二十八、罪悪感と責任は誰のもの
楊は松野葉子が警備員の目を盗んで横浜市に出かけてしまったという報を聞き、自分を含めて周囲には馬鹿しかいないとしゃがみ込んで嘆きだし、髙は自分を責めている楊を慰める事を放棄していた。
全て楊が悪いのである。
彼は真実を告げずに状況を作り出してばかりいる。
本当の事を相手に伝えて相手が傷つく事を恐れての相手を思いやる行為にも見えるが、実際は相手に向き合っていない残酷な行為であると髙は考えるのだ。
百目鬼関係で狙われている事を知らせずに武本を松野に預け、金虫真澄警視長に留守が多いと聞けば、狙われる危険性の高い松野の最愛の娘と孫を世田谷の自宅から動かすために、楊が松野を日参どころか日に何度も訪れるという情報を流して彼女達を堅牢な松野邸におびき寄せて閉じ込めた。
松野は危険情報を与えても本気にしないから置いておいても、常識人の松野の娘鈴子には、その身に危険があることを伝えるべきであったのだ。
しゃがみ込んだ楊の背中を見下ろしながら、髙は自分の空虚さも噛みしめてもいた。
痛いと叫ばれると取り押さえていた暴漢からも手を放してしまう男であった楊を、警察から去るべきだと楊の切なる願いさえ捻じ曲げて警察を続けさせている自分が、このような不幸と失敗を彼に呼び寄せて悩ませている元凶であるのだろうと。
「あー、もう。どうして皆して勝手なことばかりするのだろう。嫌になるよ。」
自分の責任とはこれっぽっちも考えていなかった楊に髙はこっそりと吹き出し、気が楽になった礼ではないが、髙は楊を慰める言葉をかけていた。
「そうですね。警備員の目の届かない出入り口から、仮装した四人で横浜市の繁華街に繰り出すとは思いませんよね。彼女達の行動力は計れませんよ。」
「違う。山口と葉山のこと。」
「どうしました?」
「あいつら頻繁に消えて姿見せないじゃん。一度もちびに会いに行っていないしさ。俺は教えたよ、警備員に見とがめられない出入り口の暗証。髙同様にあいつらにも使っていいって葉子に了解も得ている。でもさ、あいつら行かなかったよね。特に山口。」
「そうですか。山口はああみえて公私混同をしないちゃんとした捜査官ですよ。」
ここで楊がヒヒヒと厭らしい笑い声をあげた。
「語るに落ちた、髙。」
「僕が山口に内職をさせているのはあなたも知っている事でしょう。今更。」
「そうかな、そうかな。」
彼は今やしゃがんだ格好で、だらしなく両腕を前に垂らして猿のような格好で髙を見上げ、その上上機嫌そうにその体制のままリズミカルに上下に体を揺らしている。
「どうしました?」
「うん?そこで俺は部下じゃあ無い子に救いをまたもや求めました。山口と葉山を張って、なんなら自己判断で暴れていいよって。」
ショートボブの釣り目と茶髪でくせ毛のショートカットのたれ目の顔が髙の脳裏に浮かんだ。高校時代はあまりの暴力的な少女達ゆえに警察に勧誘して暴力行為を抑え、警察官になった後も好き勝手に振舞って暴れるからと刑事昇格を餌に抑えている最中の二人だ。
「あの二人に暴れていいよって?地獄に落ちろって、僕があなたに言う日が来るとは思いませんでしたよ。」
「いいよ、まだ言わなくて。あ、彼女達から定時連絡。」
にやにや笑いのまま楊は片耳を抑え、イヤホンの音声に注意をしばし向けていた。その顔は真剣な顔に戻り歪みさえ浮かべていく有様は、どんな情報が楊の脳みそに届いているのだろうと髙を不安にさせていった。
「あぁ、うん。合流するのね。葉山君達と。それじゃあそのまま突っ走ってって。武本がせっかく行ってくれたんだ。御曹司の誘拐で通して彼の確保に走ってくれるかな。上が何か言ってきたら、君達は今から有給休暇中ってことで適当に誤魔化して。俺がそっちは処理しておくから。心配しないでって、うわ!」
