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息抜き

忌々しき洋靴の話

作者: 揚旗 二箱

テーマ:大正浪漫、まわる世界、鉄板

 夕方、いつもの川沿い。だが今日は遊びできたわけではない。

 喧嘩の約束をしているのだ。

 ざり、と草履でない足音に振り返る。

「……臆せずに来たか、お(りん)

 これから喧嘩をするというのに、お凛の顔は全く締まってなかった。むしろ、なにやらこちらのことを心配しているような風ですらある。

「大吾、まだ怒っているの……?」

「あたりまえじゃ!俺は女と喧嘩なぞするものかと思っていたが、こればっかりは拳で話をつけなきゃならんらしい」

 泣いて謝っても許さん。そう宣言するとますますお凜は泣きそうになった風に見える。少しかわいそうだが、まるで男みたいに髪を切ったお凛の顔を見ているとますます腹立たしくなった。握る拳に力がこもる。

「じゃあ始めるぞ。かっこつけて洋靴なんか履きやがって、動きがトロくなってても知らんからな!」

「う、本当にするんだ……」

「情けじゃ、一発で決めてやるっ」

 男として喧嘩は何回もしてきた。女なぞ赤子の手を捻るように負かすことが出来る。

 一歩踏み込んで拳を振りかぶり、小さく悲鳴をあげたお凜がひるむ。その顔を殴ってやろうと思っていたのに、やっぱり奇麗な顔をこんな不細工な拳でぶつのはもったいなくて、少しためらったその時だった。

 臓物を握りつぶされるような衝撃が腹に来た。とにかく堪えようと思っても、指の一本も動かなくなった。腹を見れば、お凜が咄嗟に上げた足に蹴られて大きくへこんでいる。

「いっ、いってえええええええええええええええ!?」

 町中に響き渡るほど絶叫した俺は、そのまま砂利の上に倒れ伏した。


「最悪じゃ、女に喧嘩で負けるだなんて……」

「大吾、ごめんね?お(とう)が喧嘩だったら履いていけって聞かなくて」

「うるせぇっ」

 精一杯強がってみるがいまだに頭がぐるぐると回るようだった。

 喧嘩もろくにしたことが無いはずのお凛があれほど強烈な蹴りを出せたのは、何のことはない、お凛のお父が洋靴のつま先にぶあつい鉄板を仕込んでいたらしい。あれなら石だって蹴り壊せるだろう。

「洋靴、洋服……もうすっかりお前じゃないようじゃないか、お凛」

「うん。その、女学校の制服なの。いまに毎日着るようになるから慣れておけって……」

 ちら、とみると袴とは全く違う白い布地が目にまぶしかった。洋服は都会の方では当たり前に着ているという噂だが、このあたりじゃまだ誰も着ていない。それこそお凛の家くらいのものだ。

「……俺は喧嘩に負けたからなんも言えんけど、やっぱり女学校に行っちまうのか」

「うん、来月から。寮に入ってこっちにはあんまり帰ってこれなくなる」

「そうかぁ、そうだよなぁ……」

 悔し涙がこみあげるが、ここで泣いたらどこまでもみじめな男になってしまう。隣のお凜に見られないように前に目をやり、夕日で目が乾かないかと必死に目を凝らした。

「女学校、行ってどうするんだ。女はどうせ結婚するんだから勉強なんかしなくてもいいのに」

「おばあもそう言っていたわ。でもお母はこれからは女も博をつけて男に負けないくらい働く時代だって言っていたの」

「……時代、か」

 時代、何が時代だ。殴れるものなら、時代を作った奴を殴ってやりたくなった。そんな目に見えないものに惑わされて、お凜は遠い所へ行ってしまう。でも喧嘩にも負けて、いよいよなにも言えなくなった俺には分かった風にその忌々しい名を呼ぶことしかできなかった。

「私ね、外国語の先生になろうと思うの」

 立ち上がったお凜は石をひとつ、適当に川に放った。岸に近いところに落ちた石がぶつかる音がわずかにこちらまで聞こえてきた。

「この間の旅行のときね、女学校の見学もしてきたのよ。そのときの先生、外人の女の人なんだけれど、とても立派だったわ。そのとき、私も立派な先生に、人にものを教えることが出来る人になりたいって、思ったの」

「俺にはその気持ちは全くわからん」

「……ごめんね、大吾。馬鹿な夢だよね」

 お凜が座りなおすまでの間に、俺はひどく自分を恥じた。

 時代だかなんだか知らないが、男しか働いていないようなこの世で女として、しかも外人と話す言葉を教える先生になりたいという立派な夢を、口先でけなしてしまった自分がちっぽけで、虫ほどの度胸もない、喧嘩も弱い、ただの最悪な人間だと自覚した。清との戦争で立派に戦って死んだおじが見たらどう思うだろう。

 違う、馬鹿なのは俺なのだ。そう訂正することすらできず、ひたすら喉に詰まった言葉の隙間から漏れる嗚咽を抑えることしかできない。

「女学校の連中は、みんなその洋服と靴を持っているのか」

「うん。みんなこの格好。先生は違うけれど、やっぱり洋服で洋靴をお召しになっているわ」

 嫌な雰囲気に耐えられなくなった俺が発したその場しのぎの質問にもお凜はすぐに答えた。

 全員洋服に洋靴。新しいものだらけなその世界は、俺の住むこの町、この世界とは全く違う場所なのだ。そんなところに女がひとりで旅に出る、その意味は俺が想像するどんなことよりも恐ろしいことのように思えた。

