三十四、屋敷の奥
山口は目の前で起こっている出来事に大声で笑うよりも茫然としていた。
目の前の破戒僧は本物の破戒僧であった。
屋敷では彼を制止する巨体を三体は宙に放り上げ、お駄賃とばかりに飾られている壺だろうが花瓶だろう襖だろうが、なんでも薙ぎ払い、高級そうな床が組木細工だろうが大理石だろうが、それが瑪瑙だろうが、ガンガンとひび割れるほど靴音高く進んでいるのだ。
「安全靴ですか!お坊様が僧衣の下は安全靴ですか!」
「うるせぇ。俺は寒いのが苦手なんだよ。」
破戒僧は山口に言い捨てると彼めがけて走ってきた警備員の喉元にラリアットをかまし、後ろに反り返った土産にと下肢に後ろから足をかけて転がせた。ただ転がせただけではない。その技をかけられた哀れな男は宙に浮き、それから背中から床に落ちたのである。
山口はずしんという音が自分の体にまで響くのを感じながら、合気道の段持ちの男が切れのいいプロレス技ばかりを使うことに「なぜだ」と心の中で突っ込みも入れていた。
「おら、そろそろ田神を呼ばねぇか。俺は目的のドアを自分で開けたくは無いんだよ。」
「大丈夫。来てますよ。」
「わぁ!」
山口は突然の田神の出現に、思わず漫画のような変な格好になるほど驚いていた。
「一体いつの間に。」
「えー、ほとんど最初から。おもしろいねぇ。戦い方がスカッとするよ。」
田神の誉め言葉には何も反応せずに、百目鬼はずかずかと目の前の四段くらいの階段を上がり、その先の扉をめがけて歩いていく。波丘家の主人の間。大きな金色に塗られた二枚の襖が廊下の奥に行き止まりのようにあり、その襖の前には山口達が逮捕するべく久一でも久之でもなく、母親の静子が立っていた。
古典的な柄の振袖を着て、肩には花のモチーフを繋げて作った色とりどりのストールを纏い、おかっぱの白髪頭の天辺には大きな花のついたリボンを飾っている。
「私はあなたをお呼びした覚えはありませんよ。」
「お美しい静子様に会いに来るのに理由は必要ですか?無体な邪魔者は全て倒してしまいましたが構いませんよね。」
静子はうふふと少女のように頬を染めて微笑み、山口を指さしてあれも欲しいと言い、百目鬼はどうぞと返した。
「え、百目鬼さん?」
「どうぞ、静子様。あなたには新しいおもちゃが必要でしょう。今お持ちの古いおもちゃを捨てるのならば、こちらを差し上げてもいいですよ。」
「いやよ。お人形は沢山欲しいの。あの子とあなた。欲しい。」
静子は山口を指さし、次に百目鬼を指さし、そして最後に田神を指さした。
「あれは、いらない。」
「あれこそ貰って欲しいですけどね。」
「百目鬼さん。」
山口は百目鬼に声をかけたが、山口の声に反応した静子が彼をじっと見つめ始めたので、百目鬼の背に隠れるように場所を移動した。
「軟弱もの。」
「すいません。」
「それで百目鬼さん、僕に開けろと言った扉はこれですね。」
田神が一歩前に出ると、静子が襖を守る用の両腕を広げた。
「ダメです。」
「では、私も帰ります。」
「え?百目鬼さん?」
驚く田神と山口をよそに、百目鬼は静子にかがみ、彼女の耳元に恐ろしくも甘い声で囁いたのだ。
「私が欲しいでしょう。欲しいのならば、その扉の奥の煩悩は捨ててしまいなさい。」
「いや、よ。」
「捨てたほうがいいのですよ。嫌でしょう。ほかの女にうつつを抜かす男なんて。」
すると今まで少女のようにふるまっていた静子が、低い女の声で笑い出したのだ。
「ふふふ。それも今日で終わりだからいいのよ。自分の子供が焼き死ねば、高志さんだって思いきるでしょう。いつまでも葉子葉子って唱えていたのは、自分の子供がいるからよ。それも可愛い女の子。私は男の子しか生めなかったから猶更ね。」
「久一君も久之君も母親思いのいい子じゃないですか。」
静子はふんっと鼻を鳴らした。
「高志さんに全く似ていない。誰に似たのかしらね。」
「あなたでしょう。僕の鈴子も波丘高志に似てもいませんけれどね。」
山口が振り向けば、金虫警視長が立っていた。
