雨宮さん
駅から出ると雨が降っていた。
どうやら間に合わなかったようだ。雨足はさほどではないが天気予報によれば、これから酷くなっていくらしい。傘を忘れて出て来た事が悔やまれる。
家までは徒歩でおよそ十五分。辿り着く頃には間違いなくずぶ濡れになっているだろう。迎えを頼もうにも越して来たばかりで、近くに知り合いはいない。
周りを見渡せば、併設されたコンビニの傘立てに数本のビニール傘。
さて、あなたならどうする?
当然、多くの人はコンビニで傘を買う。
または濡れて帰ると答える事だろう。
まぁ中にはタクシーで帰ると答える方もいるかもしれない。
でも一つだけ絶対にしてはいけない事がある。
それは、傘を盗む事。
どうせビニール傘だし。
借りるだけだから。
そんな事を考える愚か者は、これを読んでいる方々の中にはいない事を切に願う。
*****
199×年6月某日
○○県△△市で一人の女性が遺体で発見された。
死因は失血死。
自ら首を切って自殺したと思われる。
遺体のすぐ傍には遺書が残されており、彼女の心情が克明に綴られていた。
二十年程前の事の為、若い方は知らないかもしれないが、当時は『雨宮さん事件』と呼ばれて少しだけ話題になった。
雨宮さんは、当時二十三歳。婚約者を二か月ほど前に事故で亡くしたばかりだった。
これだけ聞くと後追い自殺のように思われるが、実際は少し違う。
彼女のお腹には、亡くなった彼との子供が宿っていたのだ。
周囲の人の話によると、彼女は『お腹の子供の為に』と気丈に振る舞っていたという。
ではなぜ、彼女は自殺を選んでしまったのか。
それは彼女が自殺する数週間前に遡る。
その日彼女は体調を崩してしまい、仕事を早退する事にした。
今にも雨が降り出しそうな曇天の元、やや急ぎ足で家へと歩いていた彼女だったが、途中で冷蔵庫の中身が少なくなっている事を思い出した。天気が気になったが、幸い傘を持っている。お腹の子供の為にも栄養のある物を食べようとスーパーに寄る事にした。
手早く買い物を済ませて外に出ると、傘立てに入れておいた彼女の傘がなくなっていた。どうやら心無い人に持って行かれてしまったようだ。
目印代わりにシールが貼ってあったとはいえ、所詮はビニール傘。
ため息を吐き出しながら周りを見渡せば、地面は濡れているが雨は降っていない。一度降って上がったのだろう。
店内に戻って傘を買う事を考えたが、あまり無駄遣いはしたくない。
家に帰ればちゃんとした傘があるし、会社にはもう一本ビニール傘を置いてあるのだ。わずか数百円だとしても、お腹の子供の為に節約するべきだ。
そう考えた彼女はそのまま家に向かって歩き出した。
店から出て数分。
ポツリ、ポツリと音を立てて雨粒が落ち始めた。
降り出した雨は徐々に激しさを増して、気付けば土砂降りへと変わっていた。
彼女が家に辿り着く頃にはすでにずぶ濡れになっており、体調は悪化してしまった。予想以上に上がってしまった熱は彼女を苦しめ、お腹の子供にまで影響を与えた。
そして子供は……。
先立ってしまった彼が残してくれた唯一の希望。
それがいとも簡単に、失われてしまったのだった。
遺書には涙で滲んだ後がいくつも残っており、最後にはこう書かれていたという。
傘だけじゃなくて、赤ちゃんまで奪わないでよ。
かえして。
私の大切なモノをかえして。
*****
2016年6月某日
加奈子が駅から出ると雨が降っていた。
「最悪」
朝は晴れていた為、傘は持って来ていない。迎えに来てもらおうにも今日に限って両親は旅行中だ。こんな事なら寄り道なんてせずに帰れば良かった。
「真紀ちゃんのせいだ。明日文句言ってやろ」
とはいえ、これからどうするべきかが問題だ。家までは徒歩で十五分程度。走ればもっと早く着く。それに今日は蒸し暑いから少しくらい濡れたって風邪をひく事はないだろう。
でも……。
「やっぱ嫌だな」
周りを見渡せば、駅に併設されたコンビニが目に入った。
傘を買おうと財布を確認する。
「うぅ……。これはヤバイ」
少しばかり遊び過ぎてしまったらしい。買えない事はないが、極力出費は抑えたい。
どうしようかと視線を彷徨わせると、傘立てに数本の傘を見つけた。
「明日返せばいいよね……」
加奈子は傘立ての中に一本だけ入っていたビニール傘をそっと引き抜いた。
ごめんなさい。
どこの誰かもわからない持主に心の中で謝ると、足早にその場を去った。
いつもは人通りの多い道を選んで帰る加奈子だったが、この日は雨が降っていた事もあり、一番近い道のりを選択した。
大通りから外れて少し進むと、すれ違う人がほとんどいなくなる。気づけば街灯もまばらで、雨のせいで随分と暗く感じる。
両親がいないからと、羽目を外すんじゃなかった。そんな事を思いながら、歩くペースは自然と早くなっていく。
ぴちゃ。
「ひっ」
不意に首筋に冷たいモノが当たった。
一瞬驚いてしまったが、すぐに冷静になる。
「げっ、もしかして穴が空いてるのかな?」
濡れた首筋を触ると、ぬるりとした感触がした。
「えっ?」
恐る恐る手に付いたモノを見る。
そこには、ただ水で濡れただけの手があった。
「なんだ。脅かさないでよ」
わざと大き目な声で呟くと、再び歩き出した。
『して……』
「ん?」
どこからともなく声が聞こえた気がして、ぴたりと足を止める。
『えして……』
耳をすませれば、か細い女性の声のようだ。
どうやら声はすぐ後ろから聞こえてくる。
恐る恐る後ろを振り返るが、そこには誰もいない。
「気のせい?」
そんなはずはない。
『かえして……』
不思議に思ってる加奈子のすぐ後ろから、再び声がした。
慌てて振り返るが、やはり誰もいない。
「もう!なんなの!」
今にも泣き出しそうな声で加奈子が叫ぶ。
ぴちゃ。
「ひっ……」
すると再び首筋に水滴が当たる。
『かえして』
その声はまるで、傘から聞こえてくるようだ。
『お願いだからかえして』
加奈子は緩慢な動きで首だけを回して、差している傘の中を覗き見た。
ぴちゃ。
同時に加奈子の顔に水滴が落ちて来た。
いくつも、いくつも、いくつも……。
『私の赤ちゃんかえして』
首から血を流した女性がそこにいた。
彼女の血がまるで雨のように加奈子の顔に降り注ぎ、そして……。
「――いやぁぁぁぁぁあああああああ!!」
現場を訪れたベテランの刑事が顔をしかめた。
「これは酷い……」
「ええ、生きたまま子宮を引き吊り出されたようです。よっぽど怨まれていたんでしょうか?」
「子宮を?」
「はい……。性器から何かを突っ込んでそれで……」
「――そうか。しかし物証は何もなしか?」
「はい。ただ……」
「ただ何だ?」
「ええ、実は襲われる少し前だと思われる時間に、彼女がビニール傘を差して歩いているのを近所の人が目撃したそうなんですよ」
「それがどうした?」
「それがその……。傘だけが見つからないそうです」
*****
もしあなたが傘を忘れたとしても、決して他人の物に手を出さない事をお勧めする。
でないと……。
『私の赤ちゃんかえして』