二十四、役立たず
僕達の逃避行は横浜市の繁華街の目的地で、僕達が車から降りる前に完全終了した。
僕達が乗り込んでいた鈴子のアウディは、いつのまにか横付けされた二台の警察車両に身動きを抑えられていたのだ。黒塗りの大型バン二台に両側を挟まれるのは、いくら鈴子の車の車内がゆったりでも、かなりの圧迫感と恐怖を僕達に与えるものである。
恐慌に陥った僕達は、車内で口汚く警察を罵って大声をあげていた。
すると怒り心頭の葉子のスマートフォンに着信があったのか、スパンコールとラインストーンで飾られた派手派手しいクラッチバッグが大きく震え出したのだ。彼女は乱暴にスマートフォンをクラッチバッグから取り出すと、その哀れな小型機に向かって大声で罵った。
「何やってんのよ。これじゃあ車の外に出れないじゃないの。」
激昂している葉子の声とは反対に、低いが良く通る紅茶友の会会員三十八番の声が葉子に冷静に言葉を返した。
「出ないでくださいよ。このまま警護しますので自宅に戻りましょう。よろしいですね。」
「よろしくないわ。このような暴挙、夫に訴えますからね。」
運転席から後部座席へ身を乗り出した鈴子が、自分の母親のスマートフォンに怒鳴っていた。鈴子の眠そうな二重が三角になって尖っている。怖い。
「そのご主人様から了解を得ています。さぁ、相模原にお帰り頂けないのならば、横浜市の本部にいらしてください。」
「何ですって。あの人を殴り飛ばしてやる!」
「ママ!」
あからさまに自分の母親に脅えてガタガタ震えている梨々子の姿がルームミラーに映り、すると僕までも怯えが伝染してきたのか、がくがくとがくがくと足元から体が震えて来た。
こんなにがくがくと?
とにかく走ったり体を動かしたりしないと、僕の体の動きが止まりそうにない。
そうだ、動かねば!
「坂下さん。僕達おかしいよ。変だよ。がくがくしている。鈴子さんに運転させちゃダメ。何か変なのを僕達は口にしているかもしれない!」
こんな声が出たのかと思うほど僕は大声で叫んでおり、その数秒後に運転席側の黒塗りバンがびゅうっと後ろに下がり、下がると同時に運転席のドアが開いた。あっという間もなく鈴子は外に待機していたらしき男の一人に運転席から引き出されてバンへと連れ去られ、消えた鈴子の代わりに坂下が運転席に滑り込むように乗り込んだ。
「さかしたー!あんたはあたしの娘に何をするんだー!」
運転席の坂下を後ろから羽交い絞めにしようとする葉子を僕が押さえつけ、ルームミラーごしに坂下が僕に片眼をつぶると、車はスムーズな動きで発進した。
「皆さん、大丈夫ですか?まず病院に向かいますよ。」
僕の腕の中の葉子はハアハアと二度三度大きく肩で息を吸い、すると少しは落ち着いたのか、大丈夫よと抑えた囁き声で呟いた。
「えっと、もう坂下さんを攻撃しませんか?運転中だし。」
「大丈夫だって言っているでしょうが。」
今度はいつもの大声だった。
「えぇと、玄人君。申し訳ないけど、もう少し松野さんを抑えていてくれないかな。」
「さぁかぁしたぁー。」
「押さえておきます。」
「ありがとう。」
もう一度ルームミラーを覗くと、坂下の青白い真剣な顔と、助手席で昏倒していた梨々子の青白い顔が見えた。安全地帯に行くまで葉子は押さえて置いた方がいいだろう。
「…………あたしたちは、何か薬を盛られたってわけね。」
低い嗄れ声が車内に響き、それに対しての坂下の声は冷静だった。
「口にしたのは自宅のものだけですよね。」
「当り前でしょう。あんたらが煩く喚くから、毎日毎日毎日、自宅の、あんたらが検査した食材で、この私が自分で食事を作っているのよ。お茶だって。それなのに、どうして、どうして、あたしたちがこんな有様なのよ!」
大声を出した彼女はがくんと前のめりに崩れ落ち、僕は彼女が完全に崩れ落ちないようにとぎゅうっと葉子を抱き締め直し、そして、街に繰り出そうと騒いだあの時を思い出していた。妙にハイテンションで、攻撃的で、感情的な三人のノルン達。
ノルン達は北欧神話さながらの白い靄の中で微笑んでいる。
「あぁー。あれ、あれです。葉子さん。」
彼女は僕に反応するように、少しだけぐらりと動いた。
「なんだかわかったの?玄人君。」
僕はルームミラー越しに坂下にうんうんと激しく頭を上下させてうなずき返した。
腕の中の葉子の体温が少しづつ下がってきていることに不安を感じながら。
違う。
冷たくなっていくのは自分の体だ。
葉子は既に気を失っている。
僕も、次、だ。
あぁ、助手席の梨々子はぴくりとも動かない。
「玄人君?」
「なんの薬かわかりますか?接種したら興奮して、攻撃的になって、そして突然一気に体温が下がって気を失っちゃう。梨々子みたいに、葉子さんみたいに。死なない?みんな死んでしまわない?大丈夫かな、みんなは大丈夫ですよね。」
僕はGOWで暴れていた哀れな鼠たちを思い出していた。
僕達の行動はあの鼠そのもので、そして、鼠は全部死んでしまった。
「だから、何を口にしてそうなったのかわかったの?」
「スチームです。く、空気が乾燥してますって。僕達はいつもの居間じゃなくて、あの謁見室でお茶を飲んでいたの。僕が売った絨毯を鑑賞するために。そこで、空気が乾燥してますからって、あのスチームを、あのスチームが点けられて。僕達は吸って、吸って、ハイになって、それで、おでかけしようって、絶対に家から出て遊ぶんだって、あぁ。」
「わかった。あとは俺が全部受け持つからね。信じて頑張って。数分しないで病院だからね、頑張って目を開けているんだよ。」
「ありがとう坂下さん。でも、だめ。」
「くろと君!」
黒い人を探せとは言われたが、僕は千里眼なんかじゃない。
見逃す時だってあるのだ。
僕は意識を薄れさせながら、どうして見たくない時に見えて、見たい時に見えないんだろうと、自分の存在の意味の無さだけを噛みしめていた。
こんな非力で不完全な役立たず、いらないよね。




