奏鳴曲
『なんていう曲なの?』
夕暮れに染まる音楽室で、寂しげにグランドピアノを弾いている女子生徒に、そう声をかけた僕は本来そんなヤツじゃない。
そのシチュエーションは確かに、ロマンティックで情緒的で儚げで、
標準的な男子高校生なら、思わず飛び込んでしまいたくなるような、トロンとした甘い空間だったけれど。
半年前の入学以来、突飛な理由で悪目立ちしていた僕は特に、流されることも酔うことも、魅惑のボーイ・ミーツ・ガールの世界に飛び込むことも、あってはならない状況だった。
だが僕は・・・。
「あなたは・・・」
ピアノの音が止んだ少し後に、彼女の声が聞こえた。可愛い声だった。
「あ、すみません。邪魔しちゃって」
サラサラとした長い黒髪が胸の辺りまで掛かっていて、最初は気づかなかったけれど、制服のリボンの色からして3年生のようだったので、僕は慌てて敬語に直した。
開け放した音楽室の窓から、夏の余韻が残った風が入ってきて、前髪で隠れた彼女の眼が見えた。やっぱり可愛かった。
「ううん、いいの。人から声をかけられること、ほとんどないから」
「え?」
「あぁ!気にしないで!変なこと言っちゃったね」
彼女は慌てた様子で顔の前で両手を横に振った。
先ほどまで鍵盤の上を流れるように走っていた手は、思っていたよりも小さかった。そして可愛い。
しかし、うちの3年生はよほど女の子を見る目がないらしい。こんなに魅力的な同級生に声をかけることも出来ないなんて。
「君って・・・もしかして、山本くん?」
ぎくり、と何処からか音を発してしまいそうになった。
思わず友好的に会話が繋がって舞い上がった僕の視界から、ピンク色のモヤモヤしたO2だかCO2だかが霧散して何処かへ消えていった。
やはり僕の不本意な名声は、2学年程度の垣根は軽く超えて広がっているらしかった。
そしてその僕の立っている”状況”は、いわゆる「恋」だの「愛」だのとはどうあっても混じり合わない奇妙なものだったのだ。
つまり僕は、流されて、酔ってしまって、飛び込んでしまった。
そして不知火 美季は、めちゃくちゃ可愛い女の子だった。
1.僕と彼女の不思議な出来事
僕の入学した高校はいたって普通の一般校だ。
可もなく不可もなく、学力も県内平均値を出せば、我が校の学力値になるだろうし、朝礼の群衆に石を10個投げれば10人の普通生徒に当たるだろう。1000個も投げれば1つくらい特殊な生徒に当たるだろうが・・・
つまり僕、山本 大地に。
いたってポピュラーな姓である『山本』だが、うちの高校においては多少印象が変わる。
主に希少価値という点で。
信じ難いかもしれないが、創立49年、開校当初から山本の姓を持つ生徒が同時に2人以上存在したことがないというのだ。
第1期生の“初代”山本から、卒業した年の新入生にまた山本が一人、その2代目山本が卒業するとまた一人。と、3年周期で山本が入れ替わり、僕は数えに数えて17代目にあたる。
その規則性と、実際にそうなっているという確認のしやすさから、僕、”17代目”山本は校内では有名人であった。
いわゆる「学校の七不思議」の一つとして。
後の6つは聞いたこともないのだけど。
この「山本の不思議」は校外でも有名だったらしい。
だからこそ他の山本さんたちは、好き好んでこの高校を選ばかったんだろう。
根拠は無いとはいえ、受験生にとっては狭き門のようで縁起が悪いだろうし、たまたまその1つだけの椅子に座れたとしても、高校3年間奇異の目で見られることは避けられない。
県外から引っ越してくるような、間の悪い山本くらいしか入ってこないからこその規則的な偶然だろう。
これが入学時から半年間、僕の立たされ続けている”状況”であった。
「気の毒、って言葉がピッタリよね」
そう言いながらケタケタ笑っているのは、同じクラスの前の席に座る島崎 亜衣だ。
「うるさいよ」
そんな島崎を僕はじとりと睨みつけた。
「んで?結局そそくさと逃げちゃったわけね」
「そうだよ。いたたまれなかったんだよ!雰囲気に酔っちゃってたから特に!」
島崎はさらに愉快そうに笑い始めた。
「気にしすぎじゃない?別にカッコ悪い肩書きじゃないんじゃないの?17代目」
「おい17代目って言うな。そんなもん襲名した覚えはないぞ」
「ぷっ!襲名って」
結局、あの時山本であることがバレてしまった瞬間に、それまでの妙な浮遊感で麻痺していた羞恥心が、再びむくむくと膨らみ始め、僕は挨拶もそこそこに音楽室から逃げ帰ってしまったのだった。
その後、家でひとしきり頭を抱えて悶え転げた挙句、次の日島崎に話して楽になろうとしたのだが、話す相手を間違えたらしい。
「ほんと大地って飽きないわ。面白エピソードの宝庫だもんね」
「不本意だよ。本当に」
入学式の日、クラス中から聞こえるヒソヒソ話の矛先が、どうやら自分らしいと気付いた僕は、意味もわからず混乱していた。
誰かに聞こうにも県外から高校入学のタイミングで引越して来ていた僕に、いわゆる『同中』はいるわけもなく、ただただ頭の中が『なんで?』で埋め尽くされていた。
そんな僕にずずいっと歩み寄り、開口一番
「会えて光栄だわ。17代目山本くん」
と言ってのけたのがこの島崎だった。
そしてこの高校の『山本の不思議』を教えてくれたのだ。
それだけでなく、いち早く呼び方を「大地」と改めて、クラスでの呼び名を定着させてくれた。
と言うわけで僕はこの島崎をかなりリスペクトしている。
イラっとすることも多いけれど。
「でも、無駄に女の子を意識するあんたが・・・」
「無駄に、とは?」
コホン、と咳払いをして島崎は言葉を続ける。
「硬派な、あんたが珍しくない?女の子、しかも上級生に声を掛けるなんて」
「それは・・・」
確かにそうだ。
いくら可愛かろうが、あんなにもすんなり声を掛けられたのは何故だろう。
自分の指先をぼんやり眺めながら思い出す。
そもそも、何故あの時ピアノの音があんなに気になったのか。
テレビか何かで聞いた事のある気がするが、あの曲はなんていう曲だっただろうか。
とても綺麗で上手だったのは確かだけれど、それとは別に・・・。
「寂しそうだった・・・から?」
「寂しそう?」
島崎が聞き返す。その島崎を、僕はじっと見た。
そう、寂しそうに聞こえたんだ。
僕はあの時、入学式の日を思い出していた。
僕は別に内気というわけでもなかったし、中学の頃から孤独というものには特に縁が無かった。
ただ、入学式のあの日、唐突に僕は孤独で大きな円の中心に投げ入れられた。
誰かに声をかける勇気も持てず、自分はこんなにも臆病だったのかと、思い知った。
もしもあの時のまま、どうしようもなくなって、そしてピアノが弾けたなら、僕もあの曲を弾くかもしれない。
ゴス、と額に鈍い音と痛みが走った。
島崎の掌底を食らったらしい。
「え、なんで」
「なにが?」
島崎がこちらをギロリと睨みつけている。
特に関係は無いが島崎の父親は元ボクサーで、僕は島崎と喧嘩をしたら3秒持たない自信がある。
ふー、とため息をつくと、島崎はまた何事もなかったかのように話を戻した。
「寂しそうとかは、まぁ置いといてさ、あんたがその時話したい、話すべきと思ったんなら、とにかく話してみたら?」
島崎の助言はほとんど面白半分で、その結果ひどい目にあったりもしたけれど、真面目な助言の時ほど正しいことを僕は経験から知っていた。
「お前って凄いよな」
「殴るよ」
「え、なんで」
放課後、僕は少しためらいつつも、もう一度音楽室に行ってみることにした。
1年の教室は東棟の2階に位置しており、渡り廊下を渡って3年教室、特別教室のある西棟へと向かった。
道中はもちろん、普段接する事の少ない3年生たちの奇異の目に晒されるわけだが、半年も経てばもうこちらも慣れたものだ。
と、自分に言い聞かせて足早に通り過ぎる。
音楽室を覗き込むと、昨日と同じようにそこには、グランドピアノの前に座っている彼女の姿があった。
しかし、今はただピアノを弾かずに、ぼんやりと目の前の楽譜を眺めているだけだった。
「・・・あの」
僕はなんだかバツの悪さを感じて、控えめに声を掛けた。
その声に反応して、こちらに目線を向けた彼女は、あ、と小さく声を出して反射的に立ち上がった。
「昨日はごめんなさい!」
彼女はそう言うと深く頭を下げた。
「いやいや!そんな、頭上げてください」
僕は正直、驚いていた。
「山本の不思議」が広く認知されているこの高校において、僕を初めて見て珍しがるのは、不本意だが普通のことだ。
直接名前を聞きに来る人も多かった。
しかし、こんなにも申し訳なさそうに謝ってくれる人はいなかった。
「しょうがないですよ。実際奇妙な話なんですから」
僕の言葉を聞いてようやく顔を上げてくれた。
「でも・・・嫌だよね・・・。初対面で名前を知られてるなんて。」
彼女はそう言いながら、小さな手を胸のあたりでキュッと握りしめていた。
「いやぁ、もう慣れっこなんで、はは・・」
オドオドして逃げた男の言えた台詞じゃ無いだろうが。と思いつつ、下手くそなフォローに回っていると、彼女が呟いた。
「嬉しかったんだ」
「え・・?」
「私・・・影薄くって、学校の人と話すこともあまり無いくらいで・・・。いや、いじめられてるとかじゃ無いんだけど、”なんていう曲なの”って、初めて聞かれたの」
「・・そうなんですか?」
「・・うん」
そんなに可愛いのに・・と口に出しかけて、僕は慌てて言葉を飲み込んだ。
とても目立たないようには見えなかった。
まじまじと見てるようで申し訳なかったが、白く透き通った肌に整った顔立ち、特に瞳の色は黒というよりグレーに近いようで、思わず見つめ続けてしまいそうな魅力を持っていた。
「この前の・・・」
「え?」
「なんていう曲だったのかなって」
「あれは・・ベートーベンのピアノソナタ、第8番八短調、”悲愴”だよ」
「”悲愴”・・?」
あ、と慌てたように彼女は言葉を続けた。
「”悲愴”なんてすごく悲しいイメージになっちゃうかもしれないんだけど、とても綺麗な曲なのよ」
グランドピアノの前に座り直した彼女は、胸の前で結んでいた手を解いて、鍵盤に添えるように下ろした。
そして迷いのない動きで鍵盤の上を滑っていく。
楽譜は見ていないようだった。
「この曲を弾いていると・・・、私の思い出の中の、色んな情景が浮かぶの。その時々の、温度とか感情とか」
流れるようなその一連の動きは、彼女がこの曲をどれほど大切にしているかを感じ取れるようだった。
彼女がその手で、指先で作り出す音に耳を傾けながら、僕は彼女の言葉にも聞き入っていた。
「ベートーベンの生きた時代を私は知らないけど、多分この音一つ一つに込められた温度と感情は、私の中にあるのと同じなような気がするんだよね」
彼女が最後まで弾き終わる頃には、窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。
「あ、ありがとうございました」
弾き終わって少しの間ぼんやりしていた彼女が、いきなり弾けるように立ち上がりながらお礼を言った。
「いえ!そんな、僕の方こそ」
つられて僕も気恥ずかしくお礼を言い、その後沈黙が流れる。
その沈黙に耐えかねて、僕は口を開いた。
「帰りましょうか」
声が裏返った。
彼女がぽかんとした顔でこちらを見る。
「いや、え・・と、結構暗くなってきましたし」
「あ・・ほんとだ」
遠くの民家の屋根にかかりかけた夕日を見て彼女は驚いていた。
気づいていなかったらしい。
二人で並んで音楽室を後にし、校庭へ出た。
部活動生を残し帰宅部組はほとんど帰ってしまっているらしく、校門へ続く道には誰もいなかった。
道すがら、彼女が自己紹介をしてくれた時初めて、まだ名前を聞いていなかったことを思い出した。
3ー4 不知火 美季 (しらぬい みき)
わかりにくい漢字と読みだからと、小さなメモ用紙に書いて渡してくれた。
校門の前に差し掛かった時、『お送りします』の提案をすべきかと頭をフル回転させていた僕に、彼女が声をかけてくれた。
「山本くん、今日は演奏聞いてくれてありがとう。」
面食らった僕は慌てふためきつつ
「いえ!そんな、僕の方こそ」
と言った後に先ほどと同じセリフを吐いたことに気づき、自分を絞め殺したくなった。
じゃあ、と手を振りつつ校門を出る彼女を見送りながら自暴自棄の渦に飲み込まれていると、
校門を出た途端、彼女の姿も何かに飲み込まれるかのように消えてしまった。
◇
人は危機的な出来事に直面した時、時間がゆっくりと流れていくような感覚に陥ることがあるらしい。
この時の僕がまさにそれで、危機的というよりは、あまりの衝撃的な出来事に、目から入った視覚情報が脳で処理しきれず、バチバチと火花を飛ばしながら頭蓋骨の中を乱反射でもしているようだった。
校門の外との間に水面でも張ってあるかのように、最初に境に触れた左手からスーッと飲み込まれていき、あちらを振り向きながら顔と胴体、とり残された左足もついには飲み込まれて、わずかに空間を波たたせながら、彼女は忽然と姿を消した。
やがて、ショートしかけた僕の脳細胞が、悲鳴にも似た声をあげた。
「不知火さん!?」
「ーうしたの?」
頭の途切れた返答が、彼女の口から発せられた。
目の前に彼女の口、鼻、目、頭がある。
しかし依然、彼女の首から下は消えたままだ。
まるでアパレルショップの試着室から顔を出すかのように、校門を境にして外にあるはずの体が消えてしまっている。
(ど、どうなってんだこれ・・・)
身動きも取れず、呆然と立ち尽くしている僕を、不思議そうに見ながら彼女が寄ってくる。
それに合わせて、『校内』に入るにつれ彼女の体も姿を現し、僕の目の前にはどこも消えていない不知火 美季が、困惑した顔で立っていた。
「どうしちゃったの?山本くん。顔が真っ青だよ?」
「いや・・・、どうしたのって、不知火さん・・・今、消え・・・」
「消え?」
彼女はますます困惑顔で、むしろ僕の方を心配しているようだった。
(自分では気づいていない・・・のか?)
瞬きの回数が増えるにつれ、少しづつ思考能力が戻ってきた頭をフル回転させ、今の状況を整理する。
とりあえず、してみることは・・・。
「不知火さん。・・・あ、先輩」
「先輩つけなくてもいいよ。それより大丈夫?どこか一度座る?」
「いやいやいや!それよりも!・・・不知火・・さん。手を、校門の外に出してみて下さい」
不知火さんは、困惑しつつも、素直に『こう?』と言いながら校門に向かって手を伸ばしてくれた。
そして、その”境”の面に指先がついた途端、ぐわぐわと空間が小さく波打ち、彼女の肘から先が消えた。・・・というより、見えない”あちら側”に入った。
「不知火さん、今・・・右手がどうなってるか、見えてますか?」
「右手?」
肩から肘にかけての動きを見る限り、彼女の右手は今”あちら側”でフリフリと振られているらしい。
この自然な対応から察するに、彼女には右手が見えている。
「山本くん、なんか変だよ?」
不知火さんは右手を”こちら”に戻すと、不安そうな顔で僕を見つめる。俺が変なのか?
