二十一、Aは兎でBは犬
親友の行方不明は武本には内緒だ。
鬱を患う人間に無用の不安を与えるべきではなく、楊自身百目鬼の行方が何一つわからないのだ。百目鬼が姿を消した現場と見做される場所に残されたのは、百目鬼が大事にしている廃車寸前のトラックに、トラックの運転席のドアを染めている百目鬼本人の血痕である。日本に少ないRHマイナスのAB型とはあいつらしいと、楊は判定結果を手にぼんやりと考えたものだった。そういえば、武本はマイナスのABよりも多いらしいが周りに誰もいなかったRHマイナスのOだったとも思い出しながら。
アカゲザルの因子を持っていない奴らだから爬虫類的なのかと楊が結論づけたとき、楊の思考がつい逃避行動的な物思いにばかり動く原因が口を開いた。
「僕から逃げちゃったかなぁ。」
目の前のやくざの親分にしか見えない小柄な強面の男は、百目鬼をしつこく追いかけている本庁の組織犯罪犯の警部である。
楊は合同捜査という名目で楊の縄張りを占領して好き勝手もしている田神刑事にうんざりしながらも、社交的な笑顔を顔に張り付けてほうじ茶を差し出した。
田神は楊の所属する刑事課にしつらえられた応接スペースで、そこの黒い三人掛けソファの真ん中に客人面でどっかりと身を添えているのだ。座る彼の横には田神のビジネスバックが置かれている。田神が愛用しているらしき黒い鞄は、一昔前の四角い革張りのアタッシュケースだ。
ふらりと田神が刑事課に現れた途端にその一角に誰も近づかなくなったと、それどころか刑事課から人が消えたと、楊は嘆きながらも半時間ほど田神の相手をしているのだ。
「あぁ、ありがとう。僕はカフェインが駄目でねぇ。」
「組織犯罪を不眠不休で追っていられますものね。とうとう体でも壊されましたか?」
「夜に眠れなくなったら困るじゃない。」
楊は目をぎゅっと瞑り、数を数秒だけ数えた。
頭の中では田神から逃げてしまった部下と相棒を呪いながら。
相棒の髙も部下の葉山も先日の突入で嫌なものを目にしたのか、田神が署を訪れるや否や刑事課の誰よりも早く仲良く姿を消したのである。山口は引いていく人波というビックウェーブに乗っただけであろう。彼は元公安だけあって空気を読むのはとても上手だ。
「楊警部補は苦労なさっているよねぇ。」
「部下にも相棒にも信頼されて無いみたいですからね。」
「いやいやそんな。」
ハハハっと田神は軽く笑うと、鉄砲玉に「玉を取ってこい」と命令する親分の顔で楊に向き直った。
「先日突入しましたあの事務所はですね、百目鬼さんが非合法に組に売ったものらしいんですよ。登記は百目鬼さんのままですけどね、移転登記なんてしなくてもいいものでしょう。隠したいものがある時には特にね。」
「え?そこでしたか?違うでしょう。前回のことも誤解だったじゃないですか。」
「今回も誤解だといいですね。前回のあっちの事務所も誤解どころか無かったことにいつのまにかされていましたから。あの事務所、支払も滞ったことで契約無効の訴えで契約が白紙になってますよ。ヤクザ相手にきれいに立ち回ったのならば、今回もって思ったのかもしれないですよね。ただ、やり方が汚すぎる。」
「え?うそ。え?え?え?……え?」
田神の言い出した意味がつかめないとただ呆然とする楊に、田神はにんまりと笑い、楊にはやくざが脅す様に顔を歪めた風にしか見えなかったが、とにかく彼は友好そうな雰囲気は演出しながらアタッシュケースから取り出したA4の茶封筒を楊に差し出した。
「読んじゃって。本当に警部補が知らなかったなんて思わなかったからね、髙さんに頼んで君を捜査から完全排除してもらったけど、あそこは酷い状態だったよ。」
楊は眉根を潜めながらファイルを開き、そして、読むんじゃなかったと頭を抱えた。
「そこの小型ハイツは家賃の不払いの住民が多いとオーナーが手放した処でね、指定暴力団の持ち物になればどうなるかなんてわかるよね。不払い住民はきれいに追い払われての退去だ。そして綺麗になった暁に取り戻して更地にして転売だが、一般のオーナーがその方法を取らないのは、武器として使った暴力団の完全排除など不可能だからだ。」
「あいつは、今度は邪魔な指定暴力団を追い払うためにあんたらを呼んだのか。」
