識の海に沈む
一度は書いておかないとと思っていた
僕にとって、本を読むこと――物語に浸ること、知識を得ること――は、海に沈んでいくことに似ている。深い、深い、水の中に、とぷりと背から沈んでいくイメージ。キラキラ輝く水面はその内に遠くなり、暗く、静かになっていく。僕はそのまま、水面を見上げながら底へ底へと沈んでいく。
海は、知識の源流であり、自らの意識の下層だ。沈んでいくにつれて、自意識と世界が切り離されていく。自我と文字、その語るものだけが残る。完全に外界との繋りを切ると、戻ってくるのに苦労するので、大抵はよすがとなるものを残しておく。僕の場合は、音楽だ。文字とは関係ない音の情報が注ぎ込まれることで、文字だけを注視、集中しなくなり、深く沈みすぎることを防ぐことが出来る。
沈んでいく時間は僕にとって心地良いものだ。己の肉体が意識から外れ、ただの己と言葉だけが残る。動作が意識から消え、結果だけが残る。
だからか、僕は言葉そのものは覚えていても、それが何処から来たものかは覚えていないこともままある。僕にとって、大切なのは、その言葉が、その語られたものが、興味深いかどうかであって、それの発せられた経緯ではないからだ。その言葉を深く理解するためには、その背景を知ることが必要だ、と言われても…別に、そんなことに興味はない。意義を感じない。そう主張しているのは、言葉を発した本人ではないのだし。
人は他者のことを完全に理解することはできない。努力すれば、近似値は出る…"かもしれない"。僕を本当に理解できるのは俺一人だし、僕は他の誰も理解することはできない。そういうものだ。それは悲しいことかもしれないが、祝福すべきことでもある。他者はすなわち、己でないということに。
海に沈む時はいつも、背中からだ。底に向けて潜っていったことはない。ゆっくり、ゆっくり、沈んでいくのであって、飛び込んでいるわけでもない。胎児のように丸くなって、水中に浮かんで、言葉を眺めている。この海からいずれ、新しい物語が生まれ来る。海はそんな場所だ。
僕は物語を綴るが、作っているわけではない。物語は、勝手に生まれて、文字になる。作ろうとすると、筆が止まる。僕は海から言葉を汲み上げているだけなのだ。元より、物語は作者の思い通りにしようとしてはならないものと相場が決まっている。無理を通せば物語は死ぬ。不自然な操り人形になる。作者自ら息の根を止めるのは、しのびない。
海の中には、僕がこれまでに触れた全ての知識が溶け、漂っている。それが時折、その時共に潜った言葉たちに反応して浮かび上がってくる。知識が繋がり、世界が広がる。視界がクリアになる。言葉が次々と繋がり、見通し理解が及ぶものになる。ただの言葉、記号であったものが意味を持つ。だから、理解が及ばないものも、とりあえず、識っておくことに意義はある。
僕は、ただの記号としか感じられない言葉も嫌いではない。音の響き、韻律を楽しめるからだ。そもそも、母語を同じくする相手の言葉だって、意味を理解しようとして耳を傾けなければ、ただの音の連なり、声に過ぎない。音の羅列に意味を与えるのは、知識だ。意味と音のリンクが弱いと、言葉の持つ意味よりも、言葉の持つ音のイメージが強くなる。そういうことだと思う。
海の中には、基本的に音はない。言葉が音を発することもたまにあるけれど、大体は無音だ。僕は、世界に音がないと不安になる。己が意味の取れる音が。深く、深く、沈みすぎると、音が聞こえなくなる。より正確には、聴いた音を意識に昇らせず処理するようになる。いわゆるところの、上の空というやつだ。実際は内側に深く沈んでいる状態なのだが。
識の海の中に沈む。とぷりと、背から倒れこむように、ゆっくり、ゆっくりと、沈み込む。それは安息であり、未知の探求でもある。意識が肉体から離れ、物語の中を漂う。僕は僕と、あるいは俺と向き合う。海の中の、自覚しうる己とは異なる意識、或いはそれを無意識と呼ぶのか。本能と呼ぶのか。
海の中で僕は、いつでも水面を見上げている。ゆらゆらと、ゆれる。けれどもそれは、水面を見ているわけではない。僕が見ているのは、言葉、そして物語。隔てるものは全て意識の外に在り、背景はただ、向こうの遠くにある。そんな世界だ。
とぷん。