「ちょ、ちょっと待って」
僕はあることを閃いて、校門の外に出ようとした。が、一瞬躊躇した。
僕も、この門を超えたら消えてしまうのだろうか。
しかし、不安の色が濃くなる彼女のグレーの瞳をもう一度見据えて、意を決して飛び出した。
そして両手を見る。
僕の主観では、僕の体は消えていない。
「・・・不知火さん、僕が見えますか?」
校門を挟んで、不知火さんに問いかける。
「見える?・・どういう意味?」
見えてる。声もちゃんと届いてる。
そして次に、僕は不知火さんに右手を差し出した。
「不知火さん。僕の手を握ってみて下さい」
「へ!?」
不知火さんが目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。僕は若干凹んでしまった。
これじゃ僕はとんだ不審者だ。端から見れば怪しいことこの上ないだろう。
それでも僕は、早くこの恐ろしい白昼夢から目覚めたかったのだ。
「お願いです。不知火さん」
「・・う、うん」
こちらにソロソロと伸びる彼女の手は、やはり校門を境に消え始め、距離的には手が触れ合うだろうところまで伸びきった。
「え?・・・え?」
不知火さんは、途端に青ざめ、震えだす。
「なんで?なんで!?」
「どうしたんですか!?」
彼女のグレーの瞳が、僕の目とあった途端、涙で揺らめいた。
「・・・通り抜けちゃって・・・掴めないよ・・・」
顔面蒼白で、一人で歩くこともままならないほど動揺した彼女を、ひとまず僕は近くの体育館の方へと、支えながら連れて行った。
体育館の2階部分へと伸びる階段に慎重に座らせて、一息ついた彼女はそれでも一言も発せないようだった。
僕だってそうだ。どう声をかければいいか、見当もつかない。
(案外、透明人間というのは便利だと聞いたことがありますよ。)
(結界が張られていたようですが、大丈夫。2、3時間も経てば溶けて無くなりますよ。)
(お互い、妙な超常現象に行き当たったもんですね。)
パニックだ。パニクっている。僕も、そして彼女も。
だが、はっきりしている。
あの現象は、透明人間でも、結界でも、お互いでもない。
彼女の身に、起きた”超常”だ。
”校門を出たら消えてしまい、それに自分は気付けない”
簡潔に、残酷に言ってしまえばそういうことだろう。
けれど、これを彼女に言ってしまえば、彼女は、考えたくもないことを考えなくてはいけなくなる。
ー何故私がこんな目に?ー
ーというよりいつからこんな目に?ー
ー昨日はこんな目に遭っていなかったの?ー
ー遭っていたとしてその事に私は気付けるの?ー
ー気付けないとして私はどこに消えてしまっていたの?ー
ー私は一体ー
ー何者なの?ー
負の疑問の連鎖を塞きとめる方法を、僕が見つけ出す前に、隣で震える彼女は、小さな泣き声を抑え込めなくなっていた。
おそらく最後の疑問まで行き着いてしまったんだろう。
つまり僕は、どうしようもなく無力だっていう話だ。
そして、それが現状で唯一はっきりしていることだった。
「もうそろそろ、行かなきゃね」
オレンジ色だった空が、すっかり暗くなって灰色になってしまった頃、彼女がポツリとつぶやいた。
そうは言っても、彼女は自分から動き出せずにいた。
当たり前だ。怖いに決まってる。だからその後は僕の出番だ。
最初の一歩を、ここで踏み出せなかったら、僕に存在意義は無い。
「確認させてください。」
僕は、全身全霊をもって、声が震えないように語りかけた。
「確認?」
彼女が問いかける。
「現状で、わかっていることだけを考えましょう。さっき・・・校門で手を伸ばした僕の姿ははっきり見えていたんですよね」
「・・うん」
「声も聞こえていた。ですよね?」
「・・・うん」
「つまり、校門の外側だろうが内側だろうが、僕はそこにいて、それを見ている不知火さんもそこにいるわけです」
僕には、不知火さんは見えないし、聞こえないし、手も握れないけれど。
「先に、僕に家の住所を教えてください。携帯のナビを使って、僕が送っていきます。」
「・・・でも・・・」
「でもじゃないです。女の子を夜道一人で帰すなんて、そちらの方が心配で困ります。」
彼女は、黙って聞いてくれている。
「帰り道、僕の愚痴に付き合ってもらえませんか?知っての通り、入学から今までろくな目にあっていませんからね。話しても話しても尽きないほど、ネタが溜まってるんです」
「そして、不知火さんの家の前に着いたら、また明日、って言って僕は帰りますので、僕が見えなくなるまで、見送ってください。」
隣で、彼女が頷いてくれる。
「そしたらどうぞ、お家の人に、こんな面白ややこしい後輩がいるんだと話してあげてください。絶対笑えますんで、それは保証します。」
僕は立ち上がって、彼女に手を差し出した。
彼女の瞳は、もう潤んではいなかった。
「もうそろそろ、帰りましょう」
帰り道、僕は細心の注意を払って、自虐的な笑い話をしながら帰った。
ナビを見落とし道を間違えないように、歩幅は不知火さんの歩幅を意識して、話が少しでも途切れないように。
彼女の教えてくれた住所は思っていたよりも学校の近くで、歩いて15分ほどの住宅地だった。
バスや電車通学じゃなくてホッとした。もしそうだったなら、難易度も目立ち方も比じゃなかっただろう。
校門を意を決して出た途端、彼女の姿も声も気配も、綺麗さっぱり消えてしまった。
だが、そこにいるはずだ。見えなくても、聞こえなくても、彼女はそこで怯えている。
僕は馬鹿みたいに理不尽な実体験を語りながら、彼女の話と、実際の現象とを加味して、仮説を組み立てていた。
この『校外限定消失現象(仮)』は、あくまで僕視点での現象だ。
彼女には僕の姿が見えているし声も聞こえる。触れられはしないけど。
事の始まりが今日でも、もっと前からでも、彼女の視点ではほぼ何事も起きていないし、だから一人では気づくこともできない。
問題なのは、僕と彼女以外の視点ではどうか、ということだ。
これは二人で下校している中でわかったのだけど、道すがら出会う人たちが僕を、新手のパフォーマーか新手の変人を見るかのような目で見ているから、彼女の姿は見えていないらしい。
だが、彼女がもしも今日以前からこの状態だったのなら、少なくとも家族には彼女の姿は見えるということになる。
”見える人”と”見えない人”の線引きがわからない。
そもそも、いつから現象が始まったのかがわからない。
もし今日からなら、明日も無事彼女が登校してくるのかさえわからない。
校外に、彼女を出してよかったのかわからない。
僕の判断は正しかったのか、間違っていたのか、わからない。
・・・・・・・。
だめだ。組み立てようがない。ピースが足りなすぎる。
今は、隣にいる彼女を無事に送り届けることに集中しよう。
そして明日、不知火さんと二人でピースを持ち寄って考えるべきだ。
そうだ、島崎のやつにも知恵を貸してもらおう。
もしかしたら”山本の不思議”と並ぶような不思議伝承が他にもあって、そのうちの一つかもしれないじゃないか。
それなら島崎が把握している可能性が高い。そうだ、なんで気づかなかったんだ。
そうこう考えているうち、携帯のナビが終点を告げた。なんの変哲も無い。一軒家。
だが、表札は、『島崎』だった。
一度、訪れたことがある。『島崎 亜衣』の自宅だ。
動揺を、混乱を、カケラも出してはならない。
彼女が、不知火 美希が、僕の隣にいるはずだ。
僕は「また明日」と一言つぶやき、自宅へと向かった。
わからない。何もかもがわからない。
ただ、なぜか確信していた。
僕と彼女は、住む世界が違う。
2.僕と彼女の不思議な関係
人もまばらなAM6:00。
まだしっかりと閉ざされている校門を乗り越えて、僕は本日最初の登校者となった。
人の気配が一切ない校庭を一瞥して、僕は振り返り、遠くの通学路ではなく”校内”と”校外”を隔てる境界を見据えた。
昨晩、彼女を送り届けた後、僕は漠然とした不安を抱えたまま家路に着いた。
本当ならじっくりと一連の出来事を反芻して、考えをまとめたかったのだけど、僕の思考は不知火 美希の無事と、明日また登校してきてくれるかに集約されてしまって、現象の成り立ちやら対処法やらを考える余裕は残されていなかった。
そもそも校外において、彼女の眼前に広がる世界と僕の世界とでは、別物だと突きつけられてしまったのだから、僕一人では現状把握はできない。
彼女と話し合う必要がある。
彼女の安全を確かめる必要がある。
結局一睡もできなかった僕は、日が昇り始める前には自宅を出ていた。
AM7:00、校門を開錠しにきた教員だか用務員だか知らない人に不審な視線を投げられながらも、僕はそこに立ち続けた。
それからほどなくして、空間をわずかに波たたせながら、彼女は文字通り姿を表した。
「おはよう、大地くん」
不意に『大地くん』と呼ばれたことに驚いた。が、すぐに理由に思い当たった。
昨日の帰り道、僕は姿も見えない隣の彼女に、島崎から受けた恩の話をしたからだろう。
ちゃんと僕の隣に彼女はいたのだ。
「おはよう、不知火さん」
◇
「島崎、グッジョブ」
登校して早々、あちらにとってみれば身に覚えのない賛辞の言葉を送られた島崎 亜衣は、露骨に怪訝な顔をした。
「なんの話?って返しを前提にした感謝の言葉は、鬱陶しいだけよ」
僕の拙い会話術はコンマ数秒で破綻させられてしまった。
僕は改めて、相談を受けていただく交渉から始める羽目となったが、いざ話し始めると、島崎はツッコミも茶化しもせず、真面目に一部始終を聞いてくれた。
「色々SFチックな話なのはよくわかったわ」
「SF?別に宇宙規模の話とは思わないけど」
「スイートでファンシー、のSFよ」
ニヤリ、とこちらを見る島崎の目に、僕はたじろいでしまった。
僕が伝えようと思っていた以上に、色々見抜かれてしまったような気がする。
「話をまとめてみましょっか」
島崎はルーズリーフを一枚取り出し、僕の話の要点をまとめ始めた。
「俺がこういうのもなんだけどさ、すんなり飲み込みすぎじゃないか?こんな不思議な話」
「何言ってんの?同じくらい不思議な立場に立ってるあんたが、同じくらい不思議な話したら、それはもう不思議な実話でしょ」
「いや、その理屈は意味わかんないぞ!お前、明日俺が『実は俺、未来からタイムリープしてきたんだ』とか言ったら信じるのかよ」
「あんたが真面目な顔してたら信じるけど?」
本当にすんなり言いやがった。
「お前・・・やっぱ凄いな」
僕の知る中で一番の、助言とフォローと右ストレートの達人は、僕を沈めた右拳でシャープペンシルを握り直すと、続きを書き始めた。
1、校外では不知火先輩の姿はアホ大地や、通りがかりの人には見えない。
2、不知火先輩からはバカ大地の姿は見えるし声も聞こえる。
3、不知火先輩の教えてくれた家は、不知火先輩の家じゃなかった。(クズ大地視点)
4、上記のことに不知火先輩1人では気づけなかった。
5、不知火先輩の家族には不知火先輩は見える。
「こういうことでいいのよね?」
「まぁ、そうですね・・・」
島崎渾身のハートブレイクショットで撃ち抜かれた左胸をさすりながら、僕は頷いた。
「そして、あんたの仮説は”異世界説”?」
「まぁ、仮説というか、直感というか・・・」
頭を掻きながら、僕は自分なりの解説を話す。
「不知火さんに今朝、少しだけ話を聞いたんだけど、校外においては俺が見ている世界と不知火さんが見ている世界には違う箇所があるんだ。」
「例えば?」
「まずは、家だよ。彼女は確かに最後まで俺と連れ立って歩いていて、同じ場所にたどり着いていたみたいなんだけど、不知火さんの視点では、ちゃんと彼女の家だったらしいんだ。そしてもう一つ、俺視点ではジロジロこっちを見てた通りすがりの人たちは、彼女視点では普通に通り過ぎて行ったってさ」
そして彼女は、普通に帰宅して、家族と一緒に食事をして、自分のベッドで寝たという。
つまり、道筋や街並みは同じでも、人の動きや家の所有者、その他気づいていない細かなところでは違いがあって、いわゆる異世界とかパラレルワールドみたいなものではないか、という仮説だ。
彼女には彼女の世界があって、僕には僕の世界があり、その2つの世界が学校という空間のみ重なり合って、混じり合ってしまっている、ということだ。
「・・てな感じなんだけど、どう思います?島崎さん」
「理解はしたけど、納得するには足りない感じ」
「ですよね・・・」
自分で言うのもなんだけど、穴だらけな仮説である自覚はある。
その”穴”の部分を埋めてもらえないかと、島崎に期待しているわけなんだけど。
「何か知ってそうな人は、いるんだけどね」
しばらく考え込んだ後、島崎はポツリと呟いた。
「え?誰だよ一体」
「私の兄貴の同級生」
「兄貴って、初耳だな」
「6つ上だから、もう一緒には住んでないからね」
6つ上のお兄さんの同級生、ってもしかして・・・。
「ちょっと待て。まさか、うちの高校のOBとか言わないよな?そしてその頃の同級生とか言わないよな?」
「あらら、意外とバカじゃないみたいね」
島崎は、あっけらかんとして言う。
「”15代目 山本”に会いに行くのは、どう?」
◇
僕達の通う日ノ森高校から駅2つ程先に、ピンクのネオン輝く古めかしいビルや、絢爛豪華な入り口のバーやらクラブやらが、局地的に立ち並ぶ一角がある。
お世辞にも都会とは言えない日ノ森町において、ここら一帯が唯一、日々鬱々と働くサラリーマン達の心のオアシスであり、潔癖主義的な保護者連中が、僕達の視界に入れぬよう目を光らせるグレーゾーンである。
その奥にひっそり立つ、築30年以上は経っているであろう、3階建ての鉄筋コンクリート造の小ビルに、その店はあった。
「兄貴に入学前、『山本の不思議』について聞いたことがあったんだよね。学年的にも15代目山本の世代って知ってたし」
島崎は携帯を弄りながら話し続ける。何かのサイトを調べているようだ。
「やっぱり校内一の有名人だったみたいなんだけど、今は日ノ森町一の変人って言われてるんだってさ。あんたもそうなるかもね」
「笑えない冗談だな・・・」
「冗談になるといいわね」
島崎は不敵な笑みを浮かべながら、携帯の画面をこちらに向ける。
「ここに行ってみなさい」
そして僕は、そのサイトの陳腐な作りのアクセスマップを頼りに、このビルの前まで来たわけだけど。
「このビルの三階・・・」
一階入り口に取り付けられた、安アパートでよく見るような錆ついたポスト兼表札には
“大概屋“
と殴り書きしてあった。
なるほど怪しい。日ノ森町一の変人の通り名に相応しい禍々しさを放っている。
これが僕の6年後の姿になりかねないなら、今すぐ進路指導の先生にすがりついて助けを求めたいくらいだ。
しかし、今更後には引けなかった。
島崎から情報をもらった僕は、次の授業が終わると同時に学校を抜け出した。
今日の放課後、また不知火さんは、恐怖に苛まれながら校門前で立ち尽くすだろうからだ。
その前に解決策を、いや、せめて一歩先を照らす程度の道標くらいは見つけなければならない。
僕は照明も暗く埃っぽい階段を、目的の“大概屋“なるものの元へ、登って行った。
敷地面積は大して広くは無いだろうが、3階部分は“大概屋“のみが占有しているらしく、階段を登ってすぐ、曇りガラスのはまったアルミ製の扉に行き着いた。
僕は一つ深呼吸をして覚悟を決めると、控えめに扉をノックした。
返事はない。
もう一度、ノックする。
返事はない。
「当店にはテレビも無ければ新聞で包むようなお高い食器もましてや苦悩の日々から掬い上げて頂けるような教えを理解できる学のある者すら居りませんのでお引き取りください是非お願いします。」
背後から不意に声を掛けられ、飛び上がってしまいそうになってしまった。
振り向くと、小学3・4年ほどの小さな女の子が、眠そうな半開きの目でこちらを見上げていた。
しかしこの場には場違いな、小綺麗な格好をしている。
強いて言えば某小学生探偵のような、カッチリした出で立ちだ。蝶ネクタイは流石にしていないが。
「あぁ、えーっと・・・。ここの子かな?大概屋さんに用があって来たんだけども・・・」
少女の目が険しくなる。
「随分奇抜な勧誘屋さんですね。平日昼間に学生服を着て悩みでも抱えていそうな雰囲気を漂わせてまるで依頼しに来たお客様みたいじゃないですかそんなリアリティに欠ける設定では誰も騙されませんよ」
少女が息継ぎの為僅かに言葉を切った瞬間、背中の扉が勢いよく開いた。
「そこまで揃ったら流石に客だっつーんだ!このクソガキ!!」
ギロリと鋭い眼光、無精髭、皺の寄ったシャツに灰色のオッドベスト。
15代目山本にして日ノ森町一の変人。大概屋店主との邂逅だった。
「ゥオッホン!・・よく来たね少年。本日は大概屋にどういった御用向きかな?」
扉を背中で押さえつつ、わざとらしい咳払いをして“15代目山本“はそう尋ねた。
どうやら居留守を使っていた件には触れさせてはくれないらしい。
「あ、はい。実は・・」
「まぁまぁまぁまぁ入りなよ。どうやら一見さんの様だし、色々注意事項もあるからねぇ。普段は基本紹介有りじゃなきゃあ受け付けないんだが、せっかくガッコーエスケープかまして来てくれたんだ。話くらい聞こうじゃないか」
僕の言葉を遮って、室内に入るようせかされた。
とは言っても、大概屋の扉の先は腰の高さほどの雑誌や段ボールの山が脈々と連なっており、家主自らその山を掘削しながら進んでいく。
僕も慌ててその後をついて行き、それに先ほどの少女も続く。
「勧誘屋さん気をつけた方がいい油断すると生き埋めになりかねない店長本人ですら中身が何か把握していない段ボールばかりだから鈍器刃物の類が降り注ぐ可能性があるぞ」
「ちょっと、やめなさいねコハナ嬢。滅多なこと言うんじゃないよ?あと、勧誘屋じゃなくて客だから。あと俺店長じゃなくて所長だから!!」
僕を挟んで口論し始める二人の様子に、緊張や混乱より先に、この方々の関係性が気になって仕方がなくなってきた。
そうこうしているうちに、勇者御一行よろしく並んで進んだ先に、古ぼけた赤い長ソファに木製テーブルが見えてきた。
どうやら目的地の応接スペースらしい。
「まぁ座って。すまないがお茶の類は出さない決まりなんだ。素性の知れない人間の出すモノを口にするなんて、正気の沙汰とは思えないからね。仕事柄、気苦労が絶えないんだよ」
そう言いながら、正面のデスクチェアに腰掛ける。
「3日前に電気を止められて冷蔵庫の中身が全て腐ったんだ申し訳ない勧誘屋さん」
「コハナちゃーん!」
何かもう、不安になってきた。
もしかすると今僕は、とてつもなく無益な時間浪費をしてしまっているのかも知れない。
僕が全幅の信頼を寄せる島崎 亜衣の助言は、真面目な場合も悪ふざけの場合も一級品だ。
有用な情報か、有用な笑いのタネ、どちらかは手に入る。
今のところ、後者が優勢だ。あんにゃろう。
「・・あの、大概屋さん」
意を決して話しかける。
「おぉ!よく聞いてくれた。大概屋というのはだね・・・」
15代目山本さんが身を乗り出す。
全くもって話を聞かない所長さんだ。
「よくあるだろう、“便利屋“だの“何でも屋“だの。大仰に声高に『便利ですよー』『なんでもやりますよー』なんて言う輩がね。そんなのに限って、じゃあアイドルのパンツの一つでも調達できるのかと言えばそうじゃないだろう?出来ないことなんぞ山程ある癖に大層な看板背負ってる時点で信頼もクソもないじゃないか。その点ウチは・・・」
「出来るんですか?」
「いや出来ないよ」
オチの見え透いたトークに付き合ってしまった。
それにしてもなんと舌の回る山本さんだろう。同じ山本でも2世代も違うとこんなにも違うものなのか。
そしてまたその舌がくるくる回り始めた。
「だがね、“大概“のことは出来るのさ。俺達ならな。」
そう言いながら胸ポケットからタバコを出し、火をつける。
「まずは話を聞いてからだが、そうだな。分かりやすい例を出すなら、世の中の仕事でケツに『屋』が付くものなら全て引き受けられる。『飯屋』『修理屋』『的屋』『予想屋』・・・」
不意に、山本さんがその鋭い眼光でこちらを睨む。
「・・『殺し屋』」
殺し屋。
先ほどまでの飄々とした語り口にそぐわない、その暴力的で重々しい単語を、僕がはっきり認識するのに束の間の時間を要した。
その沈黙の意味を追求するように、無視するように、目の前の男は話を続ける。
「別に取り立てて難しい仕事じゃないぜ。どちらかといえば、他の仕事よりは準備も手間も金も掛からない。」
男の指先の煙草から、細い煙がゆらゆらと立ち昇る。
それ以外の全てが静止しているような錯覚に、僕は微動だにできなかった。
「信じられないって顔だな。まぁいいや。暫くぶりの依頼人だ、大事にしたい。デモンストレーションというか、信頼を得るための証明として一つ、大概屋の仕事ぶりを見せようじゃないか。お前のその制服、日ノ森高校だな。俺の母校なんだよなぁ、偶然じゃあねぇだろうなぁ・・・。」
そう言ってわざとらしく、もったいぶるように追い込むように、男は天井を見上げた。
そして背後の少女が、先ほどとはうって変わって端的な言葉を発する。
「島崎 亜衣」
背筋が凍った。大袈裟でなく、本当に凍りつくような冷たさと恐怖が明確に感じられた。
「島崎?なんか聞き覚えのある苗字だな。よし、じゃあ、そいつを殺して見せようか」
「ふ・・ふざけないでください!」
「ふざけてねぇよ」
僕の抵抗心を断ち切るように、冷たく言葉を遮られた。
もはや先ほどとは声色からして別人だった。いや、こちらが本性なのだろう。
「勇気出してんじゃねぇよ。振り絞ってんじゃねぇよ。というより遅いんだよ、振り絞るのが・・・。うちの扉を叩いた時、コハナに声をかけられた時、中に入れと言われた時、そこが勇気の振り絞りどころだったんだぜ?・・あと、言っとくけどな。ここにいち高校生が、しかも俺の素性を少なからず握ってるやつが、たどり着いてる時点でこっちの警戒度はMAXなんだよ。異常だぜ、これは。」
島崎・・お前は凄いやつだと常々思っていたし知っていたけど、お前の兄貴は一体何者なんだ・・・。
島崎が殺される・・・島崎が・・・。
目をまっすぐ射抜くように見据えられた僕は、もはや身動き一つ取れなかった。
しかし、ここで黙り続ける方が僕には恐ろしいことだった。
「島崎は・・・関係ありません。あいつは・・・」
「関係ねぇとか知らねぇんだよ。黙ってそこで震えとけ。あとな、言ったろ?デモンストレーションが先だって。なんなら難易度上げてやろうか?・・・コハナ」
「陽光中学校」
僕の出身中学校だ。
「もひとつ難易度上げようか」
「東塚小学校」
・・出身小学校だ。
全てを、知られている。握られている。
「OK。じゃあ亜衣ちゃんとやらの前に、お前の小学校の頃の同級生、そうだな・・・6年生最後の隣の席の子を殺して見せよう」
目の前に座る”大概屋”、いや、”殺し屋”は、銃口を模したその人差し指と中指を僕の眉間に押し付けた。
男の口が、ゆっくり開く。
「やめ・・!!」
「『隣の席だったあの子、去年死んじゃったらしいよ』なんつって」
男の言葉を飲み込み、反芻し、理解するまで”殺し屋”発言の時の軽く10倍は掛かった。いや、正確にはまだわかっていない。どういうこと?なんつって?