物静かで冷静沈着と聞いていた警視長が、人殺しも、それも自分の母親程の年齢の女性に対しても行えそうな殺気を纏っていることに山口は背筋が凍った。
「母親似だから執着しているのよ。いつまでも葉子葉子葉子葉子。でもね、それも今日で終わり。娘は死んで、あの女の最愛の愛人達も死ぬ。いい気味、いい気味だわ。」
「死にませんよ。」
百目鬼の声が響いた。
優美に立ち、ほとんど口も動かさず人形のように静子を見据える美僧は異形のもののように毒々しく、だが、美しく、静子は彼に見ほれながらも慄きの声を上げていた。
「ど、どうして?」
「全員脱出して無事だからです。」
「それは本当か!百目鬼君!」
喜びの声を上げて叫んだのは金虫で、百目鬼はやはりはったりだったらしく間抜けな警視長を頭から飲み込んでやりたいという蛇の顔で睨み返した。
「ふふふ。あら、やっぱり嘘ね。そうね、久之が久一みたいに失敗する事はないものね。あの馬鹿な久一みたいにね。本当に馬鹿。非力な坊主を逃してしまうなんて、本当に、馬鹿。おかげで大事なおもちゃが壊れてしまった。」
そこでワハハと高らかに笑い声をあげたのは百目鬼である。彼こそ久一の誘拐から逃げ出した被害者そのものだから当たり前だろうと山口は考え、だが、百目鬼のあまりの鬼気迫る笑い方に彼は少々の不安が湧いて出ていた。
何が彼をここまで追い立てるのだろうか、と。
「あぁ、クロト。」
世田谷に向かう途中に百目鬼から聞いていたあの土地のあの仕掛け、その後の無線で耳にした仕掛けが発動した後の火の回りでは、きっと武本は無理であろうと、とうとう山口は思い当たったのである。わかっていながら認めることを頭が拒否していたのだ。
金虫はとうに理解していたのだと彼の焦燥ぶりに納得し、終に、百目鬼こそ仕掛けの発動を耳にしたその時に最悪の結末を受け入れていたのだと山口は認めるしかなかった。
だからこそ、あれほどの破壊だったのだ、と。
彼は自分の人生をも一緒に破壊しようとしていたのだ、と。
「そうですね。本当に馬鹿です。ですがね、馬鹿な息子は馬鹿な母親が作るものなんです。生まれたばかりは皆無垢です。それを粘土を捏ねる様にして作り上げるのが母親だ。あなたは最低な母親だ。反吐の出る、唾棄すべき存在です。」
そこで百目鬼は静子への攻撃を止めると、再び田神を見返し、襖の方へ顎をしゃくった。
「どうぞ、開けてください。あなたの部下の消息はその襖のむこうにあるはずです。」
言い切ると襖の前の静子の胸ぐらをつかんで引き上げてから、ゴミを捨てるように彼女を床に放ったのである。
「何をなさるの。」
「あなたをあなたせしめている悪夢を破壊するだけですよ。さぁ、田神さん。そこの襖を開けてみてください。」
田神は襖を開けなかった。
金の襖の下部を蹴り飛ばしたのである。
扉ではなく襖だ。
襖は二枚一緒に廊下の方へと倒れこみ、だが、山口達に其の部屋の全貌を見せつける前に汚物の悪臭が新たな空気を目指して山口達を襲い、あまりの悪臭に部屋の前の男達は全員鼻を抑えて顔をそむけた。しかし、最初の悪臭の襲撃が過ぎれば恐る恐ると前方に目線を戻し、開かずの間の奥にミイラ五体が安置されていたのを目にする事となったのである。
手足が無い者、おかしな方向に手足が曲がっている者、あるいは痩せて萎えているだけの者など様々である。
共通しているのは、全員が鎖のついた首輪を嵌められた紙おむつ姿なのであるということだ。
「しんばらぁ!」
田神の叫び声に山口はびくりとした。
田神は一体のミイラに真っ直ぐに駆け寄って介抱をし始めている。
山口も被害者の介抱に向かわねばと思っても目の前の情景に慄いたのか体が動かず、情けないと思いつつ警視長の金虫を見れば、彼は最愛の妻を忘れるほどただただ目を丸くして立ち尽くしているだけだった。
そんな凍った時間の中、一人素っ頓狂な声を上げて場を壊したのは、当り前だが百目鬼だった。
「あ、うそ。五人もいた。」




