第20話 「誰かが誰かを」7
□ 文村冬湖
自分の部屋で、今日、テスト用にまとめたノートを見返している。でも、集中できない。テスト勉強が手につかない。考えがまとまらなくて、いろんな人たちの顔が私の頭の中をぐるぐると回っている。
私はいつまでも姉さんと一緒。自分の中に思い描く未来の中にはいつでも姉さんがいてくれる。それは私にとって自然なこと。でも時間が進んでいく。流れていく。いくつもの本当にあったことを積み重ねて、未来は次第にその輪郭をはっきりさせていく。
姉さんはずっと遠山さんと一緒にいたかったのかな? 私が姉さんを遠山さんから引き離したのかな? そうじゃないよ、って言ってほしい。でも、そう言わせてしまったらつらい。
『姉さん。遠山さんのこと、好き?』
『うん、好き、だよ』
あのとき、私は聞きたかった。
『私と……どっちが好き?』
でも聞けなかった。そんな私の肩を姉さんは抱き寄せて、私を姉さんに寄り添わせてくれた。それはまるで……そう聞かなかったことへのご褒美みたいだった。目を閉じて姉さんを思い描く。姉さんの瞳の中にある光。春の小川にたゆたうお日様のような光。私は、そんな姉さんが好き。
目を開けたとき、いちばん最初に目に入ったのは、机の端に置いておいた茜先輩にもらったメモ帳。手を伸ばして、手に取る。何か言葉を。そう思って、いちばん新しいページを開いたとき、小さな一つの詩が私のひとみにそっと触れた。
つないだその手の先にある
その風景と物語
恋することのしあわせの
求めてやまないその全て
いつか花束になる言葉たちを。そんな茜先輩の言葉に応えようとして書いた習作の、そのとなり。茜先輩の字で書かれた言葉のひとつらなり。今日、私がお茶会に行ってるときに書いたのかな? 私ももっと、花束の香りがするような言葉を編めたらな、って思う。
つかれを感じて、ベッドに横になる。灯りを消すと、周りの音がよく聞こえるようになって、いつのまにか雨の音がしなくなっていることに気付く。もう眠っているのか、それともまだ起きているのか、その境目で、私はまだ考えている。
恋。誰かが誰かを好きになること。姉さんも恋に落ちた。そしていつかは結婚してしまう。私はいつまでも姉さんと一緒にいることはできない。姉さんは私から離れていく。遠山さんと出会ってしまったから。そこに自分のしあわせを見つけてしまったから。私の思い描いた未来が、時間の流れの中で、少しずつ形と色とを失っていく。そして新しい未来が私の中で形をとって、次第に色づいていく。私はそれを受け入れるしかなくなっている。この形、この色は、姉さんの望んだものだから。そして姉さんがくれるものはすべて、私にとって運命だから。
『とーこちゃん!』
ひなた先輩の声がする。
『とーこちゃんも、いつか誰かと恋に落ちるんだよ!』
恋ってなんですか?
『そのときがくれば、とーこちゃんにも分かるんだよ!』
私にはわかりません。
『楽しみだね? 楽しみだね、とーこちゃん!』
人はどうして恋をするんだろう? 人はどうして、恋をして夫婦になるんだろう? 今まで知らなかった誰かと出会って、その人と生涯を共にする。それって……。
『怖く、ないんですか?』
『怖く、ないよ? だって、自分でそれを望むんだもの!』
ひなた先輩はそう言って、ひまわりのように笑った。そんなひなた先輩の後ろに誰かが立っている。揺れる黒髪の後ろ姿。美夜子先輩? それともリボンを外した茜先輩? 私にはわからなかった。そしてまばたきした瞬間に、世界の色が変わっていた。
目の前に私がいる。あのときの姉さんの服を着た私。でも、本当に私? 鏡映しのその子は笑っていた。私の知らない微笑みを浮かべて、春風の中に立っている。
『あなたは、だあれ?』
そう聞こうとしたとき、とうとつに雲が裂けた。私は真っ青な中を落ちていく。怖くはない、寒くもない。白くかすむもやのような雲が頬をなでていく。はるか下に見覚えのある街が見えた。それは私の住む街だった。ゆっくりと吸い寄せられるように落ちていく。いつまで経っても怖くならない。ただ落ちていく。それは私が空っぽだから。次第に明瞭になっていく視界の中、私の街が近づいてくる。このまま落ちていって、私はどうなるんだろう? わからない。でも最後まで見届けたい。これはきっと、姉さんが決めたことだから。
ふと、浮遊感が私を包んだ。からだが軽くなって、静止した地平線が見えた。ぐるりと視界がめぐって、今度は見渡す限りの水平線が広がる。私は空に浮いていた。私の手の先に、つないだ誰かの手があった。見上げると、日の光をさえぎって、その人はいた。
「あたし、空が飛べるんだよ!」
あ、その声はしらゆき。そう思ったけれど、しらゆきの顔がよく見えない。太陽を背にしたポニーテールのシルエット。もう少し顔をよく見せてほしい。光があふれていて、よく見えないから。
そう思ったとき、目が覚めた。
朝だった。カーテンの向こうに光がある。引き寄せられるようにカーテンを開けた。なんでもない朝。遠くの山の稜線には、まだ少し茜色がとどまっていた。見慣れた景色が少しだけ、見たことのない景色に見える。自分の息を吸う音がはっきりと聞こえた。私は知らなかった。私はなんにも知らなかった。そのことを、はっきりと感じた。
階下から誰かの……姉さんの気配がする。階段を下りた先、玄関のとびらの前に姉さんを見つけた。靴を履いて、私を振り返った姉さんの、その恰好は……。
「ねえ、さん?」
「おはよ、とーこ」
姉さんのからだに、ぴったりと馴染んだ服。
「お姉ちゃん、ちょっとお出かけしてくるね」
今日は……姉さんが遠山さんとデートする日。この前の日曜日、私がみんなとお出かけしたときに着ていった服は、姉さんが今日のために買ったもの。そんなことに、いまさら気付く。
「それじゃあ、とーこ、いってくるね!」
「うん。いって、らっしゃい」
嬉しさを隠し切れない姉さんの背中。そして玄関のとびらを開けた。とびらの向こうには梅雨の晴れ間が広がっていて、姉さんは春の名残りのような服をまとって出かけていく。その後ろ姿を、私はただ見送ることしかできない。
きっと私は知らなかった。姉さんのことも、きっとなんにも知らなかった。だから私は知りたい。姉さんの心が知りたい。そして伝えたい。私の気持ち。でも、どんな気持ちを伝えればいいんだろう? 今はまだ分からないけれど、でも、いつかきっと見つけたい。そして書きたい。私の詩を。花束にした言葉たちを。姉さんに渡したいから。私の大好きな姉さんに……。