「心配だよ、俺は」

 いろいろ詰まっていた感情の中から、ひとつだけ、咄嗟に出た。

「俺はお前のことが心配でたまらない。俺と喧嘩して勝てるかもしれないけど、俺より強い男なんかたくさんいる。しかも女学院の中なんかみんな上品で、喧嘩なんかじゃ何も解決できないだろうし、そんなところでいじめられたりしたらどうするんだよ。先生とやらだって、結局はただの大人だ。嫌なことを言うし、決まりごとに厳しそうだし……」

「もしかして大吾、私に喧嘩しようって言ったのは……」

「そうじゃ!俺に勝てないくらいでそんなとこにいったら危ないと思って、止めようと思っていた!でも、でも俺じゃお前には勝てなかった。俺には、お前を心配しても、止める資格なんかこれっぽっちもないのにっ」

 涙はもう止められなかった。みじめと、無力さ、自分の弱さ、卑怯さ。全部が一度に押し寄せた。自分如きでは何もできない、女を守ってやることさえできない。

 震える俺の肩に、お凜が手を置いた。昔から喧嘩に弱かった俺が拗ねたとき、お凜はそうして俺をなだめようとするのだ。

「大吾、私は心配いらないよ。今日、喧嘩で大吾にも勝てた。大吾が弱いんじゃなくて、私が強いのよ。それに女学校だって見た目ほどお上品じゃないっても聞くわ。気に食わないやつがいたらちゃんと喧嘩で倒すから大丈夫よ。それに先生はとっても立派な人だったわ。大吾が思っているような、悪い大人なんかじゃない」

 必至にそう言ってくれるお凜の言葉を聞いていると自分のみじめさが増すような気がしたが、同時にすこし滑稽だった。お凜は自分のことが強いと言っている。喧嘩に弱く、卑怯な俺に勝ったくらいでそう思っているらしい。涙は止まらなかったが、思わず吹き出してしまった。

「お凜が強いだって?それはお前のお父が用意したその喧嘩靴が強かっただけじゃろうが!あはは、おかしいな。本当に、俺はやっぱり心配だよ。お凛」

「え、うん。そうだよね、ごめ……」

「だから謝るな、お凛」

 涙をぬぐう。必死に顔を乾かして、笑顔を作る。ここで一番、人生で一番強がって見せる。

「その靴、ぜったいにいつも履いておけ。お前は強くないけど、その靴さえ履いていればどんなやつにも負けんから」

「大吾、許してくれるの……?」

「許すも何も、最初から俺が一人でうじうじしていただけだしな!お前は胸を張って、立派な先生になってこい!ここにも戻ってこなくていい!!」

「えっ」

「そのかわり、俺が行く」

 大きく息を吸う。本当は泣きそうだけれど、一番怖いところに行くのはお凜なのだから。安全なこっちにいる俺くらいは、笑って送り出してやりたい。

「俺はお前のお父に弟子入りして靴職人になる。お前のその靴は先生になる頃にはさすがにボロボロになっているだろうから、俺が修理しに行ってやるよ。だからそれまで、その靴は絶対に手放すな。それで気に食わん奴は全員蹴り倒してやれ!」

 川に向かってそう叫んで、一生懸命笑顔を作ってお凜の方を向いた。

 だから安心して行ってこい!

 そう言うつもりだったのに。


「なんでっ、お前まで、泣いてるんじゃ……」


 お凛は泣いていた。

 よくわからない。

 ただその瞬間、俺の弱っちい強がりもすぐに崩壊してしまった。

 お凜を思わず抱き寄せて、その洋服の肩をびしょびしょにしながら、おいおいと泣いた。

 そのときのお凜がどう思っていたのかも、今となってはわからない。




「さて」

 仕事道具はそろっている。

 髪形も今風にしてきた。

 今日の仕事は女学院の先生様の靴修理。

 相手に恥をかかせぬよう、こちらもまともな恰好をしておかなければ礼儀に欠く。

 緊張するが、深呼吸をしてドアーをコンコン、と叩く。二回たたくのが良いらしい。

「どうぞ」

 部屋の中から返事が聞こえた。

 今度は泣かぬように、背筋を正して、立派な顔をつくってドアーノブを回す。

「ハロー、と言うんだよな?お凛、久しぶっ!?」

 あのときと同じような、腹に突き刺さるような衝撃。

 しかし突っ込んできたのは鉄板入りのつま先ではなく、立派な“先生”だったのだが。

「おいおい、立派な先生になったんだろうが」

「トゥー、レイトッ!遅い!」

「うわ、気が強くなってる!立派というよりこりゃ鬼だ!!」

「大遅刻よ、大吾」

 “先生”におでこをびしっ、と弾かれる。見れば、あちらさんも泣きそうになっている。

「嫁に行ってやるから、家では覚悟しなさいよ」

「じょ、女学院が上品じゃないってのは本当だったようだな……」

「うるさいっ。レディーを待たせたら、何か言うことがあるって知らないの?」

 外国語を教える先生とだけあって、外人も舌を巻く強烈な女である。だが、こちらとて何の準備もなかったわけじゃない。

 すっ、と顎に手を添え、接吻。

「これが今風の“答え”なんだろ、先生?」

「だ、大吾!これはこんな場所でするものじゃないんだよっ!」

「あででっ待ってすねは!すねは駄目だ骨が折れちまうっ!」

ガバガバ大正感はゆるして

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