「僕達を呼ぶことになったのは近隣住民による組員の違法行為の密告、だねぇ。彼は僕達を呼ぶことなど考えていなかったんじゃないかな。前回の処置のように、組の不払いと指定暴力団であることを盾に追い出す予定だったら、彼こそ公になる騒ぎを極力控えるはずでしょう。契約のない契約が表沙汰になったら困るのは彼だ。そこで邪魔なものを排除するための、この悪行、なんだと思いますね。」
楊は田神の差し出したファイルにあった写真を引き出して眺め直した。
それこそが、楊の相棒と部下が思い出したくないことであり、田神が口にする「酷い状態」そのものであり、今の楊こそ目を背けたい写真だったのだ。
「彼って人間?無用になって追い出すにしても、これは酷いよね。」
突入した時には既に組員全員が室内から消えていたとは聞いていた。
その理由が組事務所内であらゆる害虫がパーティをしていたとなれば、知らずに突入した刑事達こそ被害者であっただろう。壁一面にゴキブリが貼りつき、風呂場どころか下水と繋がる排水溝からはチョウバエが噴出し、おまけに、室内を茶毒蛾がそこかしこで飛び回っていたという、楊が初めて手にした写真はそんな現場写真であった。
「僕の部下が三人ほど病院送りになったのはそのせい。茶毒蛾の針って危険なんだよ。目に入れば失明するし、毒針が付いた服は廃棄処分にするしかないの。洗濯すると他の衣服にも毒針がついちゃうんだって。幸いなことに失明した部下はいないけれどね、家族の服まで茶毒蛾汚染されて家族全員皮膚科の世話になった者もいてねぇ。もう散々だよ。」
酷い現場だったとだけ髙に聞かされ、楊は部下達を労ったが、それに答えた髙の言葉がようやくしっくりと理解できたのである。
――僕達は一番乗りでありませんでしたから。
田神はどっかりと背中をソファに預けて深く腰かけ、腹の上で両手を組んで上目遣いのようにして蒼白となっている楊を伺っている。楊は写真から目を離せないまま何度か深呼吸した後に、ようやく月並みのセリフを田神に吐くことが出来た。
「あいつがやったのは確実ですか?」
「証拠が無いからわからない上に、住んでいた組員さん達の姿どころか存在が今でも皆無でお手上げ。でもねぇ、こんなことしていれば拉致られてコンクリ詰めなんて当り前じゃないかな。彼の遺体が見つかったら教えてくれるかな。僕達が弔い合戦をやってあげるよ。」
「帰ってください。あいつが拉致られるなんて。」
そこまで口にして楊は頭を再び抱えた。
楊達が現在捜査している鼠テロがこの現場と同じなのである。
人ではない何かに邪魔な住人を攻撃させる。
そもそも人でないから罪に問えない。
「いいや。鼠に薬物が使われていたのだから犯罪は立証できる。では、虫は?ねぇ、田神さん。あいつがこの現状を作ったとして、どうすればこのような現場を作り上げられると思いますか?」
「リフォーム時に虫の卵やらを仕掛けていればいけるんじゃない?」
答えたのは髙だった。
彼はいつのまにか刑事課の部署に戻ってきており、当り前の顔をして楊達のいる応接セットまで行くと、するりと楊の横に腰を掛けた。それから、自分のスマートフォンを田神に差し出したのである。
「何ですか?」
「この部屋のリフォーム会社。百目鬼さんはこの部屋のリフォームをしていないって言っておりましてね。元のオーナーのためにそれなりの値段で購入し、面倒だから高く払うという鴨にすぐさま売り飛ばす予定だったと、それだけです。」
田神は髙のスマートフォンの画面を自分のスマートフォンに転送した後に、髙にスマートフォンを差し出した。楊がいないもののようにやり取りをする警部と巡査部長の無表情のその様に楊は怖気を感じて、絶対に彼らの目に入らないように彼らの視線が動く度に自然と体を反り返りしたりして動いていた。
「ふうん。で、このリフォーム会社が虫リフォームした証拠と動機は?」
「このリフォーム会社の一族が町の顔役だからでしょう。大事な町から指定暴力団を排除するって義勇兵的行動です。ありもしない違法行為の苦情を警察に通報した人物が、リフォーム会社である上杉工務店の息子の上杉哉でした。彼に事情を聞くにも上杉一家全員が行方不明です。」
