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三十三、追憶

 子供が生まれたら女の子は鈴子。


「では、男の子だったら?俺はなんて名付けたかった?」


 不思議なことに楊は、女の子の名前は「鈴子」だと決めていた。


 まともに女性と付き合えた事もない、結婚願望もそれほどない彼でありながら、なぜか子供を抱きたい願望は強く、最初の女の子は「鈴子」にしようなんて考えていたのだ。



――初めまして。梨々子の母の鈴子です。


 その時の楊は自分が彼女を抱きしめてしまわない様にと、自分を抑えるのが大変だったと思い返す。肩までのストーレートの髪は艶やかに揺れ、しかし、真っ黒でありながら軽やかだ。松野の娘と思わせる彼女と同じ輪郭に彼女と同じ完璧な鼻と口元が収まっている。


 ただし、目元は全く違う。

 楊にとっては懐かしい、見慣れたとなぜか思う、愛着を感じる眠たそうな奥二重の瞳だ。


「どうなさったの?」


「いえ。見惚れてしまっただけです。」


 眠そうな目元は楊の称賛に喜びで細くなり、白い肌はほんのりと桜色に染め上がった。


「まさ君の好みはママだったの!」


 小学生の大声が、楊と鈴子の間に流れた空気を引き裂いた。

 楊が松野の家を警護に立つたびに、屋根裏の窓から楊をのぞき見していた黒い影。

 人に脅えて、自分自身を隠そうと長く伸ばした髪で顔どころか全身を隠していた少女であったが、今や長すぎた髪は腰ぐらいに切り添えられ、顔を表に出すように前髪はポンパドールに結ってある。彼女の隠れていたアーモンド形の宝石のような瞳は涙目で、楊を睨むようにして見つめているのだ。


「わお。なんて美少女だ!」


 楊は癇癪を起した少女の所へと自然に足が動いていた。そして、少女の頭を当たり前のように撫で、当り前のように松野へと振り返って叫んでいた。


「葉子!口元はみんな君にそっくりじゃないか!」


 松野家で楊が参加させられた最初の食事会で、彼が彼女達に感じた愛着と高揚感が何だったのだろうと今更ながらに回想し、彼が小動物を拾う時に感じる喜びと同じだと無理やりにでも結論づけた。あの日、楊の思わず叫んでしまった言葉に松野が酷く驚愕した顔を彼に見せ、それから「そうよ!あなた!」と最高の笑顔で叫び返してきたという事実から目を背けたいという思いがある。それで楊の運命は決してしまったのだ。


「彼女達は小動物じゃないのに、俺は一体どうしちゃったんだろうなぁ。」


 今更運命に抗いたいと思ったのか、楊は過去に拾ってきた小動物を様々に思い浮かべてみた。野良犬野良猫はもとより、ドブネズミの子供、夜店のひよこ、目の前を横切ったカナヘビ、死にかけたリクガメ、そして、交通部のエースを転ばせたハシボソガラス。

 真っ黒なハシボソガラスはオリーブ色の大型のインコに変形した。


「あ。何を回想しているんだ。拾得物三か月ルールでもうすぐ俺はお父さんになるじゃないか。しっかりしろ。乙女ちゃんを父無し子にするつもりか。頑張れまさとし!。」


 現在自宅で保護しているワカケホンセイインコを思い出した楊は、いつの間にか自分が倒れていたと気付き、立ち上がろうと地面に手の平をつけて力を込めた。


「痛い!手の平がものすごく痛い!」


 掌の痛みに意識ははっきりと戻り、痛みから逃れるように力が入り上半身を持ち上げられた。彼は今度は膝にも力を入れた。今度の痛みは膝ではなく、腰と背中を襲った。

 数十秒前か数秒前か、もしかしたら数時間も前なのか楊にはわからないが、彼はトラックから降りて坂下達に「降りろ」と声をかけたそのまま地下が半分出来上がっている地点、鈴子のいる筈の受水槽の設置予定場所を目指して一人駆けていたのである。