「なんつって!」
言いつつベェッと舌を出す大概屋店主。そして僕は理解した。今の僕のこの気持ちが本当の殺意ってやつだ、と。
「なんですか!?なんなんですか!!!!」
「ごめん!ごめーんて!デモンストレーション!デモンストレーションって言ったじゃんか!」
僕が胸ぐらを掴んでガンガン揺らすと、焦った様子で弁解し始めた。この人僕以上にヘタレなんじゃなかろうか?
「いや、だからね!?仮にそういう依頼があったらこんな感じで煙に巻いて追い返しますよって!そういうことよ!こんな片田舎のピンク街にそんなゆで卵ちっくな出来事あるわけないじゃんか!」
「なんなんですか、あんたは・・・!」
キラリン・と彼は目を光らせると、偉そうに、声高々に、恥ずかしげもなくのたまった。
「紹介しよう!後ろの彼女は”情報屋”SNSジャンキー・黒髪 小華!!そして俺は”大概屋”舌先三寸の魔術師・九品寺 竜也だ!」
そして僕はようやく思い出した。
島崎 亜衣の悪ふざけは一級品だということを。
「・・・なるほど分かりました。失礼します」
行き過ぎたデモンストレーションとやらと、堂々たる自己紹介を拝見させていただいた僕は、くたびれた赤ソファから素早く立ち上がり、出口へと踵を返す。
「ちょい待った!確かにちょいとタチが悪かったね。謝罪するよ、申し訳ない!」
慌てた風に”大概屋”九品寺さんは僕を呼び止めた。
「・・・あれ?」
ふと僕はひとつおかしなことに気づいた。
島崎の6歳年上の兄貴の同級生、つまり僕の2世代前に当たる”15代目山本”である彼が九品寺 竜也と名乗ったことだ。
「あなたの苗字は山本ではないんですか?」
「あ?なんで俺の本名・・・」
意表を突かれたようだった九品寺さんはほんの一瞬静止すると、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「小華ちゃん、こいつの名前は?てか何年生?」
「山本大地。日ノ森高校1年6組出席番号28番帰宅部趣味映画鑑賞家族構成・・・」
「あー、いい、いい、もう」
うんざりという感じで”情報屋”なる黒髪 小華ちゃんの個人情報朗読を制すると、それは深い深いため息をついた。僕としては色々不快だ。
先ほどの肩書きに”SNSジャンキー”とあったが、つまりこの少女はSNSを用いた情報収集を得意としているようだ。
そういえば高校入学当時、島崎 亜衣考案の『17代目山本学生生活改善八策』の項目に、SNS登録というかなり俗物的な項目が紛れていた気がする。
当時は今以上に、島崎という人間の人柄に妄信的な信頼を寄せていた僕は、律儀にも大手SNSに登録し、そして不覚にもそういったものに疎かった僕は、事細かな個人情報をびっしり打ち込んでしまっていた。
今思えば、あれが最初の島崎による悪ふざけだったような気がする。気づいたのはたった今だが。
「小華ちゃんさぁ・・・何で敢えて名前伏せたのかな?さっきの寸劇の流れで言えていたよね?」
「黙秘する」
「あーそう」
どうやら基本的に主導権は、背後の幼い少女が握っているらしかった。
「つまりなに?君は現役山本くんで、先々代の俺に聞きたいことがあって来たと。そういうことな訳か」
その通りだ。先ほどは怒りや戸惑いで帰ってしまおうかとしていたけど、九品寺さんが間違いなく先々代の山本ならば、不知火さんの身に起こっていることへの解決の糸口はこの人しかいない。帰るわけにはいかないじゃないか。
「そうなんです!どうしても聞きたいことが・・・」
「帰れー」
スパッと糸口を切り離された。
これでは先ほどと立場が逆ではないか。
今度は僕が焦って食い下がる番だった。
「待ってください!どうしても解決しなきゃならないことが起こったんです!もちろん、先々代の山本さんだからといってわかることでもないかもしれないんですけど・・・他に頼れる人は・・・」
「九品寺な!今は。つーか君にもわかると思うけど、高校時代の”ソレ”は完ッ全なる俺の黒歴史な訳だよ。OK?」
「いや・・・大いに、大いに!・・・共感できるところではあるんですけれど、どうしても聞いてもらいたい話があるんです」
「無ぅー理ぃーだ!って言ってん・・・」
その時、突如聞いたことのあるメロディが室内に流れ始めた。
これは、アレだ。ゴーストバスターズのテーマソングだ
「はい九品寺」
気だるそうに九品寺さんが携帯に出る。何でゴーストバスターズ。
「え・・・あ・・ご無沙汰してます。・・・はい・・・はい・・え」
電話に出た瞬間、凍りついたような表情で九品寺さんがこちらを見ている。
そしておもむろに携帯をスピーカー通話にして、目の前のテーブルに置いた。
そして、一呼吸置いて声が聞こえ始めた。
「ヤッホー、初めまして。島崎 征一郎と申しまーす」
その名前に聞き覚えはなかったけれど、苗字が島崎ということはおそらく、いや間違いなく島崎 亜衣の6つ上のお兄さんその人だろう。
そして柔らかな語り口で話し続ける。
「最愛の妹に頼まれちゃってねー、ちょっと連絡したわけなんだけど。君が”17代目山本”の大地くんでいいのかな?」
「あ・・はい。初めまして」
流れるように話しかけられて戸惑ってしまったが、電話越しに挨拶を交わす。
「詳しいことは全然教えてくれないんだけどねー、何となく察しはつくんだけど。日ノ森高校で起こりうる不思議な出来事については、僕とそこの九品寺くんはナカナカの情報通だと自負してるんだー。ま、かつての主人公とサイドキックだしねー」
目の前の九品寺さんは、いつの間にかデスクチェアの上で正座していた。どちらがサイドキックなのだろうか・・・。
「とにかくねー、聞きたいことや手助けが欲しいことがあったら、目の前の"何でも屋さん"にお願いしなよー。料金は心配しなくていいよ、僕が持つから」
九品寺さんがビクリと震えたのを、僕は見てしまった。
「じゃあ、九品寺くん?料金は”未払いの利子”から払っておくから、くれぐれも、くれぐれも、よろしくねー」
そして、おそらくは恐怖に満ちていたであろう通話が終了したのであった。
暫く俯いたまま微動だにしなかった九品寺さんが、ポツリと呟く。
「・・・あのさ、さっきの島崎 亜衣さんというのは・・・」
「あ・・はい。先ほどの征一郎さんと兄妹・・・だと思います・・・」
ガバッと、九品寺さんは宙を仰いだ。
「小華ちゃんさぁ!!!」
涙を誘う、悲痛な雄叫びだった。
◇
九品寺さんが精神を立て直すのを待って、僕はようやく、一昨日の不知火さんとの出会いから昨日の事件までの顛末を相談できた。
「ああ・・・それか・・・」
話を全て聞いた後、煙草に火をつけながら九品寺さんが呟いた言葉を聞いて、僕は歓喜した。
「どういう現象か知ってるんですか!?というより、九品寺さんの時にも同じようなことが?」
九品寺さんは頭上に向かって煙を吐くと、僕を見て言った。
「知ってるよ。まぁ、日ノ森高校においては”山本の不思議”と同じような存在だわな。ただ、説明する前にひとつ聞いておこうか」
僕は身を乗り出すようにして、ゴクリと唾を飲んだ。
「君は・・・その不知火ちゃん?・・を、愛しちゃってるのかな?恋しちゃってるのかな?」
「は?」
不意にふざけた質問、しかしどこか核心を突かれた気分になる質問を受けて、毛穴がバッと開いた気がした。
「いや、そういうことじゃないですから!ただ僕は今回の超常現象から不知火さんを」
「いいから、いいから、そういうの。つーか何つうの?ただの話の枕だよ。ミステリーとサスペンスどっちが好み?くらいのテンションでさらっと答えりゃいいんだよ」
はいはい、といった風に手をヒラヒラさせている九品寺さんの様子に、正直苛立ちを覚えたが、相談に乗ってもらっている手前答えないわけにも行かなかった。
「まぁ・・・どっちか選ばなきゃならないなら・・・恋の方じゃないですか?」
「はいはいミステリーの方ね。かー、良いねぇ眩しいねぇうざったいねぇ。どう思いますか小華嬢」
「きもい」
テーブル横の段ボールに腰掛けていた小華ちゃんが、スマホをいじりながら即答した。
もうどうとでもしてくれという気分だった。
というより何で恋はミステリーの方なんだ。某小学生探偵は確か恋はスリル・ショック・サスペンスだと言っていたぞ。パラパラ踊りながら。
「じゃあ、説明しようか。と言っても俺だって全て把握しているわけじゃあないぜ?というより本当のところははっきり調べようがない話なんだ」
ようやく本題に入ってくれた話に、僕は真剣に聞く体制を整えた。
「俺らの代ではその現象を”その他生徒”と呼んでいた。解釈自体もお前の仮説でほぼ合っている。つまり『校門を出たら消えてしまい、そのことに本人は気づいていない生徒がいる』という話だ。この現象の味噌は『生徒がいる』って部分だ。つまり、消えること自体が現象の正体ではなく、消える生徒自体が現象なんだ」
突きつけられた真実に、僕は息を飲む。
「じゃあ、やっぱり・・・」
「あぁ、ファンタジーな物言いをすれば、不知火 美希は異世界人だ」
言葉も出ない僕を無視して、九品寺さんは語る。
「仮に俺らの世界を”現世界”、不知火 美希の世界を”異世界”と言おうか。お前も実感した通り校外における異世界は俺らの現世界とほとんど同じだ。ただ、住人は違う。現世界の人間は異世界にはいないし、異世界の人間は現世界にはいない。本来行き来することどころか、認識しあうこともできない別世界だ。しかし日ノ森高校においては、何故か異世界の住人が3年周期で1人、入学してくる」
「3年周期・・・」
それじゃまるで”山本”と同じじゃないか。
「同じようなもんだって言ったろ?」
僕の考えを見透かすように九品寺さんが言った。
「だけどもこんな”異世界留学”、もちろん無理がある。そこんところを誤魔化すように、異世界人には厄介なデメリットがあるのさ」
「デメリット?」
「現世界の人間と仲良くなれない。浮いちまうんだな。細かく言えば”キッカケ”を作れないんだ。学校で連れができるってのは、そうなるキッカケがあるだろ?話してみたら気があっただとか、一緒に何かする機会があるとか、そういうのが一切作れないわけだ。他の生徒からしたら、その子は卒業まで”その他の生徒”だ」
その時僕は、初めて彼女に会った音楽室を思い出していた。
夕暮れのオレンジに染まりながら、綺麗で寂しげなピアノソナタの音色を奏でる不知火 美希の姿を。
グランドピアノに向かう彼女を、寂しそうだと感じた理由が明確なものになった瞬間だった。
「そんなの、残酷だ」
放課後毎日のようにピアノを奏でても、あまつさえ目の前で消え去っても、誰にも興味を持ってもらえないなんてあまりにも残酷じゃないか。
「落ち込むなっての。ただまぁ、”山本”は別だがな。自分自身不思議な存在である”山本”は”その他生徒”の不思議の共有者であり共感者ってやつだ」
「本当ですか!?」
「本当ですかってお前・・・すでに仲良くなってんじゃん。恋しちゃってんじゃん。」
「う・・・」
呆れたように言われて、間抜けな質問であったことに初めて気がついた。
「それじゃあ、僕は結局どうすればいいんですか?」
「そんなんしらねぇよ。勝手にイチャラブしてればいいじゃん。不知火 美希本人に言う言わないも別に自由だし、しんどいなら仲良くする義務もねぇよ」
「分かりました」
九品寺さんの嫌味も意に介さず、僕は力強く答えた。
別に義務じゃなかろうが、僕は不知火さんと仲良くなりたい。
そもそも、仲良くなるのに義務感もクソもないじゃないか。
「まぁ、俺の言えることはこれくらいだわな。」
「ありがとうございました、九品寺さん。・・・あ、そう言えば、九品寺さんの時はどうだったんですか?それだけ知っているってことはその時も異世界の人がいて、相当調べられたんでしょ?」
「あ?まぁ・・・調べたは調べたが・・・ほとんど征一郎の手柄だったしな。それに俺ぁこんなんだからな。”その他生徒”には嫌われちまったよ」
そう言った九品寺さんはヘラヘラしていたが、僕にはなぜか少し寂しげに見えた気がした。
「日ノ森高校方面行き電車出発時刻1時30分」
小華ちゃんが唐突に言った情報でハッと気がついた。
ここに到着したのは昼前だったのに、現在時計は1時をとうに過ぎていた。
今からその電車に乗っても、大部分の授業はサボってしまった。島崎の鉄拳制裁を受けてしまいかねない。
「すみません!僕もう行きます!ありがとうございました!」
挨拶もそこそこに、僕は入ってきた時の段ボール山脈の掘削後へ入っていった。
扉を開ける前に、僕は振り返って”大概屋”九品寺さんに1つ尋ねた。
「九品寺さん、本当にアイドルのパンツは調達できないんですか?」
「いや出来ないよ」
九品寺さんはニヒルに笑う。
「主義に反する仕事は出来ねぇのさ」
3.僕と彼女の不思議な日々
日ノ森町一の変人”大概屋”こと九品寺 竜也と愉快な仲間たちとの邂逅を経て、日ノ森高校に戻った僕は、幸運にも自習であった6時限目を丸々使って一連の出来事と新情報を島崎に話して聞かせた。
ちなみに、想定以上の授業放棄に対する島崎の鉄拳制裁は幸運にも情状酌量が認められ、ボディへの右ストレートから鎖骨への手刀打ちに減刑されたが、致命傷には違いない。
「ふーん・・・」
最後まで聞き終えた島崎は、自分で情報の整理をしているのか、しばらく右手の人差し指で眉毛あたりを撫で付けながら黙っている。
話が突飛な上に僕の情報伝達スキルもたかが知れているため、さすがの島崎でも即座の判断はつかないのだろう。
「まぁ、にわかには信じられないわよね。でもまぁ、そういうことなんでしょうね。他には何か言ってなかったの?」
「え?・・・あー・・」
特に必要性を感じなかったから省いただけではあるのだが、九品寺さんが僕の不知火さんへの好意の有無に興味を示したことは話さなかった。だがこの様子だと、意識的に添削したことがバレているのかも知れない。全くもって恐ろしい。
「特に意味は無いだろうから省いたんだけど、『ミステリーとサスペンスはどっちが好き?』って聞かれたな。うん」
「・・・・」
