三十六、事件は終わったのに
何もない部屋。
僕は何日同じ服を着ているのだろう。
何日、ではないか。
一日服を着て生活をして、次の日は服を洗って乾くまで裸で部屋にこもり、そして乾いたら服を着て、の繰り返しだ。
僕が帰らなかったから、僕の部屋にあった服はいらないものとして捨てられたのだ。
家に帰らなかった僕が悪いのだろう。
警察が退院後の僕にジャージを着せて送り出してくれなかったら、服を持たない僕はどうなっていただろうと、僕はベッドの下のビニール袋に思いを馳せた。
洗っても汚れも匂いも取れなかったばかりか、縮んで着れなくなったドレスである。
でもこれはあの炎の地獄の中から生還した時のドレスであり、僕には勲章でもあるのだ。
僕はベッド下からビニール袋を引き出すと、ぎゅうとビニール袋を抱き締めた。
「かわちゃんからも連絡ないし、良純さんは警察で監視中だから連絡しちゃいけないって警察の人に言われたし、僕は喋れないし。」
そう頭の中で泣きごとを繰り出して、僕と同じくらい泣き言を言いたいだろう人を思い出したのだ。
それは金虫真澄。
妻と娘の危険を耳に囁かれたからこそ、今回の誘拐事件のゴーサインともなる、妻と娘を世田谷に、を神奈川県警に伝えてしまった人だ。
実際に彼は悪くもなく、当り前の願いであり、結局は勝手に暴走して造反した汚職警官達が悪いので彼は不問であるが、妻と娘が許してくれないのだそうだ。
彼は僕を自宅に送り届けながら、ぽつぽつとそんな愚痴を僕に語っていた。
僕が梨々子の振りをしていた礼と、鈴子を楊が救出する手伝いをした礼を僕に頭を下げてくれて、僕はそんな彼にあわあわとして、紙に「どうですか?」なんて書いて聞き返してしまったから、誠実な彼は正直に話せることだけ語ったのだろう。
「猜疑心と嫉妬心を抑えられない僕のせいだね。楊君と会う度にね、義母や妻と娘に囲まれる彼を目にすることになるでしょう。情けないことに疎外感がね。」
僕はこの時ほど喋れなくて良かったと、後々にその状況を感謝したのである。
「かわちゃんは彼女達を前にすると、夫であり父であり、祖父でもあるような気になっちゃうんですよ。彼女達もそんな風に妻で娘で孫になるの。理由はわかりませんけど。」
本当にあの時言わなくて良かった。
僕は金虫家に行ったが留守だったので、今まで行っていなかった鈴子の見舞いに行き、彼女の病室で執事の幽霊の姿を目にしたことで、鈍感な僕がようやく楊と彼女達がそうなる理由に思い当たったからである。
鈴子は僕の姿を見て嬉しそうに顔を少しは輝かせてくれたが、学校帰りに母親を見舞っていた梨々子共々お通夜の状態だった。
僕は事件後の入院時に、これで意思表示をしようと楊に貰ったスケッチブックに、「どうしたの?」と書いて掲げた。
彼女達に立ち入るようであるが、彼女達のこの酷い落ち込みようが金虫警視長の深い嘆きと重なってしまうのだ。それでつい、の行動であったが、基本的にとても良い子の梨々子が悩むことなくするっと僕に打ち明けてくれた。
「私のお祖父ちゃんが波丘高志ってのが嫌だなぁってね。なんだか汚れちゃった感じ。ママはもっと辛いのに、ごめんね、ママ。」
鈴子は娘に安心させる笑顔を見せたが、すぐに暗い表情に戻ってしまった。
「高志本人がろくでなしってのもあるけど、そうすると波丘久之が私の叔父さんって事にもなるでしょう。身内に犯罪者が出来たらパパが仕事を辞めなきゃいけなくなるって、それでママは離婚を考えているの。でも、私も同じ血を引いているなら私もパパのそばにいれないかなってね。」