「どうしました?」
「勝手に有給休暇減らすなよって大声で叱られた。偉いさんに盾突いて懲戒されたらどうしますかなんていうからねぇ、適当に嘘つけって意味で答えただけなのにねぇ。こっちで対処してやるから臨機応変に動けって意味。まだまだ冗談の通じない子供なんだねぇ。」
「あなたは最初から嘘つきですものね。」
「ひどいね。」
髙は楊の先ほどの会話から漏れ聞いていた情報の断片から、始まってしまったのになぜ髙の情報元からメール一つないのかと怒りを抱きながらスマートフォンを取り出した。するとその時、おもむろに高のスマートフォンがぶるぶると震え出したのである。まるで髙の叱責に脅える山口のようだと髙は考え、知らぬ間に喉を鳴らして笑い声を立てていた。
「こわい。俺は髙が怖い。」
「仕方が無いですよ。あなたの放した新人よりも、僕の手駒の方が後手後手なんですからね。定時連絡がようやくです。これは後程あなたに報告しますから、まずあなたの得た情報を先に聞かせてください。」
「なに、単純なこと。ちびが誘拐されたよ。聞こえたでしょう。」
「誘拐?どうしました。」
「出るなと言っていたのに出ちゃったから出先で誘拐されちゃった。鈴子とちびが。坂下もおまけに、だってさ。犯人は鈴子と坂下と梨々子を要求だったそうだ。驚きだね。あのちびが自分が梨々子だって言い張ったんだってさ。さぁ、もうすぐ失意の葉子と梨々子が帰ってくる。俺は慰めに松野さん家に行ってくるよ。」
楊が立ち上がり、一歩踏み出したところで、髙が楊へ声をかけた。
「僕の情報は?」
「俺は全貌を知らなかったで通したいんだけど。」
「無理ですよ。責任は上司のかわさんのものです。今までの情報をもとにすれば、誘拐者は百目鬼さんが銃撃された地点、いいえ、百目鬼さんの物件に向かうでしょう。そこが中心となります。」
「……動機は何だと思う?」
「経営権の争奪戦と保険金詐欺らしいですよ。山口が百目鬼さんがそう言っていたと。これから山口は百目鬼さんと本星となる波丘建設の経営者宅を訪問するそうです。本庁の田神班全員引き連れて。あの人は最大の防御をしましたね。最大の敵を味方にって。山口が僕よりも彼に傾倒していくのもわかりますよ。」
「寂しい?弟みたいなものなんでしょう?」
「あなたはどうですか?」
「俺が?」
「あなたが助けてきた百目鬼さんは、武本君に出会ってから彼一筋だ。あの容赦のない鬼のような人間が、まるで子育てに奮闘している新米パパの有様です。独身の親友は今までよりも絡みづらいのではないですか?」
楊はハハハと軽薄そうなわざとらしい笑い声をあげた後、いつもの作り笑いを顔に浮かべた。絶対にやってこない「あとで」を髙に伝える時の嘘つきの顔である。
「立ち入りすぎましたね。」
「自分が拾った小動物が飼えない時はね、いつでも可愛がれる安全な場所に捨てちゃうの。僕の可愛いカラスのユウカちゃんみたいにね。あの子を俺から奪ったと考えて、あの獣医はあの子をリハビリ専用の柵に放てずに自宅で飼っているでしょう。俺が何時でもユウカに逢えるようにってね。可愛がれる時に可愛がれるのが最高。友人もそうかもね。つかず離れず、信頼させて、信頼に応えられるときだけ応える。」
「あなたは。」
「俺はさ、駄目なんだよ。辛いって縋られると辛い。……じゃあね、行ってくる。」
呆れるように、そんな薄情なろくでなしに自分が楊を変えたのかもしれないという罪悪感に、足音高く去っていく楊と反対に髙はどさりと椅子に腰を下ろした。
「君が僕をろくでなしにしたんじゃない。気にしないで。」
耳元で囁かれたような楊の物言いに髙は驚き、慌てて立ち上がって彼を見直せば、楊はすでに刑事課の扉を開けて廊下へと出て行ってしまう後ろ姿となっていた。
「今のは、かわさん?――じゃない?」




