三十二、記憶
ごめんなさいと謝るには事態は遅すぎた。
僕達は後にも先にも炎の壁に挟まれた。熱気が熱すぎるからと僕は坂下の背広に入れ込まれるようにして抱きかかえられ、荷台の襲撃者達は戒めを解かれた今でも、今だからか、そこで動かず脅えて身を寄せ合いながら固まっている。
動いているのはトラックだけだ。
楊は静子のいるだろう地下へと、そこに必死に辿り着こうと頑張っているのだ。
バシュン。
破裂音とともに車体ががくんと大きく揺れて落ち込んだ。
「駄目か。タイヤが破裂した。」
坂下は僕を抱く腕に力を込め、僕はぎゅうと坂下を抱き返した。
彼の心臓の音がどくどくと激しく音を立てて、僕は大きな水の音の様だと思った。
乾いた土地に水をくれる神様はこんな音だったっけ?
「え。」
「どうした?玄人君。」
「水をくれる神様はどんな形?」
火ぶくれと煤で赤黒くなった顔が僕を見下ろした。
目までも真っ赤に充血した坂下の顔は、記憶の中の仏間の天井近くの壁に飾ってあった鬼の面を僕に思い出させた。長方形の板に張り付けられた面の下には赤い爪。そうだ、唐辛子をかたどったような赤い布製の爪が三本づつ左右に張り付けてあるのだ。あれは、母方の祖父の家に飾ってあった魔よけの面。
祖父の家には仏壇もあるが、祖父の山には神社もある。
神社には水をくれる神様が鎌首をもたげている。
「そうだ、新潟のお祖父ちゃんの家の神様は水を呼ぶ蛇神様だ。神様を、神様を呼ばないと!あぁ、神様、神様!」
「玄人君?」
バン!
運転席のドアが閉められた音だ。
「畜生!お前ら急いで車から降りて!危ないが徒歩で行く!あと数十メートルなんだ。死にたくなければ今すぐ降りろ!」
楊のど怒号に僕達は、いや僕は白昼夢から覚めた。
「さぁ、荷台から降りるよ。」
坂下は役に立たない僕を子供のように抱きかかえた状態で荷台から降ろし、僕は僕達を置いて走り去った楊の事よりも空だけを眺めていた。
炎が呼んだ煤や煙は、夏に大雨を落とす重苦しい入道雲を思い出させた。
「白波は大きな白い蛇のうねりをあらわした名前。あぁ、白波様」
ごおんと僕への返事のように空や地面が揺れた。
すると、ぽつん、と冷たさを僕の額に感じたのである。
「え、冷たさ?」
慌てて額を右手で抑えると濡れており、驚きのまま首が折れる程空を見上げれば、なんと煙で灰色に染まった空から次から次へと水が、水滴が落ちかかってきているのだ。最初は熱気で蒸発したのかぽつぽつと、そしてそのうちにざぁざぁと。
「かみさま。おじいちゃんちのかみさま。」
僕は空を見上げ、天から降ってくる雨を全身で浴びていた。
汚れた体を雪ぎ、清廉なものへと作り替えるだろう恵みの雨。
「あぁ、神様。」
ぱしん。
天を仰いで神を讃えていた僕の口を強制的に塞いだのは、坂下の大きな手であった。
「飲んだらダメだよ。この水は燃えて散っている有害な化学物質も含んでいるだろうからね。さぁ、俺達も楊を追って鈴子さんを助けに行こう。」
「はい。」




