十三、見舞い
楊は手ぶらである事を相棒に謝り、それから友人でもある坂下と一緒に髙のベッド脇に引きずってきたパイプ椅子に腰をかけた。
警察署から車で五分ほどの位置にある相模原第一病院の時と違い、横浜市の病院は相模原東署の人間は気軽に来れない。そのためにか、髙の狭い個室には見舞い品もなく花の一凛も飾っていない殺風景なものだった。
楊はその風景が私生活を見せているようで見せていなかった相棒の私生活そのものに見え、花束一つ持ってこなかった自分がいたたまれなくなったのである。
髙はそんな楊の顔つきと見るからに疲れ切った顔つきの坂下を見比べて、両の眉毛を上下に軽く動かして皮肉そうに微笑んだ。
「あら、坂下さんまで。こんな自分にお見舞いなどありがとうございます。」
「お見舞いと言うよりは、助言を頂きに来たに近いですね。」
坂下は座ったまま深々と髙に頭を下げ、楊は髙の様子にほっとしていた。
「左は動くようになったんだ。」
「麻痺ではなくて、痺れがあるってだけです。指先までびりびりとね。まるで電気を通されているみたいに始終痛い。これは祟りかもねぇ。神様を怒らせたようですから。」
「神様って、何をしたの?」
「玄人君を病院送りにしたじゃないですか。それも、AEDを使うほどの意識不明にして。」
「あぁ。それか。でも、あいつと神様が何の関係があるというの。」
「玄人君のお祖父ちゃん家は、白い大蛇をご本尊とした神社を代々守っている一族なんですよ。」
「え。武本物産に神社なんてないでしょう。」
「母方のお祖父ちゃんの方。」
「え。母親の実家は普通のサラリーマンだったでしょう。」
「亡くなった実母の方ですよ。白波酒造の会長の白波周吉さん。」
楊は隣の坂下からガラガラと何かが崩れる音が聞こえた気がした。
「しっかりして、坂ちゃん。致命傷かもしれないけど、まだきっと大丈夫だ。」
「大丈夫な訳ないだろう。財界の大物ばっかりと繋がっている玄人君を本部は前回で懲りずに今回も痛めつけようとしたんだ。もううちの県警本部は駄目だ。役付きは全員ここでお終いだ。民間企業に天下りを狙っている警察庁のエリート達に排除されてしまう。」
両手で顔を覆って嘆く友人に視線を暫し投げたあと、楊はいつもの軽薄な話し方で相棒を責めた。
「君が俺に情報をくれないから、俺達はすっかりちびに騙されちゃったじゃない。」
「彼は騙していませんよ。普通に貧乏で不幸な子供です。調べましたら継母に彼の個人財産の殆んどを奪われていますね。彼の持ち物を次から次へと捨てる、彼の交友関係を全て切る、という彼が言うとおりの虐待も本当でしょうね。虐待が表立たないのは、実の父親がネグレクトしているからでしょう。彼は本当に可哀相な子供です。」
「可哀想なのに、どうして親族の誰も助けないの?」
「百目鬼さんが言っていたでしょう。武本家関係が面倒臭いって。そういうことですよ。白波周吉が言うには、ですがね、玄人君の父方のお祖父様である先代当主の武本蔵人が言い残したそうですよ。玄人君に無理矢理に記憶を戻したら彼が死んでしまうと。それで親族の誰も自分から彼に近づけないのだそうです。馬鹿馬鹿しい話ですが、彼らは本気で信じているのですよ。精神科医である三厩隆志が、鬱になった彼を自分が直接診ないで百目鬼さんに預けたのもその縛りがあるからでしょうね。」
「嘘ん。何それ。それでそんな馬鹿げた縛りを髙も信じたんだ?」
「あなたがそんな非科学的な事を少しでも信じるとは思いませんでした。」
楊と髙の会話に呆れるよりも純粋に驚きの声を横から出した坂下に、髙は右の眉を動かしてニヤリとした後、歌うように呟いた。
「だって僕も嫌だもの。」
「彼が本当に亡くなったら、ですか?」
「違います。彼の母親が亡くなったのは、彼が同級生に殺されかけた日です。彼が死んだとの報で駆けつける最中の事故死ですが、彼女が自殺したと言う者もいる亡くなり方です。あなた方は玄人君に伝えたいですか?お母さんは君が殺された事がきっかけで死んだんだよと。誰も彼に思い出させようと動かないのは、可愛い玄人君に残酷な真実を告げる者になりたくないだけなんですよ。あの迷信深い、白波の大蛇と武本家以外はね。」
「それじゃあさ、真実を知ってしまった俺はどうすればいい?」
「かわさんはこれからも知らない、でお願いします。坂下さんも悩む必要などないですよ。彼らは警察が玄人君を疑った事実なんかどうでもいいらしいですからね。」
「ですが、橋場の孝継がすごい剣幕で本部長に抗議の電話をしてきたそうですよ。」
「そりゃあ、疑った真実はどうでも、あなた方はいじめたじゃないですか。手出しが出来ない彼の両親へのうっ憤はかなりあるでしょうね。ですから玄人君を守り笑わせてくれる百目鬼さんを守っているのではないかと思いますよ。今回の鼠事件の真犯人を焚き付けたのは、彼ではなく彼らだったかもしれないですね。」
「じゃあ、今回もいじめようとした俺達はやっぱり駄目じゃないですか。」
両手で顔を覆って嘆く坂下に、楊は小馬鹿にしたした目線を投げている。
「かわさん、どうしたの?」
「だってさ。こいつ、嘆いている振りでほくそ笑んでいやがるからよ。上が空けば下が上がるじゃん。長柄社長夫人に気に入られたこいつはよ、紅茶友の会というパンフレットと会員証を貰っていたよ。」
「……出世してどこが悪い。全部お前のせいだろうが。」
両手に顔を隠して丸くなっている男から低い地声が響いたが、楊はチロリとそこに目線を動かしただけでしれっと答えた。
「偉いさんと一般人を前にしたデモンストレーションで、白バイを大コケさせて大怪我したのは坂ちゃん自分の失態じゃん。俺は関係ないじゃんよ。」
ガバっと坂下は顔を上げると楊に吠えた。
「煩いよ。お前のカラスが俺の目の前を横切ったんだろうが。」
「その時はまだ俺のカラスじゃないね。」
「あんなに可愛がっていたのに獣医さんに取られちゃったんだっけ、ユウカちゃん。お気の毒。」
「うるさいよ。」
高校生の悪ガキのような二人の掛け合いにハハハと声を上げて笑いながら、髙はこの坂下が部下の失態の身代わりに交通部を去ったことを知っていた。
「おかげさまで俺は白バイ隊長になる夢を捨てましたのでね、この警備部で普通以上に出世させてもらいますよ。」
「坂ちゃんが会員になった紅茶友の会のメンバーは、名だたるお歴々の面々だったね。」
「うるさいよ。」