とうとう耐えきれなくなったか梨々子は涙をぽろぽろと零し母親に縋りつき、なんと鈴子までも涙を流して梨々子の肩に顔を埋めている。
僕はスマートフォンを取り出すと、今や親友ともなった女性にメールを打った。
「ねぇ、鈴子さんに実のパパのことを教えていい?」
メールは返ってこなかった。
その代わり、葉子が音声電話をかけてきたのだ。
とても慌てた声で、待って待ってと騒いでいるが、元気そうな彼女よりも落ち込んで可哀想な金虫家の方が大事だろう。
僕は声を出せないからとスマートフォンをスピーカーにして、喋れる梨々子にスケッチブックに僕が葉子に伝えたいことを書いて見せつけた。梨々子はアーモンドアイを驚きに見開いた後、スマートフォンに向かって僕の文章を読み上げたのである。それはとても彼女風にかみ砕いたものであったが。
「ねぇ。ストーカーのお化けがママのパパって本当?クロトがママの目元がそのお化けにそっくりだって言っているんだけど。」
梨々子の言葉を聞いた鈴子はがばっと娘の肩から顔を上げると僕の書いた画用紙の文字を読み、そして僕をまじまじと、それはもう必死な目で見ているのだ。
けれど喋れない僕の代わりに、そうだと、答える葉子の声が病室に響いた。
「バカな人なの。あたしが馬鹿なんだけど。家出してね、十五歳なのに二十歳だって嘘をついて彼の押しかけ女房してさ。でもさ、あいつは死んじゃったの。人を庇っての殉死。英雄に祭りたてられたからさ、あたしは名乗り出れなかったのよ。だって、十五歳の少女に手を出していたなんて、死んだ彼の経歴を汚してしまうでしょう。」
「お母さん。ねぇ、私は、私は。お母さんにも障害だったのかしら。」
鈴子はだみ声の囁き声しか出ないのに、何度も咳き込みながらも、スマートフォンに向かって葉子に訴えた。スマートフォンは鈴子の声が聞こえたと確実に判る息をのんだ音がはふっと響き、それから葉子の震えた声が流れて来たのである。
「馬鹿ね。あたしはあんたがお腹にいてくれて助かった。あたしは彼と一緒に死にたかったけれど、あんたがお腹にいるって知って、それで幸せな気持ちになれたの。すごく、すごく幸せにね。あたしの事、あの人と同じ目が見つめてくれるのですもの。あたしはね、あの人のことをまだ愛しているのよ。きっと死ぬまで愛しているのでしょうね。」
鈴子は子供のように激しく泣き出し、梨々子はそんな母親を強く抱き締め、そして、子供である彼女は幼い子供そのものの物言いをした。
「でもおばあちゃん。おばあちゃんはまさ君の事大好きよね。恋人みたいにまさとしって、呼び捨てて甘えているじゃないの。」
ハハハとハスキーな笑い声がスマートフォンから流れ、葉子は僕には絶対に知りえない真実を家族にようやく打ち明けたのである。
「あの人の名前もまさとしなのよ。雅に俊敏の敏の雅敏。そしてね、勝利の声は雅敏と似ているの。あたしはあの子をからかって、あの子の声を聴くたびにね、雅敏がそこにいるような気になるのよ。」
「声が似ているって、まさ君ぐらいお祖父ちゃんはいい男だった?」
「あたしの雅敏の方が上ね。背も高いし。」
そこで病室は主に梨々子だが笑いのさざめきで彩られて明るくなり、病室の隅で娘を心配して松野邸から出張していたらしき雅敏の霊は、笑顔のまますぃっと姿を消した。
その代わりに病室のドアが開き、緊張した面持ちの金虫警視長が現れたのである。
梨々子と鈴子は同じタイミングで彼へと首を回し、びくびくと脅えている恰幅が良くても貧相にしか見えない男に成り下がっている彼に、なんと梨々子が抱き着いたのである。
