二十九、高額商品にはそれなりの扱いを
僕が梨々子でないことは何の問題もなかった。
誘拐犯たちにとって計画違いが起きたのだから当たり前だろう。
僕達が連れ込まれたのは良純和尚の物件であり、この家は波丘建設が計画しているタワーマンション用地の中心に鎮座し、嫌がらせのように事故物件となって数々の開発計画を台無しにしてきたという悪魔の家だ。
車から引きずり出された僕はその見覚えのある家の中に連れ込まれ、鈴子はいなかったが、小汚い六畳間で後ろ手に手錠で拘束されて意識を失っている坂下の脇に転がされた。
背中を突き飛ばされたので、僕が勝手に彼の脇に転がってしまったともいえるが。
転がった僕は誘拐犯が目的か脅しを語るだろうと彼らを見返したのだが、僕に見えたのは廊下を物凄く狼狽した誘拐犯が慌てふためいて走り回り始めた光景だった。口々に騙された、とか、俺達までもか、などと騒ぎ立て、そのうちに車に乗り込んで逃げてしまったので、恐怖を感じるどころか放置状態に怒りさえ湧いていた。
高額な商品がそれなりの扱いを受けないのは不条理この上ないと思う。
怒りは不条理なものに湧くものだから、僕の怒りは正当だ。
僕は大きく怒りの吐息を吐き出すと、両手を腐った畳についてよいしょと立ち上がり、誘拐犯が消えてしばし安全となった僕達の監禁室を見回した。
木の天井に四角い点灯紐をぶらさげた照明器具が揺れており、足が沈むような畳は6畳半ある。床の間には無意味な呪符らしいものが書かれた大きな和紙が張り付けてあった。
バブル崩壊後に競売にかけられて楊不動産が手に入れたが、その家の元の所有者が賃貸契約を結んでいたがために転売もかなわず、数年後に居座っていた賃貸者に集団自殺を起こされた曰くつきの昭和の家は、そのまま朽ちるに任せていたようだ。何の手入れもしていなかった家はそこかしこがきしみ、腐り、いつでも天井が僕達の上に落ちてきそうな程である。
「でも、湿気ているから火の周りは悪いかな?」
僕をこの家連れ込んだ人間達が僕達を見捨てて去ったのは、タワーマンション用地に火が放たれたかららしいのだ。
用地には円状の溝が幾重にも掘られており、その溝には可燃物が流されていたようである。最初に放たれた炎は用地の外周を彩る様に燃え盛り、内側へと炎は勢いを増し、次の円をも点火してしまった。
雪も降りそうな寒空だからか僕には熱気をまだ感じられないが、近づいてくるあの炎の勢いでは今すぐにも逃げなければ僕の命もお終いだろう。
僕達を置いて逃げ出した男達が戻ってくる前にと、僕は坂下の元へと急いだ。
「坂下さん。手錠の鍵を持っている?」
意識を失っている振りをしていた男は、「持っていない。」と簡潔に唸り声で答えた。
「仕方が無い。かわちゃんの嘘が本当か試してみるね。」
僕は右足のニーソックスを思いっきり足首まで下げると、足首にセロハンテープで貼り付けてあった小さなカギを取り出した。そして僕の動作に驚く坂下を戒める手錠の鍵穴にそのカギを差し込んだのである。カチリと簡単に錠は開き、坂下の両腕は一時間ぶりに自由を得た。だが彼は喜ぶどころか、両腕にマッサージを施しながら僕を眇め見ているのである。ジーと、それはもう訝しそうに。
「あの、何でしょう?」
「楊がなんて?」
車のエンジン音が聞こえた。
「あ、あの。でも。」
「いいから。」
彼らが戻ってきたのだと僕が不安になっているのに、同じ音が聞こえた筈の坂下は僕をその精悍な眼つきで睨んでいるままだ。僕は不安になりながらも、坂下が動くようにと願いつつ楊の言ったことを告白することにした。坂下も同じ警察官なのだから大丈夫だろう。
