十四、パパって何ぞや
「橋場の孝継がお前のパパってどういうことだ?」
鍋をかき混ぜながら、居間で炬燵に潜り込んでいる武本に尋ねた。
彼は長柄家を飛び出した後はいつの間にか俺のトラックに潜り込んでおり、俺が車を出して自宅に戻るまでも団子のように体を丸めて無言だったのである。
作業着が灰色だから粘土だ、粘土のように丸くなってだ。
何も喋らない武本にイラついた俺は、冷凍庫に残っていた蟹も使うことにした。
武本は蟹は茹でたそのままがいいと言うが、正月から何日も経っているのだから構わないだろう。
冷凍庫は万能でないのだ。
正月に馨とやらから届いた蟹とイクラにふぐ刺しにアワビ、あと何だっけ、あぁ、本マグロのサクもあったな。そんな大層な武本宛の贈り物に係わらず、武本はイクラとマグロを少ししか食べず、俺が本当の生臭坊主となってしまったと自嘲するほど海鮮の美味を堪能したのだったと、鍋がたてるかぐわしい匂いにあの日の幸せを思い出していた。
「今日は蟹を使ってのトマトソースだ。生パスタも俺の手製だからな、旨いぞ。」
まだ粘土は粘土のままだ。
俺は坊主だが、堪え性がないと何度も俊明和尚に注意されたぐらいなのだ。しかし今回の俺はぐっと怒りを飲み込み、楊がするように別の話を武本にすることにした。
「この届け物、いっつも短冊みたいな和紙に馨って書いてあるだけだろ。誰からの贈り物なんだろうな。」
俺の行動は正解だったらしく、武本は炬燵から跳ね起きるとビー玉のような目玉にして俺をまじまじと見つめ始めたのである。
「どうした?」
「誰からの贈り物か知らなくても、あなたは平気で口にできたのですか?」
「坊主は勧進があってこそだろうが。」
「都合がいい時だけ坊主を使わないでくださいよ。」
「お前が言うか。それで、お前は知っているのか。あぁ、違うか。お前はどの贈り物もそれが誰からのものか知っていたのか。で、誰だよ。」
再び頭をがっくりと下げ、またイラつかせる粘土に戻ってしまったと俺が息を吐くと、彼は俺の息の音にびくりと体を震わせて顔を上げた。
小動物が捕食者を伺うような表情を作って、だ。
「顔を上げるんだったら、何度だって溜息ぐらいついてやろうか。大体よ、俺に怒られるかと脅えるんだったら、夕飯の準備ぐらい手伝えよ。」
武本は驚いた顔をしてから、ふふっと笑い声を立てた。
「その蟹はタラバなので僕は上手に身をそげないから嫌です。僕はズワイガニの人です。」
武本の言い方に蟹の着ぐるみを着た武本が頭に浮かび、俺のイラつきがすっと抜けた気がした。俊明和尚が俺を叱りながら突然笑い出した時も、俺が彼にとってこんな間抜けな返答をしていたのだったのだろうか。
「それであまり蟹を食べなかったのか。」
「蟹ばさみと蟹フォークを使うのが面倒で。ズワイガニは手でパキパキと殻が割れますから、次から次へと食べれるんです。膝にね、チラシを敷いて、その上でパキパキとね。」
蟹の足を手で折るしぐさをしながら、終いには彼は両目から涙を流しており、俺は彼をそっと抱きしめてやるしかなかった。俺に抱きしめられて慟哭が激しくなる彼の背中を軽く撫で、あるいは叩きながら、俺は彼を傷つけていただろうことに思い立ったのだ。
「悪かったよ。孝継がパパでもいいよ。今のお前は俺の方を信頼しているんだろ。」
腕の中の泣き声はピタリと止まり、武本にしては珍しく低い声を出した。
「え?」
「どうした?」
ゆっくりと頭を上げた武本の顔は、涙の雫がまつ毛に残るという卑怯なモノだった。
彼がどんな間違った見解の言葉を話したとしても、この顔の生き物を誰も叱責したりできないだろう、という顔なのだ。
なんて姑息な生き物なのだ。
しかし案ずる必要などなかった。
珍しく武本のくせにまともなセリフを口にしたのである。
「いえ、あの。良純さんが孝継を知りたいのは、彼が橋場建設の経営者だからじゃないのですか。だから、ただの僕はどうでもよくなったかなって。僕がどうでも、僕の後ろの人達と仲良くできるならいいのかなって。」
「あぁ、それでお前は俺に不貞腐れていたのか。いや、俺が聞きたいのは、あいつがお前のパパなのはどういうことだ?って事だ。お前はそいつを父親代わりに信頼しているのかってことだ。お前はそのツナギに書かれている通りに百目鬼組の人間だろう。お前は孝継の方がいいのか?本当はそっちに行きたいんじゃないのか?」
小柄で少女にしか見えない男の背中に「百目鬼組」と黒字ではっきりと印をつけておけば、俺に畏怖した奴らに絡まれないだろうという俺の親心だ。その姿を見た警官達に、いつも以上に可愛がられて絡まれていた姿が腑に落ちないが。
「えと、あの。信頼とは、違います。ゲームをしたんです。二人で。孝継さんは子供がいないからって。そこは本当によく覚えていないけれど、ただの、親子、ごっこです。でした。だから、だから、僕は百目鬼組です。構成員です。こっちがいいです。」
俺は同じ顔をしていただろう。
俊明さんが俺に向けた晴れ晴れとしたあの顔を。
俺の宗派違いを知り、俺が本来望んでいた宗派に入れてやると申し出たあの人に、俺は当たり前のように「あなたといたいからこのままで。」と答えていたのだ。
「そうか。それならば、お前はずっと百目鬼組だ。抜けることは許さねぇよ。」
俺は武本のこんなにも素晴らしい表情を見たことがあるだろうか。
主従を代えるほどの力を持つ笑顔を見せるなど、なんと不逞な生き物なのだ。