煙に巻けるか・・・?僕も舌先三寸の魔術師になりたい気分だ・・・。
「・・・期待してたほどの人じゃなかったみたいね」
どうやらギリギリ誤魔化せたようだが、無駄に九品寺さんの評判を落としてしまったようだ。
「それで?そのこと、彼女には伝えるの?」
「・・・そうだな・・・。ショックなことだろうけど、伝えないわけにはいかないだろうな・・・。なんであれ事の真相を知らない方が不知火さんは怖いと思う。ただ・・・例の、”異世界留学生”特有のデメリットに関しては言わない方がいいかも知れない。」
「まぁ、知ったところで解決できそうにも無いものね」
「いや、それはそうでも無い」
「どういう事?」
訝しがる島崎を見据えて、僕は改まって島崎に話を切り出した。
「頼みたいことがあるんだ」
ホームルームも終わりを告げ、全校生徒が待ち望んだ放課後が訪れると僕は真っ先に音楽室へと向かった。
異様な早歩きをする”17代目山本”に、昨日と同じように周りの3年生はざわついていたが、不思議と全く気にならなかった。
やがてその喧騒も遠のき、廊下の先から心地よいメロディが聞こえ始める。
今日は昨日の『悲愴』とは違う曲のようだった。
僕はとりわけ音楽というものには疎いけれど、その透き通るような旋律は、教養や美意識なんていうものに捕らわれない美しさを持っていた。
音楽室の扉を開けると、まだ夕日になりきれていない窓からの光に目が眩んだ。
その光の先に、彼女は居た。
「あ、大地くん!来てくれたんだ」
「こんにちわ」
彼女は僕に気がつくと、演奏をやめて立ち上がる。
「あ、いいんです。続けてください」
彼女は『いいの?』と言った風な顔をしていたが、僕が頷くと、また席についてピアノを奏ではじめてくれた。
演奏の邪魔はしたくない。というのは建前で、もう少し聞いていたかっただけだった。
学のない僕の勝手な感想だけど、初めて聞いた彼女の演奏はとても寂しそうで、今にも泣き出してしまいそうな気持ちになった。
だけど今日の演奏は、寂しさはあってもどこか朗らかで、僕は勝手に、自分の行動が少しくらいは影響を与えてるのだろうか、という気持ちになって、嬉しかった。
再び鍵盤に向かった彼女は、最初こそぎこちない表情をしていたけれど、奏でるうちに音楽に浸るように、自然な笑顔を湛えはじめた。
やがて演奏が終わり、彼女が目を閉じたままほっと吐息をついたのを見届けて、僕は問いかける。
「なんていう曲なんですか?」
「ドビュッシーの、『月の光』っていう曲だよ」
本当に月みたいな綺麗な曲ですね。と言おうとして、恥ずかしくなって止めた。
◇
「不知火さん、聞いて欲しい話があるんです」
僕はそう切り出して、今日1日で得た情報を不知火さんに話した。
僕と不知火さんは住んでる世界が違うようなんです。という部分はもちろん切り出し辛く、僕は遠回りに遠回りを重ねながら、できうる限り傷つけないように話した、つもりだ。
それでもやはり、彼女は絶句し言葉を失っていた。
しかし、話す僕から目を逸らさず、唇をキツく結んで僕の言葉を受け止める彼女を見ていると、か弱く見えても実はとても芯の強い女性なのだと思い知らされた。
「大地くん・・・ありがとう」
そう言って笑う彼女のグレーの瞳は潤んではいたけれど、涙は流れていなかった。
「いえ・・・僕は・・。」
こんな時に掛ける言葉を見つけられない僕も大概だが、改めて僕は努めて明るい口調で話題を振った。
「・・・そうだ!そういえば不知火さんにお願いしたいことがあるんです。」
「私に?」
僕はポケットから携帯を取り出すと、島崎へとメールを送った。
それと同時に音楽室の扉の向こうから携帯の着信音が聞こえた。そしてそのすぐ後に扉を開けて島崎が入ってくる。
「あんまりメール遅いから先についちゃったわよ。なんの話してたの?」
島崎の自然な問いに一瞬『お前にも話しただろ』と言いかけて、島崎の意図に気がついた。
不知火さんにとっては、確かにあまり他の人には知られたくはない話だろう。
そう言う意味では、先に島崎に相談したのも不知火さんへの配慮に欠けていたかもしれない。
しかし島崎の助力無くしてこの情報は手に入らなかっただろうし、この先島崎の力は必要だ。
島崎の配慮の行き届いた声掛けに便乗する形で、僕は僕なりの”解決策”を実行した。
「いや、別になんでもないんだ。不知火さん、こいつは同じクラスの島崎。島崎、こちらは3年生の不知火さん」
「初めまして、不知火先輩。島崎 亜衣です。」
ポカンとやや間を置いて、不知火さんは顔を輝かせながら立ち上がり、後輩へにしては丁寧すぎる自己紹介をした。
「は・初めまして!3年4組の不知火 美希です!」
異世界留学生は現世界の人間と仲良くなる”キッカケ”を作れない。
それならば、不思議の”共有者”であり”共感者”である僕、17代目 山本がその”キッカケ”を作ればいい。
思惑の成功を確認した僕は、入学して初めて『山本に生まれてよかった』と、そう思ったのだった。
無事2人の顔合わせを終えて僕は、それではと本題に入った。
「それで、不知火さん。お願いというのは実はこの島崎からなんです。ご存知かもしれないんですけど、島崎はうちの高校の演劇部で・・・」
「はい!もちろん知ってます。『理想鏡のその先へ』とても感動しました!」
だいぶ食い気味に不知火さんが島崎へ賛辞の言葉を送ると、さすがの島崎も照れたようにどちらともなく視線を泳がせ戸惑っている。
どの高校にも、その学校を代表するような強豪部活動はあるかもしれないが、ここ日ノ森高校においては演劇部一強である。
それこそ校舎の側面には常にと言っていいほど『〇〇演劇コンクール優勝!!』だの『××公演決定!!』だのという垂れ幕が掛かっている。
そうとはつゆとも知らず友人に誘われるがままに入部し、ありとあらゆる格闘技で鍛えた身体能力と類稀なる演技の才能を見出され、1年にして主演舞台を踏んだのが9月に行われた文化祭でのことであった。
その時の演目が『理想鏡のその先へ』である。
「あ、やっぱりご存知でしたか・・・。褒められてよかったな、島崎」
「ありがとうございます、先輩。・・・ッ!」
島崎は、丁寧に不知火さんに礼を言ったかと思えば、ビタンッと僕の背中をはたいた。
本題を進めよということだろう。
「・・えー、でですね。うちの演劇部が今度の卒業式で特別公演をするそうなんですよ。それで・・・」
「ほんとですか!?すごく楽しみです」
不知火さんはかなり演劇部の舞台に感銘を受けていたようだ。元来の控えめな性格も吹っ飛んだように興味津々である。
終始不知火さんの感激に押され気味で話を進められていない僕を見かねて、島崎が後を引き継ぐ。
「ありがとうございます。それで、今度の舞台でピアノの演奏を組み込む演出を考えてまして、そこに山本くんから不知火先輩の話を聞いたものですから、もしよろしければご協力をと思いまして。卒業生に贈る舞台なのに、卒業生の不知火先輩に頼むのもどうかとは思ったんですが」
「舞台の中で・・・私のピアノをですか?私でいいんでしょうか・・・」
不安の色を隠せずにいる不知火さんの背を、さりげなく押すように島崎は続ける。
「ええ。出ると言ってももちろん演技は必要ないですし、ラストシーンから幕が降りるまでのエンディングで弾いていただければ、出番もその部分だけです。それにこれは他にやれる人がいないから、ということでのお願いではありません。より良い舞台にしたくて、先輩に頼んでるんです。」
お願いします。と、改めて頭を下げる島崎の様子は、モジモジと決断できずにいた不知火さんに、一つの覚悟を固めさせるのに成功したようだ。
「・・・分かりました。私のピアノでよろしければ、手伝わせてください」
やがて、不知火さんはそう答えてくれた。
「ありがとうございます。今日、簡単なあらすじとお願いしたい曲のCDを持ってきました」
そう言うと島崎は、持っていた紙袋からクリップで留めた数枚の用紙とCDを取り出した。この短い時間でよく用意してくれたものだ、と僕は島崎に感謝した。
「あ、これ俺も知ってるな。J-POPじゃないか」
「そうよ。劇中に登場する曲というわけじゃないけど、舞台の最後を飾るエンディング曲みたいな位置付けだから。一応ピアノの楽譜も用意しておきました。先輩はクラシックを弾かれると聞いてましたが、大丈夫でしょうか?」
「はい。練習すればできると思います。頑張りますね」
「よろしくお願いします」
受け取ったCDを眺めながら、何か思いを馳せているような優しい顔で、不知火さんは呟いた。
「奏・・・。私も大好きな曲です」
不知火さんの了承を得て、僕はホッとした。
「それと、大地。あんたにもしてもらうことがあるわよ」
「へ?」
不意に、島崎から事前の打ち合わせになかったことを言われ、僕は間抜けな声を出す。
「当たり前でしょ。不知火先輩にだけ仕事をさせといて、紹介したあんたが何もしないなんておかしいじゃない」
「う・・そ・そうか・・・。でも、俺に何ができる?自慢じゃないが演技も楽器も何一つできやしないぞ」
本当に自慢じゃないが、僕に何か手伝えるものがあるとは思えないのだが。
そんな情けない僕に呆れるように島崎は話す。
「あんたならある程度はできると思うから頼むのよ。あらすじを読んでもらえばわかるけど、ラストシーンは主人公が遠くに暮らすヒロインを想って、描き続けていた肖像画が完成するシーンなのよ。あんたにはその肖像画を描いてもらうわ」
「肖像画!?無茶言うなよ!絵なんて授業くらいでしか描いたことないんだぞ、俺は」
「その絵なら私見たことあるもの。中々のものだったわよ?それに舞台セットだから遠目に肖像画だとわかれば十分なのよ」
「おいおい・・・」
そんな短絡的な考えでいいのだろうか?全校生徒の前に自作の絵が晒されるというのは恐怖以外の何物でもないのだが・・。
「ヒロインの雰囲気は不知火先輩に似ているから、不知火先輩の練習に付き合いながら描いてもらえばいいわ。あんたが1番適役なのよ」
「私がモデルなんですか!?」
不知火さんが、島崎の唐突な提案に驚きの声を上げる。
「大丈夫ですよ。・・・いい絵になるはずだもの」
島崎の呟いた根拠の在り処がわからない言葉に、とてつもないプレッシャーを背負った気分になるものの、まぁ島崎の見立てならばと、わずかな自信が湧くのはなぜだろう?
「では、部活があるので失礼しますね。よろしくお願いします」
用件を伝え終わった島崎はそう言い頭を下げると、出口へと向かう。
「あ、ちょっとまった。不知火さん、ちょっと行って戻ってきますんで、いいですか?」
そう訪ねた僕の言葉に、不知火さんが慌てて首を縦に振るのを確認して、島崎の後を追う。
廊下に出て小走りで島崎の背中に追いつくと、僕は改めて礼を言った。
「無理言って悪かったな、島崎」
「無理なんかじゃないわ。ピアノの上手な人が必要だったのは本当だもの。ま、肖像画はちょっと無理があったけどね」
島崎はフフッとわざとらしく笑うと、僕の肩をポンと叩く。
「彼女のそばにいるいい口実でしょ?」
「お前な・・・」
回しに回しすぎて面食らった気遣いだったが、・・まぁ、ありがとうの言葉しかない。言わないけれど。
「こちらの完成度が仕上がってきたら、合同練習も何回かするから、その時はまた言うわ」
「おう、よろしく頼むな」
こうして僕の作った”キッカケ”から交流の輪が広がれば、今できる限りの”デメリット”対策としては上等だろう。
僕は音楽室へと踵を返し、不知火さんの奏でる『奏』の音色に想いを馳せた。
◇
こうして、卒業式公演に向けた、僕と不知火さんの放課後練習の日々は始まったわけだけれど、不知火さんの演奏の方は、1度目から僕の聞く限り完璧だったし問題は無いように感じた。
しかし不知火さん本人としては満足出来ないようで、あとはクオリティを上げる練習だった。
つまるところ問題は僕の肖像画の方なわけで、別段大した知識やテクニックの持ち合わせのない僕は、専門書籍やインターネットで慣れない勉強をしつつ、あとはひたすら練習も兼ねて枚数を描き続けた。
放課後の2人での作業が日常になって、既に1ヶ月と少し経ち、12月に入っていた。
「肖像画って・・島崎のやつは随分気軽に言ってくれたが、相当難しいぞ・・・」
美術室から失敬した三脚イーゼルに立てかけたキャンバスに、悪戦苦闘しながら僕は情けない弱音を漏らす。
「私も・・全然慣れない・・。すごく恥ずかしいよ・・・」
最近はもっぱら僕の絵にかける時間が多くなり、まっすぐこちらに向かって座ってくれている不知火さんは、消え入りそうな声で呻いた。
「すいません、僕の方にばかり時間割いてもらって・・・」
「ううん、それは全然いいの」
恥ずかしそうに顔の前で両手を振る彼女は、絵のモデルにしては動きすぎている自覚は無いようだけれど、そんなことを指摘する僕では無い。
むしろイイとさえ思っている。
「演劇部の方もだいぶ大詰めに入っているみたいで、もうそろそろ体育館で合同練習しようって話ですよ」
止まってしまっていた筆を慌てて動かしながら、僕はなんとなしに報告した。
「・・・?不知火さん?」
返事が無いことに気づいた僕は、キャンパス越しに不知火さんを覗き込む。
絵のモデルを務めている最中の彼女は、なんとも言えない顔で俯いてしまっている。
「・・ちょっとね、不安で」
「いやぁ、不知火さんの『奏』、もう僕には完璧に聞こえますよ」
「・・・・」
少しの沈黙の後、不知火さんはポツリと呟いた。
「今度の舞台、3年生も希望者は何人か、参加するって話だったでしょ?」
「あぁ、この前確かそんなこと島崎が言ってましたね」
「・・・・」
不知火さんが、さらに浮かない顔をする。
「うちのクラスの、小沢さんって言う子も参加するらしいんだけど、お話ししたことないから・・・ちょっと不安で」
「え・・・」
話したことが無い?不知火さんがピアノ演奏を務めることは、1ヶ月前には演劇部全員に周知してあるはずなのだが・・・
それでも話をしていないなんて、そんなことがあり得るのだろうか?