「え、えぇと。おもちゃの手錠の鍵と本物の手錠の鍵は一緒だよって。」
「あいつが言ったのか?それでそのカギはおもちゃの鍵か?」
「え、あぁ、はい。これはかわちゃんが。えと、それを教えてくれた時にくれたんです。これはマル秘情報だから誰にも話さず、そして、いざという時のために絶対に無くさずに、常に身に隠し持っておけって。」
「あいつが?」
「はい。」
しばし坂下はぎゅうっと目をつむって数秒数えていたようだが、僕達のいる方へと床の軋みが近づいてくるに気づいたか、彼はかっと目を見開いた。
「かわやなぎ!お前は全部知っていたな!」
「知るわけないじゃん。たださ、ちびはこの間の件で警察関係者の逆恨みの対象になっているからさ、保険。ただの保険。ちび、そのカギは本物だから俺に返してね。」
破れかけたふすまからひょいと顔を出して現れた楊に、僕は持っていた鍵を手渡した。
本物の手錠の鍵ならばすごく思い出の品に取っておきたい一品だが、僕は良純和尚がスペアを自作していたことを知っているので執着なく楊に差し出せたのである。だが、鍵を手にした楊は坂下に優越そうな笑顔を見せつけた後、ひょいとかがんで僕の耳元に囁いた。
「百目鬼にも絶対に隠し通せと伝えておけ。」
お見通しなのかと僕は楊を見直し、そして疑問が沸き上がった。
「どうして坂下さんはかわちゃんだとわかったの?信頼があるんですね。」
「エンジン音。」
「え?」
「奴らが乗っていたハイエースとこいつが乗ってきたらしき車のエンジン音が違ったからね。こんなあばら家で猫みたいにひょいひょい歩けるのもこいつだけだ。」
僕は坂下の耳の良さを褒めるべきか、楊の隠された凄い身体能力を褒めるべきか一瞬悩んだが、楊の坂下に対する自慢たらしい表情に坂下を褒めることにした。
「坂下さんは耳がいいんですね。」
僕はドレスの首根っこをつかまれて、楊にひょいっという感じで立たせられた。
「ばか、ちび。エンジン音を聞き分けるのは車好きの誰だってできるの。そんなおべんちゃら男におべんちゃら言っていないで、すぐにここを出るよ。火がかなり回っているからね、すぐに鈴子を見つけ出さないと。ねぇ、ちびにはさ、鈴子がどこにいるのかわかるかな?お前には生きている人間がどこにいるのかわかるか?」
僕にいいえは許さない顔で楊は僕を捕まえており、見てはいないが立ち上がったらしき坂下もそんな顔で僕を見ているのだろう。
役立たずな僕を。
「ちび。」
「……わかんない。僕にわかるわけはないよ。死んでいる人だっていつも見えるわけじゃないの。勝手に見えるだけだもの。あるいはね、こんな事がありましたよって、死んだ人たちが訴えて初めて僕に見える。それが黒い靄だったり、唯一残った自分を殺した凶器の一部に縋りつくあの人みたいに。」
「本当に?時間が無いんだよ。できるか試してみるだけでもさ。」
「いいじゃないか、楊。無駄な事に時間を割くな。」
「坂下?」
「聞けばいいじゃないか。あいつらに。」
「それこそ時間が。」
「聞こえなかったのか?戻ってきたぞ。」
「いや、だからさぁ、相手すんの面倒じゃん。」
「お前は玄人君を守り切れ。俺が前に出る。」
坂下の声が合図のように屋内は騒がしい男達の足音で溢れ、言い切った坂下は楊が開けていた襖にそのまま体当たりをして廊下にいた二人を昏倒させた。
「うわぁ、さすが元機動隊小隊長っていうか、只のぶっこみ野郎?」
「うるさい。」
