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三十一、ご覧あれ

 俺達の車は世田谷の目的地の手前には着いたが、田神班の運転する二台の車は完全に警視庁のパトカーに囲まれてそこで一旦の停止を強制された。

 痺れを切らしたか、田神が「歩く」と短く言い、しかし彼が車から飛び出す直前に、田神の座る助手席の車窓を叩かれた。恰幅の良い日本人離れした体形に、娘と同じアーモンドアイを持ち、娘と同じアッシュブラウンに輝く癖のある豊かな髪を持つ、映画俳優のようないい男だ。


 金虫真澄警視長その人である。


 彼はいつもと違いその素晴らしい髪をくしゃくしゃにさせ、アーモンドアイの目元は疲労で赤黒く染め上げて皺までも深く刻まれていた。

 田神は警察庁の高官に慇懃な対応をするでもなく、普通の通行人に対応するように「何か?」と金虫に答えていた。


「妻は、妻はどうしたんだ?娘と母が無事だというのは本当か!」


「本当です。奥様も無事でいて欲しいのであればこの包囲網を解いてください。」


 田神の返答に金虫は身を起こして周囲をぐるっと見回し、しかし、大きく首を振った。


「できるわけないだろう。一般人の自宅に捜査令状もなく突入など許せるものではない。それに、もう日が落ちてしまったでは無いか!」


 刑事訴訟法116条によると、令状があってもその例外の記載が無い限り、日の出前と日没後は執行はできないのである。つまり、警察は犯罪者宅のドアを夜には叩けないのだ。


「警察官は無理でしょうね。」


 俺の存在を忘れていたらしき金虫は俺に振り向き、俺は出来るだけ優美に見えるように自分の動きに集中しながら、あえて大仰そうに車から降りた。



「人は金で徳を見る。」


 最近俺の師となったらしい照陽は、弟子である俺にそう嘯いた。


「経を読むときの僧は舞台の主役だよ。お前が歌うのは天上のアリアだ。」


 俺の師であり、本当の父とまでなってくれた俊明は、破戒僧そのものだ。


「俊明さん。御覧あれ。」


 俺はふっと軽く息を吐いてから、袂から小型の棒付きの鐘を取り出すと、それを叩きながら一歩一歩と歩きだした。坊主が経を唱えるのは当たり前のことだ。般若心経を唱えながら波丘家に向けて歩く事が、警察に咎められるような犯罪行為になるわけはない。

 あそこは魔の家。

 祓わねばならない欲が詰まった不浄な場所だ。


「あの、和尚様?」


 俺を制しようと一歩前に出た男をねめつければ、男はすぐに俺から目を逸らし一歩下がった。俺は前に出る。一歩、また一歩と。

 楊は鈴子を助けに武本までも巻き込むはずだ。

 否。

 武本が楊にその方向を与えるのだ。

 俺が武本に波丘建設の計画しているらしき図面と現在の地図を合わせて見せた事があったことが失敗だ。地形が頭に入っている彼ならば、その地で災害が起こればどこが安全なのかと考え、知っているからこそ間違えるであろう。


 彼は言ったはずだ。


「貯水槽の設置が完了している地下に行けば助かるかもしれません。」


 建設途中で放棄され、今一番に燃えているその真下。

 完全な密室であっても熱気でそこは燻される。

 密室でなければ熱された空気がそこで渦巻く灼熱地獄だ。

 そこを目指した彼らは辿り着くまでに死ぬか、辿り着いたそこで全員死ぬだろう。

 全ては短慮な俺の責任か。


 カチャン。


 俺の行く手を止めたのは、警察でも警備員でもなく電動の門扉であった。

 ほんの数秒俺は立ち止まらせられ、俺の後ろの警官が俺を咎める寸前に門がガチャリと解錠の音を立てた。

 ゆっくりと門が左右に開いていく。

 俺の後ろに控えていた警察官達はそのあり得ない現実に驚きの声をあげ、俺はいかにも俺の神通力によるものだという風にできるだけ大きな劇的な動きでもって袂に鐘を収めた。そして鐘の音は無しのまま、再び経を読み上げながら、また一歩、一歩と前を進んだ。

 俺一人だけ敷地内に入り、俺の後ろの警察官達が進むか俺を引き戻すかの躊躇の一瞬にガチャリと大きな音を立てて門は締まり、俺と俺の後を追ってきていた警察官の間を完全に遮断した。


 さぁ、次は玄関だ。


 長柄警備の社長は迅速だった。

 迅速で、非常識でもあった。


 武本の急難を知るや俺に繋ぎを取って来て、俺が波丘の家の図面が知りたいと言えば、家の図面はもとより、頼んでもいない波丘家が使用している警報器の無効コードまで俺に差し出して来たのである。彼とは電話だけで直接に顔を合わせてはいないが、ホームページの社長近影は、由紀子によく似た博多人形のようなつるっとした顔をした優男だった。


「いいのか。商売は信用第一だって武本がいつも言っているぞ。」


「僕が守りたいのはクロちゃんだけだからいいの。」



「どいつもこいつも。世界は狂っているよ。」


 玄関ドアが勝手に俺に向かって開いたので中に滑り込むと、俺の左後ろに背の高い男の影が落ちた。


「それには僕も入りますか?」


「まだいたのか、帰れよ。」


 泥棒さながら波丘家に先に侵入し、道を開けたのが山口だってだけである。

 あのように金虫が表で警察官の大軍を引き連れて騒ぎを起こしていたせいで、山口が不法侵入しては他家に移動していた行動を逆に家人に見咎められ易くなるかと案じたが、それは杞憂であったようだ。

 山口が波丘家までの道筋として泥棒のように侵入した三軒であるが、その三軒を選んだのは長柄警備の裕也である。

 うちと契約しているから、と。

 俺の家も長柄警備と契約しており、俺はこの一連の長柄の動きを経験するにあたって、奴らとの契約を破棄をしてやろうかと不安を覚える程だ。


「ひどいですね。俺だって首覚悟だって言ったでしょう。さぁ、どうぞ、ここで異常行動をガンガン起こしてください。警察官が令状無しに突入できるように、さぁ。」


「首覚悟のくせに、結局俺にやらせるのか。」


「違法行為はもうお腹いっぱいですよ。」


「何人倒した?」


「二人だけ。警報器を無効化した所を見咎めたお手伝いさんと、庭にいた警備の人。」


「見咎められるなんて腕が悪いな。」


「ふん。」


 わざとらしく拗ねる山口をわきに、俺は再び経を唱えだす。

 威風堂々と、この世から悪鬼を叩き出せるほどの冷徹さを持って。

 玄関は普通に入ったが、ここからは俺の独壇場だ。

 俺が目的地とするは家の北側。

 釈迦が滅した時に頭を向けていたという鬼門。

 俺はこの家の鬼を祓いに来ただけの破れ坊主でしかないのだ。

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