”異世界人は現世界の人間と仲良くなれない”
15代目山本、九品寺さんから聞いた、異世界留学生の背負う残酷なデメリット。
不知火さんと島崎が知り合う”キッカケ”を作れたことで、完全では無いにしろ緩和できたと考えていた。
僕は、その重さを、厳格さを、あまりにも軽く解釈していたのかもしれない。
そんなことに、そんな大事なことに、今更になって僕は気がついた。
◇
「・・・大地?こら、大地!」
「・・・んぁ?」
始業には時間のある、人もまだまばらな朝の教室。
不意に意識のうちに入ってきた声に、僕は曖昧な返事を返す。
「・・・んぁ?じゃ無いわよ。あんた最近、毎日朝早すぎじゃないの?」
覗き込んでくる島崎の眉間にはわずかにシワが寄っていたけど、怒りではなく、まぁ心配から刻まれたものだとは理解できた。
「おぉ・・・おはよう。いや、最近寒くて目が冴えてるんだよな。朝の空気も澄んでて気持ちがいいんだ」
「・・・何よ、それ・・・」
僕のごまかしの言葉はやはり、と言うか当たり前に見透かされ、ますます心配を募らせてしまったようだった。
正直に言えば、あの日。
不知火さんが背負う異世界人としての特質の、予想を超える強力さに僕は恐れを抱いていた。
事情を知ったあの日から毎日、放課後を音楽室で共に過ごし、日が沈み始めると僕は不知火さんを送り届けるのが日課になっていた。
最初の頃、校門から外に踏み出す時、隣の不知火さんは小さく震える体を必死に抑え恐怖と戦っていた。
しかし最近は、正直僕の方が怯えているだろう。
僕は、異世界との境界である校門を、常に開け放たれた通用口のように思っていたのかもしれない。
あの先の、彼女の世界に帰っていく不知火さんの背中を見るたび、これが最後にならない保証は無いことに、震えてしまいそうになる僕がいるのだ。
そしてここ数日、僕は7時には校門を影から覗き込み、不知火さんの無事を確認して胸を撫で下ろす朝を繰り返していた。
「何かあったんでしょ」
「何かって・・・何がだよ」
島崎の顔から視線を外した僕は、島崎の手がきつく握り込まれているのを見てしまった。
(悪い・・・。だけど、口にも出したく無いんだ・・)
「・・・・・」
黙り続ける僕と島崎の間には、どうしようもなく痛い沈黙が流れていた。
僕は耐えかねて、声の調子を上げて沈黙をかき消す。
「そういや、今日合同練習だったよな?不知火さんにも伝えといたよ」
「・・・そうだけど・・でも」
「いや、マジでなんでも無いって!ちょっと、不知火さんももうすぐ卒業しちゃうんだよなぁ、って思っちゃっただけなんだよ。あ、不知火さんの演奏、この前お前が様子見に来た時よりまたスゴくなってるぞ」
一拍おいて、島崎も声のトーンを通常運転に戻す。
「そう、まぁ不知火先輩の演奏は最初から心配してないわ。問題はあんたの絵だけどね」
「さいですか・・・」
大袈裟にため息をつく僕に『じゃ、今日よろしく』と手を振って自分の席に着く島崎に、心の中でありがとうを言って、僕はまた大袈裟に欠伸をした。
頭では、卒業したら僕と不知火さんの関係はどうなるのだろう、という不安が、また大きくなって蠢き始めていた。
◇
「じゃあ、行きましょうか。不知火さん」
「・・・うん」
放課後、音楽室で一旦合流した僕と不知火さんは、『奏』の楽譜や僕の拙い未完成の肖像画を持って体育館へ行く準備を整えた。
未だ不安そうな表情の不知火さんを見て、励まそうと僕は下手くそな激励を送る。
「大丈夫ですよ、不知火さん。嫌われているわけじゃあるまいし、演奏を聴いたらきっとその人も驚きますよ」
「え?・・あ、そうじゃなくて・・・」
グッと何か言いよどんで、意を決したように不知火さんが僕の近くへ、少しだけ駆け寄った。
「大地くん、最近顔色悪いよ。余計な心配かけちゃってごめんね・・・私は大丈夫だよ」
「え・・・」
島崎だけじゃなく、控えめな不知火さんにまで、ここまで心配をかけるほど僕には余裕が無くなっていたのか。
なんて情けないのだろう。
僕の抱いている不安なんて、不知火さんのものに比べればなんていうこともないのに・・・。
バシン!と右の頬を自分で張った。
「すいません!柄にも無くグジグジ考えてました!・・もう大丈夫です。行きましょう!」
「・・はい!」
安心したような表情の不知火さんを見て、僕の決心は固まった。
異世界?デメリット?知ったこっちゃない。
僕は今から、大いに不知火さんの演奏を見せびらかして、大いに下手っぴな絵を笑われに行こうじゃないか。
音楽室の扉を開けて、僕は一歩を踏み出した。
音楽室のある校舎から体育館までは特別距離が遠いわけではないのだけど、それなりの大きさであるイーゼルとキャンバスを抱えての移動は、部活動経験の全く無い僕の貧弱な両腕には荷が勝ちすぎているようだった。
ムググッと唸りを漏らしながらヨタヨタ歩く僕の姿は、お世辞にも頼り甲斐なんてものはなかっただろうが、先ほどより緊張の解けた様子で僕の行先のサポートをしてくれている不知火さんの様子は、先ほどまでの鬱々とした気分を軽くしてくれるものだった。
今から行く体育館で、不知火さんと演劇部の交流の”キッカケ”を作る。
それが僕の役目だと再認識した今の僕には、それは何よりの手助けとなった。
「本当に手を貸さなくても大丈夫?キャンバスだけでも持つよ」
「いえいえ!このくらい大丈夫ですよ。何より不知火さんが手を切ったりなんかしたら、舞台にとっても痛手ですし島崎の鉄拳に晒されるだろう僕の身にとっても痛手ですから」
「鉄拳って・・・島崎さんはそんなことしないよ?」
いえ、不知火さん。鉄拳はまだ優しい想定なんですよ。本当に怖いのは、強靭な脚力による蹴り技なのです。
とはさすがに言えないな、と僕は気をつける。
なんだかんだ言っても、今回島崎には多分に助けられている。
当分足を向けては眠れない。
頭の中で島崎に最敬礼をしていると、やがて体育館の大きな扉の前に着いた。
「よし、じゃあ行きますか」
「・・うん!」
重い引き戸を開けると、ステージ上では演劇部がストレッチをしていた。
僕はやや大きめの声で、舞台上の島崎に声をかける。
「おーい!島崎、着いたぞ!ちょっとお前の腕力を貸してくれ!」
「腕力って言うな!手を貸してと言え!」
見事な体捌きでステージから飛び降りると、こちらへ島崎が駆け寄る。
「お疲れ様です、不知火先輩!わざわざありがとうございます。楽譜持ちます」
「こ・こんにちは、島崎さん!ありがとう。でも・・・大地くんの方が大変だから、助けてあげて?」
「いいんですよ、どうせこっちは未完成なんですから」
「おいこら」
わかったわよ。と、腕力・・手を貸してくれた島崎は、「ようやくまともな顔になったわね」とこちらに小さく笑いかける。
それに僕は、「おう」と短く返事と笑みを返した。
舞台の方へ行くと、全員舞台から降り集合しており、その中から一人3年生らしき人が進み出た。
「2人とも初めましてだね。私は部長の月出と言います。よろしくね。今回は、参加してもらえて助かったわ。全員、礼!」
「よろしくお願いします!」
さすが校内随一の本格派部活動だ。もはや体育会系の統率である。
この部長さんは不知火さんのクラスの人ではないみたいだが・・・。
「あれ?不知火さん?同じクラスよね?」
部長の背後からずいっと顔を出した短髪の女子生徒。サバサバとした雰囲気だが、この人が小沢先輩だろうか。
「演奏協力って不知火さんだったんだ!知らなかったよ!」
「小沢・・そう決まった時に全体周知しただろう・・全く」
「え!うそ?・・・そう・・だよね。あれ?」
何か腑に落ちないような、狐につままれたような表情を浮かべる小沢先輩を見て、デメリットの脅威を見たようで・・・少しゾッとした。
不知火さんも、苦笑いを浮かべるだけで返事を返せずにいる。
ここだ。
大した取り柄も意味もない”17代目山本”の存在意義は、まさにこのためのものだったんだ。
不思議の”共有者”、そして”共感者”。それは僕だけなのだから。
「みなさん、お世話になります!肖像画担当、山本 大地です!」
山本の名を聞いた途端、周りがざわざわし始める。
「そしてこちらが、ピアノ演奏担当、不知火 美希さんです!・・・不知火さん」
無理矢理に注目を集め、不知火さんに続きを促した。
僕と目があった不知火さんは、一瞬躊躇したが、自分を奮い立たせるように、声を絞り出す。
「・・・し・不知火 美希です!ピアノの演奏をさせていただきます!・・・少し・・いや、えっと・・ものすごく緊張してますが、みなさんの素晴らしい舞台の力になれるように・・頑張りますので・・・よろしく・・よろしくお願いします!」
そう言い終わると、深々と頭を下げる。
不知火さんの精一杯の自己紹介。大人しそうな見かけに反した、大きめの自己紹介に一瞬静まり返る。
「よろしくね!不知火ちゃん!いい舞台にしよう!」
小沢先輩が、ニカっと笑ってくれた。
「よろしくお願いします!!」
それに続くように、演劇部の全員が挨拶を返してくれた。
顔を上げた不知火さんは、とても嬉しそうに笑ってくれた。
当日さながらに舞台を使った全体練習。
いざ始まってみると、さすがは全国区の演劇部・・・。と、思わず息を呑む迫力だった。
僕らは出番に備えてというか、まぁ僕には出番はないのだけれど・・・舞台袖の小さな小部屋から、横から覗き見る形で控えていた。
僕なんかは、厳しいゲキも飛び交うその雰囲気に飲まれてしまって、やや引き気味に覗き見るくらいが関の山だったのだけど、不知火さんは意外にも、むしろ食い入るように覗き込み目を輝かせていた。
ちょうど舞台上では島崎演じる主人公が、ヒロインとの切ないラブシーンを演じている。
というより、あいつ男役なのか。
「島崎さん、『理想鏡のその先へ』の時もカッコよかったけど、ああいう影のある役も、カッコいいよねぇ・・・」
不知火さんがややウットリとした声を漏らす。やや頬も紅く染まっているような気がするんだが・・・。
普段の不知火さんの、島崎に対する尊敬するような接し方からも感じてはいたのだが、相当の島崎ファンなのかもしれない。
確かに舞台上の島崎は、男以上に男前だが、当たり前だ。
あんなに完璧な男なぞ、現実にはいやしない。
やがて舞台もクライマックスに突入し、不知火さんが舞台袖に設置されたピアノに向かうタイミングが近づく。
そこまで目立つ位置ではないにしろ、そこも舞台上には違いない。
あらすじを読む限り、不知火さんに役などがついているわけではないのだが、演出として当日は不知火さんも演劇部特製のシックなドレスに身を包み、短くもさながら演奏会のような形になるらしい。
島崎に僕が相談した目的は、できる限りたくさんの人に不知火さんを認識してほしい。といった内容だったからか、不知火さんの参加が決まってからも、島崎は随分骨を折ってくれたのだろう。
そのことを最初に聞いた時の不知火さんの狼狽ぶりは、なかなかに見事で、僕はその時のことを思い出してクスッとはにかんでしまった。
「大地くん」
不意に声をかけられて、意地悪な理由で笑ってしまったことがバレたのかと一瞬焦った。
「大地くんと島崎さんには・・・とても感謝しているの。・・・日ノ森高校に入学して、こんなに笑ったり、頑張ったり・・・落ち込んだり。感情や気持ちが踊るようなこと、初めてだった」
カーテンで仕切られて薄暗い部屋で、舞台を見つめている不知火さんの表情は僕にはわからなかったけれど、僕の目と、耳は、彼女の声と、薄明かりに光る髪の揺らめきだけを捉えていた。
「大地くんが、毎日の帰り道で話してくれるいろんなお話や、音楽室での時間とか・・・本当に、初めての経験だったんだ。今日だって、小沢さんと仲良くなれた。人の中にいる自分を感じられて・・とても温かい気持ちになれる」
ふと蘇るように、不知火さんと出会った日を思い出す。
誰もいない夕方の音楽室で、自分の存在を訴えるような『悲愴』の音色を聞いたあの日を。
やがて彼女の出番が来て、舞台へ続く階段を上る彼女の後ろ姿が、なぜか校門の先に消えていく彼女の姿に重なった。
「行ってくるね」
彼女は振り返って、優しく微笑んだ。
ステージに進み出た不知火さんは、打ち合わせ通りにピアノの席に着き、主人公である島崎の最後の台詞を待つ。
島崎はステージ中央で椅子に座り、描きかけの肖像画に向かって語り始める。
『遠くへ行ってしまった君のことを、もうこの街の誰もが忘れてしまっただろう。ただ、私一人が君を覚えている。君が目の前に居なくとも、君の笑顔を描けるほどに。それが私にただ一つ残された誇りなのです。』
舞台がシンと静まり返り、ピアノの音色が柔らかに響き始める。
主人公を照らす光が淡く暖かな色に変わり、音と色以外のものが滲んで消えていくように、舞台の中の世界へと吸い込まれていく。
今日まで毎日触れていたそのメロディは、僕だけが知っていたものだった。
それが今、この場にいる人達の心に入り込んだ瞬間を、僕は確かに見た。
『奏』のメロディが終わりにたどり着き、舞台はまた静寂に包まれた。
「すごい・・・」
月出部長の、思わず出てしまったという風の感嘆の言葉を聞いて、その場の全員が大きな歓声を上げた。
「すごい!すごいよ不知火さん!!鳥肌立った!!」
すっかりテンションの上限を振り切った小沢さんが、ピアノの前で放心している不知火さんに駆け寄る。
それに釣られるように、他の部員達も集まり、口々に不知火さんを讃えていた。
僕はなんだか、その光景に面食らってしまって駆け寄るタイミングを逸してしまった。
舞台横の小部屋の入り口で、ぽけっとその光景を眺めていると、島崎が近寄って来て
「とんでもなく強烈な”キッカケ”を作ったもんね、17代目」
「・・バーカ、俺じゃねぇよ」
島崎の暖かい軽口に、僕の顔は思わずほころんだ。
「不知火さんの力だよ」
僕は心から、そう思った。
無事に全体練習も終わり、僕と不知火さんと島崎が体育館を出た時には、空はすっかり夕空とは呼べないほどに暗くなってしまっていた。
「うわ、ほんと日が短いよなぁ・・・。最近絵を描く時間減って来てるし・・・間に合わなかったらやばいよな」
「当たり前でしょ。不知火さんが完璧に仕上げてるのに、あんたが間に合わなかったらタダじゃおかないからね」
思わず出た弱音に早速島崎の釘が打ち込まれ、僕は条件反射で『はいっ』と小さな悲鳴をあげる。
「私だったら何時でも付き合うよ」
不知火さんの優しい気遣いが心に沁み入る・・・。
「ダメですよ、不知火先輩。いくらこいつが送るにしたって、そもそも護衛にもならないんですから危険です」
「あはは」
楽しげに笑う不知火さん。・・・否定しないな。
校門近くに差し掛かった頃、島崎があっ・と声を出して、ポケットに手を入れる。
「すいません、家の鍵忘れて来ちゃったみたいです。ちょっと戻りますね」
「え!じゃあ、一緒について行くよ」
「いえ、タダでさえ暗くなってますし、頼りないそいつがお供で申し訳ありませんが、お先に帰られてください」
「え・・でも」
「じゃあ、また明日も全体練習なので、よろしくお願いしますね。お疲れ様でした」
そう言って足早に体育館へ引き返す島崎の背中を見送って、ようやくその真意に気がついた。
校門を出た後に僕達が向かうのは、不知火さんの家。つまり”現世界”における島崎の家だ。
確かに一緒に帰ったらややこしい事態になりかねない。
いや、実際は不知火さんと、部分的にでも異世界を”共有”できるのは僕だけだから、校外で不知火さんに島崎の姿が見えるかはわからないのだけど、試すのも恐ろしいし、島崎の姿が消えるところを不知火さんが見れば確実にショックを受けるだろう。
そこまで見越して離脱した島崎は見事としか言えない。
「まぁ、なら先行きましょう。不知火さん」
「え?・・うん。大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。相手が何かしらのタイトルホルダーじゃない限り、大丈夫です」
不知火さんが少し厳しい表情をする。
「大地くん。女の子にそんなこと言っちゃダメだよ。島崎さん繊細な人なのに」
イエそんなことは・・・と言いかけて止めておいた。
不知火さんが怒るのを初めて見たし、僕も島崎には大恩ある身である。
確かに失言だった。
「そうですね・・・すいません。ちょっと考えが足らなかったです。あんなイイやつ、滅多にいないですし」
「うん。本当に二人って、なんだかヒーローとその相棒って感じがして良いもんね」
・・どちらが相棒側なのかは、聞かないでおこう。
その時、校門横の茂みから『ぶふっ』と含んだ笑い声が聞こえた。
「な・・!だ・誰だそこにいるの!?」
反射的に僕は身構え声を張る。
「待った待った!でかい声出すな!俺だよ俺!」
茂みから転がり出て来たのは、怪しげなトレンチコートを着た不審者だった。
その顔には見覚えがあったが、呼び方は不審者のままで問題ない。
「・・九品寺さん・・・。どうしたんですか・・?いくら卒業生でも、あなたなら捕まりますよ」
「あなたならってなんだよ!この格好だったら・・だろうが!間違えんなコラ!!」
イエ、間違ってないです。すっかり不知火さんも怯えて僕の後ろに隠れてしまった。
「いやいやいや、依頼人との待ち合わせ場所が近くてね。ちょっと通りかかっただけなんだ」
「通りかかったじゃなく校内入っちゃってんじゃないですか・・・」
「・・・細かいんだよ、君は。小華ちゃんじゃあるまいに」
小学生にいつも細かいことを言われている九品寺さんが、ため息をつく。
「あ、そうだ。九品寺さん、こちらは不知火 美季さん。不知火さん、この人はウチのOBの九品寺さんです」
「・・・・こんにちわ・・・」
不知火さんがおずおずと挨拶をする。
しかし九品寺さんの方は、なんとも言えぬ表情で居心地悪そうに佇んでいる。
「・・・・君が、か・・・」
そう呟いてしばらく黙り込んでしまった九品寺さんは、たっぷりと間を置いて、不知火さんに唐突な質問を投げかけた。
「・・・不知火・・春香という名に聞き覚えは無いかな」
「・・不知火春香さん・・ですか?」
九品寺さんの口から出た名前を聞いて、すぐに察しがついた。
九品寺さんが在学中、つまり”15代目山本”であった時にこの学校にいた”異世界留学生”その人の名前だろう。
「不知火・・?不知火さんのご家族なんですか?」
「うん・・・。従姉妹のお姉さんが春香さんだけど・・」
「従姉妹・・・」
九品寺さんがまたポツリと呟いた。
「いやぁー、スマンスマン。どことなく春香さんに似てたもんだからな。そうか、従姉妹ね・・・通りで。・・あ、時間とらせて悪かったね。本当は山本に渡しとくもんがあって持って来てたんだよ。ほら」
そう言って一冊の本をこちらに放る。
「『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』・・・って、なんですかこれ?」
「良いんだよ。礼はいらんし代金もいらん。とっとけ」