「聞いて!私達は波丘と血がつながっていなかった。パパとこれからも一緒なの!」
愛娘が抱き着いて叫んだ台詞に、金虫は妻と娘が自分から離れようとしていた本当の理由を理解し、みるみると本来の自信と魅力を取り戻していった。
「君たちが波丘一族でも、僕が君達を手放すわけ無いじゃないか!仕事こそ放り投げてやる!無職になったって構やしないよ!」
娘を数日ぶりに抱きしめて有頂天の彼は、一昔前の映画スターのような大輪の笑顔で僕に微笑むと、「もう大丈夫だよ。」と僕に言った。
「それを君に伝えたくて君を探していたんだよ。ここで会えて良かった。百目鬼さんへの監視は今日の午前で終了したからね、もう大丈夫だよ。彼は無罪放免で、君はこれからいつだって彼に会いに行ってもメールしてもいいからね。」
僕は大いに喜んで、ビニール袋とスケッチブックを掴むと、一目散で病室からすっ飛んで、あらん限りに、わき目も降らずに走ったのである。
何日ぶりだろう。
僕はようやくあの家に帰れるのだ。
しかし、あと数歩というところで、僕の足が止まってしまった。
僕からメールをしてはいけないけれど、彼には何の制限もなかったはずだ。
尋問から解放されて五日も経つのに、彼は僕には何の連絡もしてくれなかった。
僕が怖くて呼び鈴を押すことも出来ずにぐずぐずしていると、足元で「にゃあ。」と太い泣き声がした。
それは近所のメインクーンという化け猫で、三毛が灰色に見えるほど今日も薄汚れている彼女は、良純宅の高い塀の上へ行きたいようだ。しきりに僕を見ては塀を見上げるという風に、彼女は顔をふんふんと偉そうに動かしている。
「猫だったら自力で登ったら。」
「あにゃあ。」
猫は耳がいいのか、僕のぼそぼそ声に反応して耳をくいっと動かすと、僕を脅そうとしているのか、顔を斜めにして僕に向けた。ポン子の、まるで「やれよ。」と言っているような顔は、楊がおどけてみせる表情によく似ていて、仕方が無いと諦めた僕は彼女をそっと抱き上げた。
「う、重い。君は何キロあるの。本当にネコなの?」
実は僕は猫が大嫌いだ。
猫は最高の家具を傷め、素晴らしい陶器を鑑賞しているその目の前で、その陶器を床に落とす。しかし、今の僕にはポン子の体は暖かくふかふかとして、この数日の自宅での日々の寒々しさを温め直してくれるようであった。
「でも、重い。重いよ、君は。」
実際にポン子は重すぎて僕が塀へ持ち上げる事は不可能であったが、彼女は自分が猫だった事は十分に熟知していたようで、後ろ足で僕の胸をしたたかに蹴り上げるとその反動を利用して塀へと飛び乗ったのである。もちろん重量級の生き物に蹴られた僕は尻餅だ。
「ひどいよ、ポン子。」
「うにゃあ。」
僕を小馬鹿にした鳴き声を塀の上から放つと、彼女は優雅に歩きだした。が、いつものように数歩も歩かないうちにドサンという音を立てて良純宅の敷地内へと落下したのである。着地ではない。彼女はぼとりと落ちるのだ。良純さんはあれは猫ではないと言い張っている。こんな間抜けで鈍くさい猫はいない、あれは狸に違いない、と。
「ポン子を馬鹿にする割には救出は素早いよね。抱きかかえて怪我がないか確認して、しばらくポン子と遊んでから近所の飼い主に返しに行くんだよね。あ、あの人ってツンデレ?もしかして、ツンデレ?それなら僕が門を叩いても追い返されないよね。」
でも、僕は門を叩けなかった。
門が開き、化け猫を抱きかかえた坊主が僕を見下ろしたからだ。
緊張する僕に、彼は入れとは言わなかった。
僕の首根っこを掴むと、僕を持ち上げるようにして敷地内に連れ込んだのである。