坂下を取り押さえるべく玄関方向から来たらしき男が坂下に飛び掛かり、坂下がよけて軽くあしらって鳩尾に鉄拳を下す。
「すごい。」
楊の後ろから観戦していた僕はため息を出し、けれど、鬼気迫っている状況で気楽に構えてしまった僕への罰なのか、僕は後ろから現れた敵に拘束された。どしんと後ろで襖が倒れる音と一緒に体が後ろへひゅうっと引っ張られ、そしてそのままその男の腕の中なのだ。袖口に紐のようなテープのトリミングがある濃紺の制服の腕。
僕を車に乗せたあの男。
僕からお守りを奪ったろくでなしだ。
無理矢理奪ったせいで壊して、車内を大音量にさせてしまった大まぬけ野郎だった。
「動くな。こいつの目を潰すぞ!」
「ひゃあ。」
非力で臆病な僕は、簡単に悲鳴を上げて降伏した。
この状況で殺すと脅さないのは、制服が示す通り経験値の高い警察官だからだろうか。殺すと脅されるよりも目を潰すと具体的に脅された方が怖いと、僕は反射的に両手で目を隠して縮こまってしまったのだ。
痛いのは嫌だ。
すごくすごく嫌だ。
こんな臆病な僕のせいで楊と坂下が確実に殺されてしまうと、僕は罪悪感から逃げるためにぎゅうと目をつむり、でも、僕は梨々子の代わりに殺されてもいいとここに来たのではないかと、恐る恐る目を開けた。出来る限り立ち向かうべきではないか、と。
目を開けた先で楊と目が合い、彼は平気そうに僕にウィンクをした。
「動くよ。俺達は拘束されたら終わりじゃん。」
楊の言動に驚いて坂下を見るに、彼は敵の脅しに動きを止めている。が、僕を心配そうな顔で見つめている彼の足元の襖の下には二人の伸びた男の足が見え、動きを止めた今でさえ敵の右腕を変な方向にねじ上げたままなのである。
そんな坂下が僕に頷くように顎を動かしてから、楊の同僚であることを証明した。
「君の目が潰されたら、後ろの男も同じようにしてやるから心配いらないよ。それも、しっかりと痛めつけてからね。」
「ひいいいい。」
悲鳴を上げたのは当たり前だが僕だ。
僕は目を確実に潰される!
僕は再び両目をぎゅうっと閉じた。
「お前ら。」
後ろの男が怒りに震えた声を出すのと反対に、楊のふふふという軽い笑い声が聞こえ、僕は指をそっと開いて隙間から楊を見つめた。微笑む楊はポケットから何やら取り出すと、やにわに僕に向かってそれを投げたのである。
「ちび、怖かったらお守りを抱いていなさい。」
「あ、僕のお守り!」
僕はそれに向かって手を伸ばし、しかし、僕を拘束していたその男の方が早く、男はお守りを差し出した右手でぎゅっと掴んだ。だが、そのままびくりと体を震わせ、拘束する僕を道連れに前方へと倒れこんだのである。
「うきゃあ。」
「玄人君!」
男の重く生暖かいたるんだ体が僕を押しつぶしており、身動きできない僕は腐った畳にメリメリとめり込んでいくのである。
「たすけてぇ。」
楊はかがんで僕を潰している男の手から僕の思い出の品を取り返すと、僕に渡さずに、僕を助けずに、なんとそれを持って身を起こしただけだった。
「大丈夫。ちびはそこで潰されていなさい。今んとこはそこが一番安全。」
「……それ、防犯ベルじゃなくて、スタンガンだったのですね。髙さんがくれた僕のお守りは、本当はスタンガンだった?」
楊は応えるどころかすっと僕から目を逸らし、僕と同じように強力なスタンガンを持つ楊を凝視していた坂下に向き直った。
「あと何人だっけ、坂ちゃん。俺のこのスタンガンは後一回だけだからさ、一人しか無理。」
「ふざけるな。楊!」




