呼びかけた。
「おい。髙。そっちはどうした?異常はあったのか?髙?」
「返事がないですね。彼一人ではなく、鑑識の宮辺も一緒でしょう?」
楊の呼びかけに一緒になって耳を傾けていた山口が、スマイルマークの顔を少々普通の困った顔にしてイアホンを耳から抜いて眺めてから耳に戻した。髙は楊どころか、宮辺以外の鑑識官の立ち入りも禁止して、二人だけで隠し通路に潜ったままなのである。
宮辺壮大鑑識官は、髙が本部から最近連れて来て新設の鑑識班主任に推した人物である。宮辺は優秀過ぎるが故の人嫌いか、相模原東署の殆んど誰とも交友を持たず、髙に与えられた彼専用の検査室に篭りきりの人物だ。
「人嫌いの宮っちに仕事させるためだけにしては、髙に返事が無いのはおかしいよねぇ。どうしたのかな。」
楊は再びインカムマイクを口元に持っていったが、そこですっと山口の手がマイクの上に伸びた。
「僕が行きましょうか?」
「そうだね。頼もうかな。」
山口は嬉しそうにスマイルマークを顔に作り、いつもの彼らしく余計な事を口にした。
「その後で武本君の様子も見に行っていいですか?」
「それは葉山君にお願いしているから必要ないよ。」
すると驚いた事に、山口は作り笑いを崩し、頬を紅潮させた本気の怒りの表情へと顔を変え、楊にその怒りを向けてきたのである。
「どうしていっつも友君ですか!僕だってあの武本君とお喋りしたいですよ!」
楊は「髙が」と言いかけたが、山口が相模原東署に流されて来た理由が、虐待を受けていた少年に感情移入するあまり監視目的のターゲットを襲撃してターゲットを半殺しにしてしまったというものであり、髙がその再現を危惧しているという事を山口に吐露する事も一緒だと思い当たって一先ず黙る事にした。
「かわさん?」
武本の顔は美し過ぎる。
美し過ぎて性別を超えて恋慕されている程なのだ。
山口が武本に感情移入して、また不要な暴走を招くだろうと髙が考えているのだろうと楊は考えている。
目の前の自分の本当の感情を出さない筈の男が、武本に会えないだけで騒ぎ、自分の仮面を外しかけているという現実が目の前にあるのだ。
楊は髙の心配を杞憂だと片付けることは出来ないと考えながらも、口先は別の言葉を吐いていた。
「そうだね、まず、髙達の様子を見に行きましょう。ちびの所は後で一緒に行こうか。」
「あとで、ですか?」
「そう。あとで。」
山口が皮肉そうに顔を歪めたのは、楊の「あとで」は決してやって来ないからである。