「痛いよ!生きててうれしいけどすごく痛い。体中が痛い。こんなに背中がびしゃびしゃで、俺はきっと血まみれだよ!もうすぐ死んじゃうんだよ!」


 楊は背後で起こった爆風に前方に飛ばされて気絶してしまったのだと、叫びながら思い出していた。そして血にまみれている筈の自分の体を見下ろし、完全に濡れているが、それは水でしかなく、自分の上にざぁざぁと雨が降り注いでいるのだとようやく理解したのだ。だが、楊に降り注ぐ水は決して雨などではなく、消防車の散水でもあり得ない。


 全身の血液が冷え冷えと凍えていく中、彼は水源を茫然と見つめた。

 受水槽付近が爆発したのか、破裂した水道管から大水が天高く吹き出しているのだ。


「畜生!鈴子!どこにいる!」


 楊は叫びながら立ち上がり、炎が消えて見通しが出来た建設地を見回した。

 楊が立つそこは一階部の半分くらいの地上躯体工事が済んでいる区画であった。


「かいだん、階段、…………あった。」


 十メートル先に地下へと続く階段部があるはずだが、楊の脳は階段が見えたと頭が認識するよりも体を動かせていた。

 つまり、彼は階段があるはずの空間へと飛び降りたのである。

 彼は猫のように階段に降り立ち、そのまま地下へと駆けおりた。


「すずこ!すずこ!」


 叫んでいても楊には自分の声までも聞こえなくなっており、自分の声が出ているのかさえ分からないのに、彼は叫べるだけ鈴子の名前を叫んでいた。叫んで叫んで、とにかく受水槽があった場所へと向かうべく暗い地下を走っていた。


「畜生。地下にも火が回っている。おかげで灯りがあるが、外よりも熱い。畜生。畜生。おい!鈴子!すずこ!迎えに来たんだからお前も叫べ!お前はどこにいるんだよ!」


 ガタン。


 天井であったコンクリートが楊の数メートル先で落ちた。


「うわぁ!」


 しかし、天井が落ちた事で地下にまた少し光源が出来た。

 大型のタワーズマンションは地下一階にコンビニエンスストアや飲食店などを誘致して作り、住民だけでなく地域住民の憩いの場として機能させようとするものもあると楊は周りを見回した。楊の想像通りよく見ればそこは地下というよりも高級感のある石造りの商業スペースである。


「畜生。もう一階下なのか。」


 広大な敷地に作られた地下世界の地図を頭に描きながら絶望に彩られていく中、彼は火の回りがほとんどない一角がすぐそこにあった事に気が付いた。眺めていくうちにそこに火が回っていなかった理由を理解し、だが、見えているものを彼はなかなか認識できなかった。彼は全力で否定していたのかもしれない。


 認めれば彼は今までの彼ではいられなくなるかもしれない、と。


 天上から水が流れ落ちている大理石のような壁面にはいくつかの段差が階段状にしつらえてあり、一番下の方が大人一人が横になれるほどの半円状のプールとなっている。

 静子はその噴水のプールの中にはいなかった。

 彼女はプールのすぐ上の段に右を下にして横たわり、だが意識はあり、必死に楊に向けて左手を伸ばしているのだ。


「すずこ!」


 自分のあげた声が自分の頭の中で響き、それが彼の背を後押しし、彼は彼女の元へと駆け付けつけるべく走り出していた。そして辿り着くや彼女を台座から少々乱暴に抱え上げ、彼が望んでいた通りに彼女を強く抱き締めたのである。


「あぁ、よかった。無事だ。あぁ、無事だ。あぁ、あぁ。良かった、よかった。」


 楊は鈴子を迷子の幼子を見つけた父のように抱き締めている自分を認識するにつれて、ようやく本来の自分に少しずつ戻っていく自分をも冷静に捉えていた。


「俺は一体何をやっているのよ。」 

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