たいしてこの人と付き合いも長くないが、これはお得意の舌先三寸の一つだな、とすぐにわかる。
「深く考えるな!俺も特に考えとらん!」
「・・・えっと、これで要件は終わりですか?もう暗いんで帰らなきゃならないんですが・・・」
「おお!そうか。じゃあ、俺も依頼人のとこに行こうかね」
そう言って校門の方を振り向いた九品寺さんが、そのままの体勢で不知火さんに問いかける。
「あいつは・・・春香は、元気にしてるかな」
不知火さんが答えを返す。
「はい・・。よく会いますけど、元気ですよ」
「・・・そっか。じゃあよろしく伝えといてくれな!さらばだ後輩若輩達よ!!」
そう言って颯爽と歩いていく九品寺さんは、いつかの時のように、寂しそうに僕には見えた。
「だけど・・・不知火さんに従姉妹のお姉さんがいたって、初耳でした。実は僕も従姉妹がいるんですよ。というより今はその人んちに居候してまして」
「そうなの?」
「えぇ。こっちに引っ越す前は父親と暮らしてたんですが、高校入学のタイミングで」
そこまで言って、僕は少し後悔した。
この話をすると、大抵の人は複雑な家庭環境を連想するようで、なんだかバツの悪いような空気になってしまうのが常だった。
不知火さんも何か考え込んでいる。
「あぁ、別に大した理由はないですよ?親父の海外赴任について行きたくなかっただけで・・・」
「あ、ううん!そうじゃなくて・・さっきの人・・・」
不知火さんの視線は九品寺さんが去っていった方角に向いていた。
「あー・・・。あの人はただのOBではないというか・・・”15代目”の山本だった人なんですよ。もしかしたらその当時に不知火さんの世界から入学していたのが、その”春香さん”だったんではないでしょうか」
「春香お姉ちゃんが・・・」
そう呟いて、また不知火さんは考え込む。
少しばかりデリケートな話題のように感じて、僕は慌てて話題を変える。
「そういえば・・もうすぐ終業式ですが、冬休みは何かされるんですか?」
「冬休み?」
我が日ノ森高校では12月24日に終業式を行い、その日の午後にはそれも終わって冬休み突入となるわけで、色恋に忙しい高校生カップルには良心的なスケジュールとなっている。
ここで僕は、先ほどの僕の話題変換を目的とした質問が、奇しくもクリスマス・イブの予定を聞いているようにも受け取れることに気づいた。
その自爆にも似た自己解釈に一人で勝手に苦しんでいると、不知火さんはいたって普通に答えた。
「そうだなぁ・・・普段からお休みの日は家にいることが多くて、特にこれといった予定は無いかな。大地くんは?肖像画の続き、お家で進めたりするの?」
「いや、さすがにあのサイズのキャンバスは持っていけないですね・・」
特に関係は無いが、島崎に3秒でノされる僕は、従姉妹には8秒でノされる自信がある。
「けど、確かに肖像画は進めとかないと本当に間に合うか危うくなりますね・・・。最初の2、3日くらいは登校して進めておきますよ」
「それなら私も付き合うよ!せっかくモデルにしてもらってるんだし、私も演奏の練習まだまだ足りないから」
「えぇえ!?」
その提案に、僕は隠しきれないほど動揺してしまった。
最初の2、3日。つまりはその中に、クリスマスも含まれるではないか。
僕の目を見張るばかりの驚きように、少し間を置いて不知火さんも理由に思い至る。
「あ!いや、えっと・・・私は・・その・・特に行事とかには疎くて、今まで意識したこともなかったから・・」
「いやいや!僕もですよ。全然縁遠いイベントですから・・・特別な用事が入ったことなんかも無いですし!そんな意識することもないかなぁ・・と」
「そ・そうだよね・・・」
気まずい沈黙・・・。いたたまれないが、不知火さんとクリスマスを過ごせるというのは、なんとも魅力的な話だ。
「不知火さんさえよろしければ・・・モデルになってもらえると、嬉しいです・・・ね」
「・・・うん」
小さくも、確かに了解の返事をくれた。
青臭いと思われるだろうが、僕は飛び上がってしまうかというほど嬉しかった。
今日の放課後まで僕の抱えていた不安などは跡形もなく吹き飛び、来たるクリスマスの音楽室に想いを馳せた。
しかし、結局この約束が果たされることは無かった。
4.俺とアイツと彼の本当
1月1日。つまりは元旦。
街は新しい年の幕開けと、収穫したお年玉を携えた若い消費者連中で賑わいを見せているだろう。
しかしそんな喜びに満ちた喧騒も、遠く離れた高校の音楽室には届かない。
それは別に、壁に開けられた無数の穴のせいでもなければ、校内に僕以外、誰一人居ないせいでもないだろう。
僕が初めて”悲愴”を聞いたあの日から、この空間はいつも優しいピアノの音が流れていたから、そのギャップで一際静かに感じるせいだ。
唯一微かな音を発していた手元の絵筆をバケツに落とし、改めて目の前の肖像画を眺める。
最初の合同練習の時には表情もはっきりしていなかったソレは、幾分か見れる出来栄えになってきたけれど、そんなことはどうでもよかった。
「どうやって入ったのよ」
出口の方から、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「いつも窓の鍵閉めずに帰ってんだよ」
「それ、不法侵入」
僕はめんどくささを隠さずにため息をつく。
「ならお前も共犯だ。見逃してくれ」
「私は違うわよ。ちゃんと許可取ったもの」
なんて言えば元旦にそんな許可取れるんだ。
「お前はホント凄いよな」
「茶化さなくていいから。不安なことがあるなら言いなよ」
「なんもないって・・・」
黙って僕の弱音を待つ島崎に、去年のクリスマスから練りに練っていた推測を吐く。
「不知火さんのことか?なんかのっぴきならない事情があったんだろ。俺も迂闊だったんだよ、連絡先交換してなかったし、というより携帯持ってなかったんじゃないかな?触ってるところ見たことなかったし。約束も最初の2、3日だったから、それまでに顔出せなくて、始業式の時にでも理由は教えてくれると思うよ」
「なら、なんで毎日あんたココにいるの?」
「いや、肖像画・・・」
「学校始まってからでも間に合うじゃない。モデルがいないんじゃ描き辛いでしょ」
「そんな変わんないって・・・。てか、怖いよ・・なんか尋問みたいになってるよ?」
おどけた調子で答えても、島崎は表情を緩めない。
「あんたさ・・・もうやめなよ。誤魔化すの」
「・・・・・」
島崎の言いたいことは、なんとなくわかっている。
全ては推測で、なんの根拠も無いけれど。
いつか九品寺さんが言っていた通りだ。
『本当のところははっきり調べようがない話』なのだから。
「推測の憶測のあてずっぽうの話をするのか?お前らしくないぞ」
「私らしいってなによ。・・なんでもいいから、あんたの考えを言って」
島崎は、人にも自分にも厳しい。というわけではない。
自分にはとてつもなく厳しいが、人にはそれを求めたりしない。
厳しいことを言っているようで、基本的には他を思いやる奴だ。
そんな島崎にここまで言わせる奴は、現実逃避が過ぎた大馬鹿野郎だけだと、僕はよくわかってる。
「・・・直感だ、今から話すのは。」
そう前置きをして話す。言い訳がましく。
「異世界留学生は・・・不知火さんは、学校のあっている時しか”こちら”に来られない。九品寺さんの様子から察するに、今九品寺さんは春香さん、当時の異世界留学生には会いたくても会えない状態だと思う。それは・・・だから、卒業してしまって学校に行く理由がないからだ」
「・・・・」
「・・・・だから・・・」
推測で、憶測で、なんの確証も無い。
だけどおそらく本当のことだ。
「卒業したら、不知火さんにはもう会えない」
「・・大地・・・」
「いいだろ、もう」
僕は堪らず、画材もそのままに島崎の横を抜け音楽室を出る。
その時視界の端に捉えた島崎の表情は、今まで見たことのないほど苦しげで、僕は小さく「ごめん」と言って、校舎の外へと向かった。
逃げるように学校を後にした僕は、特にあてもなく歩き続けた。
一瞬不知火さんとの登下校を思い出し、ダメ元で訪ねてみようかとも思ったが、そもそもこちらの世界では島崎の家であることはわかりきっている。
今まで何度も通った下校の道を逸れ、ぼんやりと歩き続ける。
やがて賑やかな街の雑踏に入り込み、それでもただただ歩いていると、気づけば古ぼけた小ビルの前にいた。
思えばあれきり1度も訪れていなかったビルを見上げると、ちょうど3階部分の窓が開いているのが目に入った。
そこからはちょこんと小華ちゃんの顔が出ていて、相変わらずのクールな表情でシャボン玉を飛ばしていた。
まるで煙草をふかしているような趣のあるその光景に、思わず吹き出しそうになる。
「小華ちゃん!明けましておめでとう!」
「・・・」
視線をこちらに向けた小華ちゃんはしばらくジィッとこちらを凝視し、顔を引っ込めてしまった。
「えぇー・・・」
ひどくショックを受けたが、その直後窓から片手がニョキっと伸びて、人差し指で手招きされる。
上がって来いということだろうか。
その対応に、ややモヤモヤとした何かを感じつつ、埃っぽい階段を登る。
登り切ると既に大概屋の扉は開かれ、ダンボール山脈にも道は開かれていた。
「・・・失礼しまーす」
恐る恐る中に踏み入ると、いつかの赤ソファに木のテーブル、その上にはコーヒーの注がれたマグカップが一つ。
そして、前回と同じくテーブル横の段ボールに小華ちゃんは腰掛け、スマホを弄っている。
ソファもデスクチェアも空いているのにそこに座っているのは、おそらくはそこが彼女の定位置らしかった。
「・・・いただきます・・」
とりあえずの言葉を呟いてコーヒーに口をつける。
失礼な物言いかもしれないが、意外に美味しい。
「・・・今日は、九品寺さんはいないのかな?」
「いない」
「あ・・・そう・・」
出迎えのコーヒーがあるのだからそこにいていいとは思うのだが、なんとも居心地が悪い。
またコーヒーを一口飲み、テーブルに置き、また一口飲んだ。
うん、帰ろう。
「じゃあ・・・九品寺さんもいらっしゃらないみたいだし失礼するね。ごちそうさまでした」
「依頼内容を言うといい」
立ち上がりかけた僕はその言葉に『え?』と調子外れな声を出す。
「山本大地が来たらなんでもいいから依頼内容を聞けと言われている。小華一人でこなせるものだったらこなしてできないものだったら後日でっち上げの仕事報告をしてその上で島崎征一郎オーナーに領収書を送ると」
「・・・あー、それは僕には言わないほうがいいのでは?」
「特に口止めはされていない」
「あ・・・そう」
九品寺さんもタチが悪いが、この子も相当タチが悪い。
とりあえずは、ほんの少し九品寺さんが気の毒な印象を受けたので当たり障りない質問でもしてみようか。
「あー、では・・・九品寺さんと小華ちゃんはどういった関係で?」
「それは依頼では無く詮索という」
ごもっともではある。が、正直気になる・・・。
「詳しく話すと長くなるから面倒。だから簡単に言うと以前世話を焼いてやったらしいから今世話を焼かせている」
「うん・・・ん?」
いやもう、訳がわからないが・・・。
しかし、これ以上聞いてもおそらく理解できるほどの説明はしてくれないだろう。
すごく面倒臭そうだ。
その時、ふと小華ちゃんが座っている段ボールに目が止まる。
表にデカデカと”不用品”と書いてある。
「その段ボール、不用品なら捨てたほうがいいんじゃないの?ただでさえ物が多くてこの有様なのに」
「それはできない。これを守るのは小華の役目だから」
「役目?不用品なのに守ってるの?」
小華ちゃんがスマホに向かいっぱなしだった視線をこちらに向ける。
「不用品だからと言って必要ではないことにはならない。ここに”不用品”と書いたのは店長だが小華なら”気休め”と書く」
「気休め?」
「店長はやたらと捨てたがるが”気休めにしかならない”けど”気休めになる”ものは持っておくほうがいい」
「・・・気休め・・・」
そうだ・・・。
気休めでもなんでも、何かしていないとどうしようもなくなることはある。
いくら考えても解決や理解が望めないものもあるのだから。
その段ボールに何が入っているかはわからないけれど、九品寺さんが気休めでも何かにすがりたくなった時の為に、小華ちゃんはこの段ボールを守っているということだろう。
「2人はいいコンビだね」
「きもい」
いつかのような冷え切った返答を最後に、ブツリと切られた会話に苦笑いしながら僕はまた一口コーヒーをすすった。
出来ることなら砂糖かミルクが欲しかったけれど、もう言い出せそうにない。
比較的ゆったりとコーヒーをいただいていたのだけど、マグカップの底が見えてきても九品寺さんが現れる様子はなかった。
「・・もうそろそろ失礼しようかな」
そう言いつつ腰をあげると、小華ちゃんはこちらに目線を向けることなく気だるそうに手を上げて、指先をヒラヒラさせる。
この短時間の質疑応答で、九品寺さんの負債がどの程度軽減されるかは知らないけれど、僕は一応の礼を言って大概屋を後にした。
明日は学校に行こうか、行くにしてもどうせなら宿題を持って行こうか、なんてことを考えながら、僕は帰り道を歩いていった。
◇
年末年始という怠惰に過ごす大義名分のような期間も過ぎ去り、テレビ番組も徐々に通常営業になる1月7日、日ノ森高校の冬休みは終わりを告げ登校日を迎えた。
おそらくは年間通して一番布団を出るのが苦痛なその日の朝に、僕は6時に目を覚ます。
今年ばかりはこの朝を待ち望んだ。
結局あれから毎日音楽室には顔を出したものの、不知火さんが訪れることはなかった。
それがどんな理由であれ、とにかく早く知りたい。
登校の準備を済ませ、居間で呑んだくれてイビキをかいている従姉妹を跨いで外に出る。
やはり外は薄暗く、肌が痺れるように寒かった。
僕はマフラーに鼻まで埋め、学校を目指す。
学校も近くなってきた頃、道の向こう側から面識のある人物がこちらに駆け寄ってきた。
あれは、島崎の母親だ。
「明けましておめでとう。大地くん」
「あ、おめでとうございます。どうしたんですか?こんな朝早く」
「えっとね、実は大地くんにお願いがあってね・・・まさかこんなに早く会えるとは思わなかったけど」
「はは・・最近朝早くて・・・。お願いって、なんですか?」
そこで、少し言いよどんで改めて話し出す。
「実は今朝、うちの亜衣ちょっと調子悪そうだったのよ。あの子、ちょっと体調悪いくらいじゃ全然表に出さないのに、珍しく辛そうだったの」
「え・・・大丈夫なんですか?今日お休みってことです?」
「ううん、休みなさいって言ったんだけど・・・、今日はどうしても休めないってもう行っちゃったのよ・・」
どうしても休めない。
それは恐らく、不知火さんのことが気になってということだろうか。
結局元旦のあの時から島崎とは会えていない。
島崎には嫌な思いをさせてしまったろうと思ってはいたが、体調を崩したのもそれが原因だろうか・・・。
そうだとすれば、僕は恩を仇で返したようなものだ。
「心配だけど・・・学校まで行くとあの子ますます強情になって無理をするから・・・悪いんだけど、気に留めてあげて欲しいの。何かあったらここに連絡してくれないかしら」
そう言って連絡先の書いたメモを手渡される。
「わかりました・・・。もしも酷そうだったら、無理にでも保健室で休ませます」
「ありがとう・・大地くん。お願いね」
島崎母と別れると、僕は足早に学校へ向かった。
学校にたどり着き校門を越えると、いつか不知火さんと座った体育館前の階段の所に島崎が座っているのが見えた。
「島崎!お前・・・大丈夫か・・?」
「大地・・・なによ、大丈夫って?なんのこと?」
平静を装っているが、確かに辛そうに見える。
こんな島崎を初めて見た。
「お前がそんな辛そうなの初めて見るぞ・・・。いや・・ごめん、俺が心配かけすぎだからだよな」
「だからなんの話よ・・・。確かに少し風邪気味だけど、不知火先輩のことが心配なだけよ」
あの日の、島崎の辛そうな表情が脳裏をよぎる。
どう言われようが、僕に責任はある。
だがいくら僕が懺悔したところで、島崎は僕の責任を認めないだろう。
「あ・・・!」
その時、島崎が校門の方を見て声を出した。
僕も振り返ると、校門の境界が波打ち、不知火さんが姿を現した。
僕には見慣れた光景ではあるのだけど、島崎の目にはどう映っているのだろうか。
ともかく、僕と島崎は不知火さんに駆け寄った。
「不知火さん!」
「あ・・・」
声をかけられ、僕達に気づくと不知火さんは慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい!!」
「え!?ど・どうしたんですか?」
頭を下げたまま、不知火さんは続ける。
「音楽室に行く約束・・・守れなかった・・・」
「あぁ・・・。いえ、頭を上げてください。確かに心配しましたけど、何か用事があったんだろうとは思ってたので・・・」
「・・・うん。色々重なっちゃって、どうしても学校に行けなかったの・・・。島崎さんにも心配かけちゃってたみたいで・・・2人ともごめんなさい」
「いえ・・・そんな」
島崎も力なく答える。
「・・・・・でも・・・」
不知火さんが、言葉に詰まりながら、ポツリポツリと話し始める。
涙声になって。
「・・・でも、わからないの。あの約束を破ってまで、優先することがあったと・・・自分で、納得できない・・・。その部分がとてもぼんやりしていて・・・怖い・・・」
こちらをすがるように見つめる不知火さんの瞳は、得体の知れない恐怖で染まっているようだった。
「私って・・・・一体、何者なの・・・?」
「そんなに思い詰めないでください・・・。年末年始はどの家も忙しいものですよ。大掃除やらなんやらと・・・」
「・・・うん。そうなんだけど・・・」
不得意なフォローを入れつつ、情けないけれど反射的に、島崎に助力を乞うような目線を投げかけてしまった。
体調の悪い島崎に助けを求めるような資格も何も持っていないのに。
島崎も、なんだか辛そうに佇んでいる。
「不知火さん。とにかく始業式もありますから校舎に入りましょう」
島崎と僕で不知火さんに連れ添って昇降口へ行き、放課後音楽室で集合ということで、3年棟へ向かう不知火さんを見送った。
その後自分たちの教室へ向かう道すがら、島崎は黙り込んだままだった。
「・・・大地」
一歩ほど先を歩く僕に後ろから島崎が声をかける。
「ん?どうした。やっぱ保健室で休むか」
「・・そうじゃなくて・・」
「・・なんだ?」
島崎は俯いていて、目は前髪で隠れて見えない。
「・・・もう、無理だよ・・・」
「・・島崎・・?」
突如島崎は体勢を崩し、その場にへたりこむ。
僕は慌てて体勢を支えるが、島崎の体からはすっかり力が抜けてしまっている。
そして、服越しでもわかるほどその体は熱を持っていた。
「おい!島崎!!おい!しっかりしろ!!」
呼びかけるが返事をする余裕も無いようだ。
(とにかく、保健室へ・・!!)