「行方不明って、通報者の情報でもそちらが流したのですか?それに、そういう大事な情報はすぐに教えて頂きたいものですね。」
「うそ。うちの署がやっちゃった?」
当たり前だが楊の言葉は髙に無視され、髙は田神だけに答えていた。
「我々もついさっき通報者が誰か知っただけですよ。情報を隠していたのはそちらでは。まぁ、取りあえず通報者の安全確認をと、組員よりも先に一家を確保するように部下を上杉工務店に向かわせましたが、事務所も自宅ももぬけの殻だったそうです。自宅の荒らされ方は夜逃げにしか見えないということで、どうしたものかと。」
「あら。」
田神はフフフと小柄な体ながらドスの効いた不穏な笑い声をあげると、どっこいしょとこれ見よがしに腰を上げ、持ち上げたアタッシュケースを大事そうに胸に抱えた。
「一般人の安全の確保は警察官の最優先事項です。僕は急いで狩りに出ないといけませんねぇ。それでは、皆様ごめんください。」
田神は楊に深々と頭を下げると、ひょいひょいという擬音が適した動きでそのまま振り返らずに刑事課を出て行った。あとに残された楊は、田神の後ろ姿を見送りながら相棒に囁いた。
「そんなたわごと、いつ作ったの。」
「ついさっき。実際に通報者の姿が消えていますので、一般人の安全確保は田神さんの手腕に期待したいなぁって。僕達は別の行方不明者に集中したいですから。」
「そうだね。この間の突入は失敗だったものね。君の与えた情報で田神さんが組員を根こそぎ引っ張れる免罪符になったかもね。貸し一つってとこ?」
「どうでしょう。その組の存在自体があやふやでしたからね。」
「そうなの?それでよく合同捜査なんてしていたね。」
「目的がかわさんでしたから。」
「え?」
「あなたが情報漏洩者だと本部に見做されていましたから。田神さんはかわさんから百目鬼さんを引っ張ろうと手ぐすね引いていただけですよ。」
「うそん。」
「本当です。重要参考人の友人に捜査状況を流す上に、部下には手を出すセクハラ野郎だという陳情が上にあがりました。それで合同捜査という名目であなたは相模原東署から離されて、百目鬼さんを追っている田神警部の監視下に置かれたのです。そんな状況で玄人君の監禁部屋に入り浸るとは、田神さんどころか部下の僕達も呆れ果てましたよ。」
「うそん。そんでセクハラって、俺は誰に手を出してしまっていたの。」
「鑑識の田口美樹。」
「うそん。俺が必死で逃げる方だったのに。」
「本当です。上司が部下にセクハラ受けて脅えている状態は面白くて眺めていましたが、ちょっと面倒な事になりましたね。本部から引き抜きたかった宮辺鑑識官の代わりに彼女を本部に送り返しましたら、腹を立てた彼女がお礼代わりにかわさんをセクハラで訴えたという図式です。すいませんねぇ。」
楊は両手で顔を覆ったそのまま二つ折りになってしまった。
「気づいていたなら、俺を助けてくれてもいいじゃない。」
「大人なんだから自分で断ってください。玄人君を愛するゲイのふりまでするのは、面白いを通り越して情けなくなりましたよ。」
「…………ちびが俺のラブって県警本部に広めたのは、もしかして、髙?」
「それは根本さん。」
楊は驚きで顔を勢いよく上げ、目が合った髙がいつものように肩を竦めたのを見た。
「…………君が根本さんに囁いたんだね。そして喜んで広めたのがいっちゃんか。」
「いいじゃないですか。上手く追い払えたと、僕にお礼が言いたいくらいでしょう。」
「そんなわけあるか!対象者だけにゲイの振りをするのと、県警中にそうだと思われるのは全然違うわ。本気で悩んでいる人を愚弄しているみたいじゃん。」
「それなら最初からそんな方法取らなければいいでしょう。それよりも、百目鬼さんの行方は何もわかっていないのですか?血痕と落ちていたスマートフォン以外。」
「そう。スマートフォンはちびが掛けてくる度に鑑識が泣いている。僕を嫌いになりましたかって。あいつが本気で行方不明だって事をちびに気づかれる前には見つけたいね。」
「玄人君に聞いた方が早いんじゃないんですか?」
「死んでいたらちびが壊れるじゃん。」
「死んでいないから気づいていないのでは?」
楊はしばらく無言で相棒を見つめた後、「あ。」と叫んだ。