島崎の体を支え上げ、保健室へ向かう。
幸いなことに保健室まではそう距離も無かったため、なんとか僕一人で連れて行くことができた。
その間も島崎の口からは、辛そうな呼吸が聞こえ、肩にかけた腕も酷く熱かった。
「先生!すいません!」
保健室の扉を開けると、まだ朝も早かったが保健の先生である白山先生がいた。
「あら、大丈夫!?・・結構熱っぽいみたいね。そこのベットに寝かせてあげて」
「先生!島崎は大丈夫なんですか!?急に倒れて・・・」
「落ち着いて。・・・熱は高いみたいだけど、大丈夫よ。ただ、もう家に帰って休んでいた方が良さそうね・・・。保護者の方に連絡できる?」
「はい・・・連絡先知ってますから、電話しますね」
ひとまず島崎を先生に任せて、廊下に出て電話をかける。
本当に今朝、島崎母に連絡先をもらっておいて助かった・・・。
保健室の前で島崎母の到着を待つ間、島崎がここまで無理をしていたことに気づけなかったことを、僕は恥じてただ立ち尽くすことしかできなかった。
いつもあれだけ助けられておきながら、勝手な気分の落ち込みにかまけて、僕はなんて愚かなのだろうか。
やがて、廊下の先に島崎母の姿が見えた。
僕はそちらへ駆け寄る。
「大地くん!連絡ありがとう。亜衣は?」
「あの中です。・・すいません、頼まれていたのに・・・」
「何言ってるの、すごく助かったわ」
微笑んで僕をねぎらい、保健室へと向かう。
僕は半ば呆然とそれを見送り、立ちすくむ。
「大地くん!」
「・・!不知火さん・・・」
突然聞こえた声に、僕は振り向く。
「島崎さん倒れたって本当!?保健室にいるのね!」
慌てた様子で、そう声を掛けてすぐ僕の横を通り過ぎ、先ほど島崎の母親が入っていった保健室に、不知火さんが駆けていく。
そして扉の先に消えていく。
「駄目だ!!!」
何かが僕の口から発せられ、反射のように追いかける僕には、発した言葉の意味も追いかけた意味も理解できていなかった。
保健室に入った僕の目の前には、立ち止まった不知火さんと、ベットに横たわる島崎、そしてその横に寄り添う母親。
少し息の上がった不知火さんが、言った。
「・・お・・お母・・さん・・・?」
不思議そうに、その相手が言った。
「・・え?あなたも亜衣のお友達?」
全てが静止しているような、そんな感覚を、僕は感じていた。
思考の全ても静止して、景色から色さえも消え失せて、ただ目の前には灰色の風景が広がっていた。
島崎の母親の、娘を心配して駆けつけてくれた初対面の女の子に対する、感謝の言葉がぼんやりと聞こえているような気がしたけれど、僕は一切を認識できてはいなかった。
ただ、ガラガラと何かが崩れるような音が聞こえた気がして、横を通り過ぎる不知火さんの起こす小さな風を肌に感じ、僕はようやく我に返った。
「・・・待って・・!待って、不知火さん!!」
追いかけながら僕は何度もそう叫んだけれど、不知火さんには届かないこともわかっていた。
遠い先を駆けていく不知火さんが、泣いていることも、泣いている理由も、僕はわかっていた。
追いつけないまま不知火さんは校舎の外へ出て、やがて僕の手の届かない”異世界”へと消えていく。
勢いのまま僕は校門を通り過ぎ、乱れた息を整えないまま叫んだ。
不知火さんの名前を叫んだ。
◇
そこから先、僕は何も考えないまま走り続けた。
毎日の登下校の道も通り過ぎ、人の溢れる中央街も走り抜けて、目的の小ビルへとたどり着く。
悲鳴をあげる足の痛みも、爆発しそうな肺も、全てを無視して階段を駆け上がりアルミ製の扉を乱暴に開ける。
「九品寺さん!!!」
デスクチェアに座り本を読んでいた九品寺さんはびくりと驚き声をあげる。
「オオ!?なに、なにいきなり!ビックリしたぁ・・・」
構わず詰め寄り掴みかかる。
「どういうことなんですか!!異世界の人間は現世界にはいないって、言いましたよね!!?嘘だったんですか!!!全部!全部・・・!!」
「アぁ!?なんだよだから!意味わっかんないんですけど!?」
「不知火さんの・・・お母さんが、島崎の母親と同一人物だったんですよ・・・!どういうことです!?姿は同じでも、別人なんですか!??」
「・・・・・」
九品寺さんは喋らず黙ったままだ。それが酷く神経に障る。
「不知火さんの・・記憶に、ぼんやりとした違和感があるそうです・・!それは一体なんなんですか!?不知火さんは・・・異世界人なんですよね!?僕に・・嘘をついてないですよね!?」
「・・・ついてねぇよ」
「じゃあ、納得できる説明をしてください!!」
「しただろうが!!・・・離せっつうの!!」
突き飛ばされて、僕はダンボールの山に突っ込んだ。
「嘘はついてねぇ・・!!お前に話したのは確かに、俺が先代から聞いた話そのままだ」
九品寺さんは服の乱れを直しながら話す。
「だが・・・当時の俺は、それには納得してなかった。だから色々調べたんだ・・・。徹底的に調べた。・・その結果・・他の考え方もあると、わかった。」
他の考え方?なんなんだその言い方は。はっきりしない言い方だ。
「・・異世界なんて無い。それが俺の結論だった。”その他生徒”の存在は、入学した時に始まって卒業して消える。そしてまた、別人になって入学してくる。校門で消えた先には何も無いし記憶もない。・・”その他生徒”に対して、過去のことや学校外の記憶に関する質問をすると、質問した者の記憶や連想した物、そういう頭の中の情報から作られていく・・」
何を言ってるんだ、この人は・・。
そんなの、馬鹿げている。
「”その他生徒”は・・・3年間を繰り返す不思議そのものだ」
は?
なんだそれは。
そんな、いきなり現れていきなり消える、霧か雲のような存在を語るように。
不知火 美希を語っているのか。
「ぅあああああ!!!」
周りのダンボールを撥ね退けて、軽口を叩いた本人へと飛びかかった。
「ふざけるな!!お前が何を知ってるっていうんだ!!!」
勢いのまま折り重なった状態で、反対のダンボールの山に突っ込む。
「そんな適当な憶測を!!なんの証拠があって!!!」
「証拠なんてねぇよ!!!俺らがなんでたった一人の山本か!その理由も証拠もねェだろうが!!!」
揉み合っているうち九品寺さんの肘が顎を打ちつけ、口の中に血の味が滲んだ。
「絶対の本当なんて誰にも分かんねぇんだよ!!だから・・調べて、考えて・・・自分の答えを出したんだ!!!お前だって・・今、同じ理屈にたどり着いてんだろ!?今聞いて、納得したんだろうが!!!」
そんなことない。
納得なんて出来るわけがない。
そんな可能性を、チラリとも考えちゃいない。
「お前が”その他生徒”と接点を持つまで、誰とも接点を持てない異常な状態をなんで本人がどうともできないんだ?おかしいだろ!?なんでそれを深刻に考えもしない!!」
殴りつけた九品寺さんの口からも、血が垂れているのが見える。
「家族の話、中学校の頃の話、休みの日に何をしたか!”その他生徒”本人から話してきたことが1度でもあったか!?おかしいとは思わなかったのか!?」
なんだか、甲高い悲鳴が聞こえた気がした。
小華ちゃんかな・・・。
「なんで俺の代の”その他生徒”と同じ名字なんだ!?3年ごとに入学してくる異世界の人間が全員血縁者だってか!?おかしいだろそんなの!!あとな・・卒業しちまったら”その他生徒”のことは、自分以外みんな忘れちまうぜ。愕然とするぞ、あれは・・・。その時はっきり実感するんだ。”その他生徒”は人間じゃあ・・」
「・・・”その他生徒”って・・・不知火さんを呼ぶな!!!」
九品寺さんを蹴り上げた反動で、僕の体が入口の方へ弾き飛ばされる。
そのまま外の階段へ転げ出そうなところを、誰かに抱きとめられた感触がした。
「やめて!!大地!!!」
見上げると、島崎の顔がそこにはあった。
「島崎・・・?なんで・・」
「大地・・・。九品寺さんの言ってることは・・正しいよ」
「お前まで・・!!」
「最初に・・あんたから不知火先輩が消えたって話を聞いた時、少しだけだけど、違和感を感じてた・・・。あんたが言った”異世界説”には無理があったもの・・」
何言ってるんだ。
島崎までそんなことを言うなんて、酷すぎるじゃないか。
「あんたが九品寺さんから聞いた話を聞いた時も、都合が良すぎる考え方だと思った。優し過ぎる解釈だって」
ー期待してたほどの人じゃなかったみたいねー
「なんだよそれ・・・」
酷く痛む体を起こし、島崎から離れる。
「その時には・・・わかってたって?なんでだよ?それこそおかしいだろ?あの段階で、なんでそんなことが言えるんだ?不知火さんの記憶の違和感も、学校が休みの時に来れないこともわかってなかったじゃないか」
「・・不知火先輩の家の位置が、私の家だったでしょ」
ー理解はしたけど、納得するには足りない感じー
「だからなんだよ!?そんなのただの偶然だろ!?その時点でわかってたって・・・そっか、そりゃお前は凄い奴だからな・・・!だからそんなことで・・」
「私は・・・凄くなんか無い!!!」
島崎が叫ぶように言った。
島崎の怒鳴り声なんて、聞き慣れているけど、僕はそれ以上何も言えなかった。
島崎の声が震えていた。
「私なら・・・できると思ってた・・・!!」
島崎の頬を、涙が伝う。
涙を、初めて見た。
「不知火先輩が卒業するまで・・気づかないふりを・・・。あんたが、どんどん自分を誤魔化せなくなってるの・・・気づいてたけど・・・!」
僕が、自分を誤魔化す?
島崎、何を言ってるんだ?
ーあんたさ・・・もうやめなよ。誤魔化すのー
「大地・・・。あんた、毎日不知火さんを送り届けた時、どんな顔してると思う・・?絶望しているような、凄く遠い目をしてるんだよ・・・?」
ー・・大地・・・ー
・・・そんな訳無い。
「それで・・また明日って言った後、今にも泣き出しそうで・・・。冬休み前も、秋も、・・・あの日も」
「・・・あの日・・?」
「不知火さんを初めて送って行ったあの日よ・・」
その言葉で、僕はあの日に回帰する。
初めて、考えたくもないことを考えたあの日に。
ーわからない。何もかもがわからないー
ーただ、なぜか確信していたー
ー僕の隣に彼女はいないー
5.僕と彼女の最後の言葉
「やぁ、落ち着いたかな?17代目山本くん」
大概屋の扉の外、日も傾き薄暗くなった階段に座り呆けていた僕に、そう声をかけてきたのは、長髪で背も高い男の人だった。
1時間程前に島崎を迎えにきて、そのまま病院へと連れて行った人だ。
「この度は色々すまなかったね。やり通す力もないのに焼くお節介程、迷惑なものもなかったろう」
「・・・やめてください・・」
この穏やかな声には聞き覚えがある。
穏やかで、突き刺さる。
「何を考え込んでいるのかな?」
「・・・いや・・」
「ん?」
「・・・小学校六年生・・隣の席の子の名前が思い出せなくて・・・」
ふむ、と僕の呟きを受けて、征一郎さんは僕の隣に座る。
「確かにね、長い時間を同じ空間で過ごしていたはずなのに、いつの間にか忘れてしまう人達もいる。どんなに忘れたくなくても人は忘却していく生き物だよ。どうやっても自分の中から消えて行ってしまうんだ。その人達の背中を見送る時、これから先もう会うことは無いだなんて意識すらしない」
征一郎さんの口調は優しい。
実の妹にあれほど心労をかけた僕を、恨んでもいいはずなのに。
「もう会うことも無いなら、死んでしまったも同然だなんていう人もいるかもしれないけど、違うよね。どこか遠く、知らない場所で暮らしている。そう思えるなら笑顔でさよならを言えるんだ。だから竜也はソノタちゃんにさよならを言えなかった」
「・・・ソノタ?」
「あぁ、ごめんごめん。僕たちの代の”その他生徒”の子だよ。僕にはもうほとんどその子との思い出は残ってないんだ。名前もね・・・」
”卒業しちまったら”その他生徒”のことは、自分以外みんな忘れちまうぜ”
九品寺さんの言葉が、脳裏に蘇る。
「竜也に何度聞いても教えてくれないんだよ。僕達は”その他生徒”って呼び方は嫌いだから、しょうがなくソノタちゃんって呼んでるんだ」
僕の前では”その他生徒”って呼んでたじゃないですか・・九品寺さん・・。
「竜也は、どうにかソノタちゃんが消えてしまわないようにと頑張っていた。そんなあいつの姿は覚えているのに・・断片的で、霧がかかっているようなそんな感じなんだ。悲しさも感じないんだよ」
「・・・・・」
「最終的に、仲違いのような形でソノタちゃんと竜也は別れてしまったんだ。次に入学してきたソノタちゃんとも会おうとはしなかった。僕らの考えでは別人だという認識だったし、人格も容姿も違っただろうからね。先代のように次の山本に説明して託すようなこともしなかった」
”異世界説”を九品寺さんに説明し後を託した先代、つまり”14代目 山本”。
その人は、本当に異世界の存在を信じていたんだろうか。
それとも僕のように全てを誤魔化してしまったのだろうか。
「考えても無駄だとは言わないよ。でも、絶対に本当のことなんてわからない。君が救われる方を選べばいい」
「・・・はい。ありがとうございます」
「いいんだよ。僕は竜也のサイドキックで、亜衣は君の相棒なんだから」
全てを見通すような笑顔で、征一郎さんは微笑んだ。
◇
新学期の大概屋で、自分の弱さも愚かしさもその全てを九品寺さん、征一郎さん、そして島崎に気づかせてもらった僕は、それから丸二日をかけて自分の中で整理した。
つまり学校をサボってしまったわけだけど、整理なんて出来やしないと気づいたのは3日目の朝だった。
不知火さんに会った時どうすればいいのかさえわからないままだったけれど、1つだけやりたいことがあった。
7時半頃までゆっくりと支度をし、学校に着いたのは始業ギリギリだった。
僕の席の前にはしっかり復活した島崎が座っていた。
「島崎・・・」
「おはようでしょ?」
「お・・・おはよう・・」
ぎこちなく朝の挨拶をした僕の肝臓に、島崎の左アッパーが炸裂した。
「ごぶはっ!!」
「2日もサボるなんて随分余裕じゃない?肖像画は完成したの?」
「・・ほ・ほとんど完成してるよ・・」
「ほとんどじゃダメなのよ」
「さいですか・・・」
しばらくぶりのやり取りと、強烈な痛みに思わず少し涙が出てしまった。
「島崎」
「なに?」
「お前には色々伝えることがあったんだけど、とりあえず1ついいか」
「だから何よ?」
「ありがとな」
リバーブローで崩折れた体勢じゃあどんなクサイ事を言っても様になんかならないし、まぁいいだろう。
「お前がいてくれたおかげで、”17代目 山本”でよかったと俺は思ってるぞ。凄いとか関係無しに、これからも一緒にいてくれないか」
「・・・殴るよ」
「え、なんで」
そう言ったら島崎は、照れ臭そうに微笑んだ。
放課後。
音楽室。
不知火さんと出会ってから僕の学校生活の中心だったこの空間に入るのは、なんだかとてつもなく久しぶりのように感じた。
締め切ってある窓を開け放つと、冬の刺さるような空気が身に染みる。
その窓の近くに据え置かれた大きなグランドピアノは、鍵盤の蓋も閉じられ上にはうっすら埃が積もっている。
3学期も始まったばかりだし、まだ授業でも使われていないのだろう。
そして、おそらくこの3年間で最も多く触れていた女の子も、未だ訪れていないことの証明にもなっていた。
「私も情けないけど一昨日まで休んでいたから、不知火先輩にはまだ会えていないの。もちろんすぐに探したし登校もして来ているはずなんだけど・・」
「なぜか会えない・・・ってことか」
島崎は神妙に頷く。
不知火さんの持つ特質、デメリット。
そのせいで島崎は会えていないのか、もしくは・・・不知火さん本人の意思かもしれない。
「でも多分、大地なら会えるんじゃないかしら」
「そうかもしれない・・・でも、俺から会いにはいかないよ」
もちろん、不知火さんは僕に会いたくはないかもしれないけれど。
「俺も、周りの人たちの力を借りてようやく、ひとまずの考える区切り・・みたいなものはできたけど、不知火さんはもっと時間がかかると思う。それには俺達は多分・・・邪魔だ」
「・・・」
「不知火さんはしっかりした人だよ、約束は守る人だ。本番までにはきっと現れてくれる。それにまぁ、俺も少しやっときたいことがあるんだ」
「やっときたいこと?」
「あぁ。手を貸してくれるか?」
「はいはい」
僕は窓際を離れ、いつもの定位置に座りキャンバスと向き合う。
キャンバスの中の不知火さんはなんだか寂しそうに見えた。
肖像画はそれなりに出来上がってはいたけれど、もう少し手を加えよう。
僕は筆を手に取り目を瞑る。
瞼の裏の不知火さんは柔らかな笑顔で佇んでいて、それを目に焼き付ける。
そしてゆっくりと目を開け、僕は手に持った筆をキャンバスにそっと走らせた。
◇
新しい年を迎えた日ノ森高校の生徒達は、来たる卒業式に向け慌ただしくなっていった。
部活動生を中心に卒業生と在校生の、別れを惜しむ最後の思い出づくりや感謝の言葉に叱咤激励。
冬の寒さも和らいでいき、僕にとっては最初の、不知火さんには最後の冬が終わりを告げた。
今日はいよいよ明日に迫った卒業式の予行練習の日だった。
僕は以前と同じように、毎日音楽室へ通いキャンバスと向かい合う日々を送っている。
今日も、僕は一人音楽室へ足を進める。
気づけば、通りがかりの生徒達から物珍しい目線を向けられることも無くなっていた。
まぁ新入生が入ってくれば元の木阿弥だろうことは察しているが、久方ぶりの穏やかな学校生活も悪くはない。
音楽室へと入り、窓を開ける。
不知火さんには、まだ会えていない。
「俺の絵の才能も、なかなか捨てたもんじゃないよな」
完成した不知火さんの肖像画を眺め、自分で自分に感嘆の声を上げる。
自画自賛、まさにその言葉通りだが、キャンバスの中の不知火さんはとてもいい表情に描けていると思う。
でもまぁ、念のために今一度僕の頭の中の不知火さんと見比べようと、僕は目を瞑った。
「・・私、そんなに可愛くないよ」
不意に懐かしい声が聞こえた。
その声はいつかの時のように震えていて、グレーの瞳も涙で揺らめいてしまっているかもしれない。
「そんなことはないですよ。僕が描いたんだから間違いありません」
僕はゆっくりと目を開ける。
キャンバスの向こうに、不知火さんが立っていた。
「大地くん・・・あのね・・」
「ベートーベン、ピアノソナタ第8番ハ短調、”悲愴”」
「え・・・?」
「不知火さんが、初めて聴かせてくれた曲です。覚えてますか?」
「うん・・もちろん」
「あの時、僕は初めて不知火さんを知ったんです。臆病で、人見知りで、同じクラスの人にも話しかけられない。」
「・・・」
「ピアノが大好きで、腕前も超一流ですよ。ベートーベンも好きで、これはこんな曲なんだよって話してる時は結構熱っぽく話してて、この人ホントは明るい人だよなって思いました」
「・・・うん・・」
「演劇も結構ミーハーで、島崎紹介した時とかめちゃくちゃテンション高かったですよね。あいつもあいつで照れまくってるし、あれ?俺お邪魔か?とか思いましたもん」
「・・・そんなことないよ・・・」
「あ!あと僕の絵のモデルをしてくれてる時も、モデルなのにバンバン動くしコロコロ表情変わるし・・・この人、天然てヤツだなってのもわかりました」
「・・・・うん・・・」
「でも、ピアノの練習中断して付き合ってくれて・・・全然似てない出来の時も褒めてくれて・・・喜んでくれて」
「・・・・・」
「不知火さんが・・俺に教えてくれた温度と感情は、俺の知らないものばかりで、暖かかったり、楽しかったり、しんどかったり、眩しかったり。他には無いものばかりだったんですよ・・・」
不知火さんの瞳からは涙が溢れていて、多分僕も似たようなものだったんだろうけど、その表情は僕の描いた肖像画のように暖かい笑顔だったから僕は心の底から嬉しかった。
「・・・大地くん。私に質問して?『あなたは何者』って・・・」
「・・・それは・・・」
「大丈夫だよ・・・信じて」
彼女の願いを聞いて、僕はそれに応える。
「不知火さん・・・あなたは・・・何者・・・?」
その言葉を受け止めて彼女は目を閉じ、目尻からまたひとすじの涙がこぼれた。
開け放した窓から風が吹いて、彼女のサラサラした黒髪がふわりと舞う。
やがて目を開けて僕に答えを返した。
「・・・私は”3年間を繰り返す不思議な生徒”不知火 美希。遠い過去も遠い未来も私は持ってないけど、私を知ってるあなたがここにいて、確かに私はここにいる」
◇
卒業式の朝がやってきて、学校は卒業生の保護者や来賓もいていっそう賑やかになっていた。
1年はもうすぐ後輩ができると喜んでいたり、2年は残りの高校生活も1年間かと感傷に浸るくらいはしているかもしれないが、それでも大多数の1・2年にとっては、せいぜい授業も無い楽な1日だな、くらいの意味しか無い日だろう。
僕にとっては、今日はどんな意味を持つ日だろうか。
僕にとってのこの1年間は、いや、この半年間は激動の半年間で、今までなら考えもしないような不思議な出来事に溢れた時間だった。
それが今日、終わるのか。
「気の抜けた顔してないでよね。こっちは今日舞台の本番で集中してるんだから。力が抜けちゃうわ」
「バカ、それを言ったら俺だって自作の絵が大衆の目に晒されるんだぞ。本当に気が気じゃねぇよ」
「それこそ大丈夫よ。いい絵になるって言ったでしょ?想像以上の出来だったわよ」
「ほんとかよ。まぁ、自信作ではあるんだけどな」
賑やかな朝の教室で、島崎と僕は顔を見合わせてケラケラと笑う。
「不知火さんには会ってきたのか?」
「えぇ。登校してすぐに会ってきたわ。お互い謝り合ってばかりだったけど不知火先輩、なんだかスッキリした表情してたわ」
「・・・そっか」
「・・・」
なんとなく会話が途切れて、また島崎の口が開く。
「明日になったら・・・私は、不知火先輩のこと忘れちゃうのかな・・・」
「・・そうかもしれない。でも、俺がまた思い出せるように話して聞かせるよ。不知火さんの顔だって、あの絵があるから思い出せる」
「そうね・・・」
九品寺さんの言った通りなら、明日になれば僕以外の人たちの中から不知火 美希の面影は消える。
それは多分、避けようの無い事実だ。
征一郎さんの中から不知火 春香が消えたように、九品寺さんにも避けられなかったエンディングがやってくる。
それならせめて、エピローグを変えてやろう。
僕達と不知火さんの思い出話を島崎に話して聞かせ、失ったものを取り戻させることはできるはずだ。
そこに不知火さんはいるんだから。
「大地。私、不知火先輩と一緒に最高の舞台を作るから、しっかり見てて。明日の私にちゃんと伝えられるように」
「おう、任せろ」
やがて教室の中が慌ただしくなっていく。
卒業式が始まる。
在校生が体育館後方に整列して座り、その後方に保護者や関係者、そして前方にはパイプ椅子が並べられており、やがて流れ始めた音楽と共に卒業生が入場する。
胸に花飾りをつけた卒業生が徐々に前方を埋めていき、僕は少し首を伸ばすように見回す。
人と人の切れ目に不知火さんらしき人の姿が小さく見えた。
遠くてはっきりとは見えないけれど、隣のクラスメイトと談笑しているようだった。
そのなんてことはない卒業式のありふれた風景が、僕には嬉しくてしょうがなかった。
式は滞りなく進んでいき、卒業証書授与。
そして式の最後。
卒業生・在校生共にいくつか空席ができている。
もうすでに島崎や不知火さんも舞台袖で待機しているだろう。
幕が一度閉じられ照明も落とされる。
そしてその幕にスポットライトが当たり幕が開いて行く。
日ノ森高校唯一の特別プログラムが始まる。
貧しい生まれの画家がある日一人の女性と運命的な出会いを果たす。
2人は共に長い時を過ごすが、やがて別れの時が訪れる。
女性は街を離れ、ただ一人残された画家は彼女の面影が残る街の一角で彼女の絵を描き始める。
その女性のぼやけていく面影を繋ぎとめる為に。
舞台のクライマックス。
舞台の中央に僕の描いた肖像画が置かれ、隅にはピアノが置かれている。
主人公の画家を演じる島崎が姿を現し、その後に目立ちすぎないように不知火さんもピアノに座る。
演劇部特製だという黒を基調としたドレスは、不知火さんの綺麗な髪と透き通るような白い素肌とのコントラストが際立っていて、とても綺麗だ。
島崎が舞台の中央に置かれた肖像画の前に腰を下ろし、いつか舞台袖で聞いた最後のセリフを口にする。
『遠くへ行ってしまった君のことを、もうこの街の誰もが忘れてしまっただろう。ただ、私一人が君を覚えている。君が目の前に居なくとも、君の・・』
セリフを止めた島崎は、キャンバス越しに不知火さんの方を見ているように見えた。
『・・君と私たちが共に笑い合ったあの日々を、こうして描いて残せるほどに。それが私の、誇りです』
島崎が不知火さんに笑いかけて、不知火さんも嬉しそうに笑う。
そして、不知火さんの『奏』のメロディが流れ始める。
それは今までで一番美しく、優しく包まれるような旋律で、いつまでもこの場所に響き続けるような気がした。
たくさんの人たちの、それぞれの新しい門出を祝う賑やかさも遠のき、体育館外の階段に腰掛ける僕たち二人を残して、日ノ森高校卒業式の日は終わろうとしている。
慣れ親しんだ夕焼け空を見上げながら、僕も不知火さんも何を話すでもなくぼんやりとしていた。
「あ、そうだった」
突然思い出したように不知火さんは脇に置いていたバッグを開ける。
「どうしたんです?」
「実は渡しておくものがあって・・・」
そう言いつつこちらに1通の手紙を差し出す。
可愛らしい桜色の封筒をみて、一瞬ラブレターをくれたのかとドキリとした。
「え!僕にですか?」
「あ、ううん・・・。ごめん、九品寺さんになの。大地くんから渡してもらえないかな」
「あ・・・そうですか・・・」
がっくりと大げさに肩を落とす僕を見て不知火さんはクスッと笑う。
「私から大地くんに伝えたいことは直接話したいと思ってたから」
「伝えたいこと・・・?」
「うん。1月の始業式、ううん・・もっと前からかもしれないけど、たくさんいろんなことを考えてて、昨日、大地くんも同じように考えてくれてたってわかって・・・」
いろんなこと。
考えても答えの出なかったこと。いや、そもそも答えなんて無いこと。
不知火さんはいつ頃からその不安や絶望と戦っていたんだろう。
目を逸らしてしまっていた僕よりも、実はもっと長い時間戦っていたのかもしれない。
「大地くんと島崎さんには本当に感謝してる。何も持っていなかった私に、友達や目標・・それにあったかい家庭や家族との思い出を分けてもらったもの」
「それは・・・」
不知火さんに家の住所を聞いた時、彼女の帰る家はどんな家庭だろうか?そう考えた僕は、知らぬ間に島崎の家を連想していたんだと思う。
前に一度島崎の家で島崎のお母さんの手料理を食べた時に、母のいない僕が知らなかった”母の味”は、正にあったかい家庭を象徴しているように思えた。
あの家庭の中に不知火さんが帰っていけるなら、僕はとても嬉しい。
「”その他生徒””3年間を繰り返す生徒””異世界留学生”・・・せっかくいろんな考え方ができるなら、こんなのはどうかな?」
「・・どんなのですか?」
「日ノ森高校ができてから大地くん達”歴代の山本くん”が、私達に分けてくれたたくさんの記憶。私に春香お姉ちゃんがいるみたいに、それが年々積み重なって、たくさん折り重なって・・一つの世界くらいに大きなものになったら、それを異世界って呼べるかもしれない・・・。私達の帰っていく世界。それなら、何も悲しいことなんか無いよね・・・」
「・・そうですよ・・・!それ良いじゃないですか、むしろ本当にそうかもしれない」
「本当?よかった・・・」
「僕、次に不知火さんの世界から入学してくる子ともいろんな話をします。もしかしたらその子は不知火さんの親戚かもしれない・・・隣の家の子かも」
「うん」
「僕でもう”17代目 山本”ですから、随分広い世界ができてるはずですよ・・・。これからも・・どんどん広がっていくんです」
「・・・うん」
「僕が・・僕が、その考え方を繋げていきますから・・・」
これも、目を背けた考え方と他の人は言うだろうか。
それでも信じる価値はあるはずだ。
正しいと証明できなくても、間違ってるとも証明できないんだから。
「大地くん」
不知火さんが立ち上がり、そう僕を呼んだ時、空はもうすでに灰色になっていた。
「もうそろそろ、帰らなきゃね」
不知火さんがこちらに手を差し出す。
僕がその手を取れずにいると、不知火さんはさらに近づいて僕の手を握る。
促されるように立ち上がり、手を握ったまま校門へと歩いていく。
まるで小さな子供のように手を引かれて歩く僕は、端から見れば滑稽だったろう。
先を先導して歩いていく不知火さんはまっすぐ前を見据えているのに、僕は俯いてしまう他なかった。
やがて校門の前にたどり着き、立ち止まる。
「目を・・瞑っててくれないかな」
不知火さんが前を向いたままそう言って、僕は声も出せずに立ち尽くす。
「・・・消えちゃうところ・・見ないでほしい・・・」
僕は息も出来ないでいた。
それでも、不知火さんの願いだ。
僕は固く目を瞑る。
必死に留めていた涙が落ちた。
一歩
二歩
手を引かれ、歩く。
そして、僕の手の内から不知火さんの温もりが消えた。
「不知火さん!!」
固く閉じた目を開いて、僕は前に飛び出した。
不知火さんと僕を隔てる境へ向かって飛び込むように。
開かれた僕の目に映った校門の先には誰の姿も見えなかった。
しかし、グワリと視界が揺らめいて、まるで頭から水に飛び込んだようだった。
波打つ景色はひどく不明瞭ではっきりせず、溢れた涙のせいかと思った。
しかしその景色の色は灰色ではなく、暖かいオレンジ色に染まった通学路に見えて、その道の真ん中に彼女のシルエットが見えた。
最後に彼女の言葉が聞こえて、僕も同じ言葉を返した。
その言葉は、とてもストレートで恥ずかしくて、これから先誰にも言えないだろう。
6.僕達のエピローグ
桜が咲き乱れる4月初め、始業式。
めでたく新2年生となった僕達は、クラス替えという一大イベントはあったもののそれを過ぎればまた同じような高校生活が始まるわけで。
まだ受験もピンとこない一番気楽で一番楽しい、しかし最後になる青春謳歌の1年が始まった。
僕としては新しいクラスというのは何かと面倒だ。
ある程度慣れてきたとはいえ、同じクラスになったことで改めて”17代目 山本”に色めきだつ人達もいるのだ。めんどくさい。
しかし幸いなことにまた島崎と同じクラスになれた分、まだマシな規模だったのはありがたかった。
始業式全日程が終わると、僕は避難するように大概屋へと向かった。
「んだよ、また来たのかお前は」
うんざりと言った風な九品寺さんに出迎えられ、ダンボール渓谷を進んでいく。
「今日は渡したいものがあって来たんですよ」
「渡したいもの?なんだよ?」
それぞれソファとデスクチェアに落ち着いたところで、テーブルの上に封筒を差し出す。
「なんだこれ?」
「不知火さんからです。もっと早く渡そうと思ったんですけど、なんとなく始業式にと思って」
「不知火 美希?俺は別に大した面識もないだろ。いらねぇよ」
「春香さんからだと思いますよ」
「は!?なんだそりゃ」
だいぶ狼狽えてしまっている九品寺さんに、封筒を裏返してみせる。
宛名のところに『竜也へ』とある。
「バーカ、信じられるかそんなん。持って帰れ」
「持って帰れも何も、九品寺さん宛ですからね」
「だから知らねぇって・・・」
「店長受け取れ」
横のダンボールにちょこんと座る小華ちゃんが命じる。
「小華嬢・・・あのね」
「受け取れ」
有無も言わせぬ貫禄に九品寺さんはたじろぐ。
「わーかったよ!・・じゃあ、まぁそのうち・・」
「読め」
「よめ!?ここで!?今!?・・・・わかったよ・・・」
ビクつきながら封を開ける。この人ほんと小華ちゃんに弱いな。
「・・・えー、”お久しぶりです・・・”」
「音読しなくていい黙読しろ」
「えぇー・・・」
ややしょんぼりしながら、九品寺さんは一人読み進める。
デスクチェアの肘掛に頬杖のような形で、その右手は眉のあたりに添えてしまっているため目は隠れてしまっている。
しばらく『ふむ』とか『ほぉ』とか、よくわからない相槌を打ちながら読んでいた九品寺さんだったけれど、しばらくすると黙って、静かに読んでいた。
やがて、その額に添えられた手の下から伸びる鼻筋に、スーッと水滴が流れ、鼻先からポタリ、ポタリと落ちはじめた。
それを静かに見守る小華ちゃんはとても優しい目の色をしていて、ただただ、九品寺さんの側で寄り添っているように僕には見えた。
「・・・ふー、おし、読んだ。これでいいか」
そう言った九品寺さんの涙は止まっていたけれど、目が真っ赤に充血してしまっているから誤魔化せてはいない。
「・・・あー!!だっせ。もう最近涙腺緩いわ。歳のせいだな」
「まだ若いでしょうに」
「ウッセー。・・・まぁ・・礼は言っとくわ。今度一つだけタダで仕事引き受けてやるよ」
「ほんとですか?それだったら、一つ頼みがあるんですけど・・・」
「早いなおい」
僕はバッグから一冊本を取り出してテーブルに置く。
「前にお借りした本、もう読んでしまって・・・同じようなのまた貸してもらえませんか?」
「いや、それはやったつもりだったんだが」
「借りるだけでいいんです。他のもいいですか?」
「・・勝手に持ってけ!」
「ありがとうございます・・・小華ちゃん、いいかな?」
僕は小華ちゃんにお伺いを立てると、ひょいとダンボールから降りてくれた。
その”不用品”と書かれたダンボールを開いて、乱雑に入れられた本の中から比較的分厚すぎないものを一冊取り出した。
「・・・九品寺さん。やっぱり気になるんですけど、九品寺さんと小華ちゃんってどういったご関係なんですか?」
「あ?そりゃあ、小華嬢は俺の高校時代の先輩だよ」
さも当たり前、と言うような言葉に面食らった。
それを見て、九品寺さんはニヒルに笑う。
「お前にもそのうちわかるさ」
・・・どうやらまた、僕が大概屋の戸を叩く日は近いのかもしれない。
◇
始業式のその次の日は、入学式だ。
その入学式も終わって数日後、放課後に僕と島崎は何となしに教室で駄弁っていた。
「何見てんだ?島崎」
「うん?あぁ、あんたの描いた絵、写真に撮って携帯に入れてるのよ」
「いや、やめてくれよ。恥ずかしい・・・」
「何も恥ずかしいことないでしょ。よく描けてるし・・・それに」
そこまで言って、島崎は黙り込む。
「やっぱり、はっきりは思い出せないか?」
「・・えぇ。こんなの初めてよ。自分の記憶力に自信が持てないなんて」
「お前らしいな」
「もちろん断片的には覚えてるけど・・・どんどん輪郭がぼやけていくみたい。あんたから聞いた思い出話も、どこか実感なくて・・・もうあまり恐怖も感じなくなっちゃった・・・」
「気にすることはねぇよ。・・・顔もわかるし、どんな人だったかもわかってるんだから」
「・・・ありがとう。でも、不知火先輩と私は友達よ。それは変わらないわ」
「あぁ」
不知火さんが卒業してから1ヶ月。
その間に、徐々に、しかし確実に島崎から不知火さんの記憶は消えていった。
それはごく自然な、卒業して数年経ち、学校ですれ違った誰かを忘れていくような、そんなありふれた忘却のようだった。
それは島崎を苦しめないようにという、不知火さんの優しさのようにも感じられた。
「それにしても、不知火先輩と比べて横の私の顔、随分手抜きじゃない?」
「いやだから!時間が足りなかったんだって!」
島崎の携帯を二人で覗き込む。
真ん中に笑っている不知火さん。
そして両脇に慌てて描き足した笑顔の僕と島崎。
どうせなら写真でも撮ればよかったのかもしれないけれど、こちらの方が僕は暖かな気持ちになれる。
「それじゃあ、俺行くわ」
「そうね。と言うより・・・私は何で後日な訳?」
「バーカ、一番最初は”17代目 山本”の特権なんだよ」
「何それ」
ついてこようと食い下がる島崎をなだめすかし、僕は教室を出た。
1・2年の教室がある東棟を出て西棟へ、特別教室のある廊下を進んでいるとその先からピアノの音が聞こえる。
そのメロディは、とても聞きなれた曲のもので少し笑ってしまった。
この曲を知らないと言うのは、なかなか無理のある話だがしょうがない。
最初の一言は決めている。
音楽室の扉を開き、僕は彼女に声をかけた。
「なんていう曲なの?」
奏鳴曲・END