第20話 「誰かが誰かを」5B
□ 文村冬湖
次第に暗くなる窓の外。そこでは、変わることなく雨が降り続いている。頭の中をよぎっていくとりとめのないことはすぐに消えて、さっきまで何を考えていたのかも思い出せない。目の前にはさっきから何度も解こうとして解けずにいる数式がある。どう解いていけばいいのか知ってるはずなのに、本当にそれでいいのか自信がない。自分が数学のことを何にも分かってないのがよく分かる。
誰にも聞かれないように、そっとため息を吐いた。
文芸部の部室。いつもの六人掛けのテーブルを囲んで、いつものテスト勉強をしている。隣に座る美夜子先輩をそっと見てみる。くちびるに人差し指を当てて考え込む横顔を綺麗だと思う。その向こう、私たち四人に、均等に視線を配れる位置に茜先輩がいる。現代文の教科書を読んでいるように見えるけれど、それにしては視線の運び方が変。きっと教科書の内側に、何か別のものを仕込んでいるんだと思った。美夜子先輩の真正面にあたる位置にはしらゆきがいる。暑いのか、火照って頬が赤くなっている。鉛筆を手に、ノートに途中式を力強く書き込んでいる。そして私の正面にはひなた先輩がいて……私と目が合って、にっこりした。英語用のノートの隅に何かを書いて、私に差し出してくる。
『とーこちゃん。お勉強、もう疲れちゃった? わたしと一緒だねっ!』
読み終えた私の視線をもう一度とらえて、そしてちらっとテーブルの真ん中を見た。そこにはみんなで分け合って飲んでいたレモンティーのペットボトルがあって、その中身はもう、だいぶ少なくなっていた。
『休憩ついでに、買い出しに行っちゃおっか?』
くちびるの形だけでそう言って、ウィンクした。私はうなずく。
二人そろって立ち上がったひなた先輩と私。みんなの視線が私たちに向いた。
「ちょっと買い出しに行ってきまぁ~す!」
ひなた先輩がそう告げて、私は部室の扉を閉めた。静かな廊下をひなた先輩と二人で歩く。
「う~ん……!」
ひなた先輩が大きく伸びをする。
「ぷはぁ~っ!」
そして大きく息を吐く。
「集中力が途切れてくるとね、いっつもそうなんだけど……アルファベットのみんながラインダンスを踊りだして、わたしもその中に混じりたくなっちゃうんだぁ! ね、とーこちゃんはどうっ?」
「私は……ただぼんやりしたり、とか」
「そっかそっかぁ! でもね、いつかぼんやりした先で空想できたらいいよね! まるでふっと夢を見るように、こことは別の世界にトリップしちゃうの! それってとっても……ステキなんだよ!」
「はぁ」
「でも、あんまりやりすぎちゃうと、こっちの世界で失敗しちゃうんだけどね! えへへ」
購買部に着いて、私の持つカゴの中に、ひなた先輩がアップルティーのペットボトルを入れる。
「ねえ、お菓子も買っちゃおっか? どうかな? 太っちゃう? ううん、甘いもの、欲しいよね!?」
そう言ってひなた先輩は、お菓子のコーナーに行ってしまう。その後を追いかけようとすると、入り口のあたりから聞き慣れた声が聞こえてきた。少し迷ったけど、なんとなく見に行ってみる。
「あれ、景ちゃん?」
「おっ、とーこちゃん!」
それは景ちゃんだった。その後ろには……今枝くん、かな? でもパンのコーナーにじっと見入っていて振り返ろうとしないから、本当にそうなのかどうか、自信が持てない。
「あっ、とーこちゃんのクラスのお友だちかなっ!?」
戻ってきたひなた先輩がカゴの中にどさどさとお菓子を入れながら言う。そしてなぜか今枝くん?の後ろすがたをまじまじと見た。その視線に気づいたみたいに、今枝くんがそろそろと振り返る。
「あ、やっぱりぃ! ねえ、キミ! この前、部誌を持ってってくれた子じゃないかなっ!?」
「あ、その節は……」
今枝くんが頭を掻きながら言う。部誌を持っていってくれた。もしかしたら私の書いたものも読まれたのかな? なんだか少し、恥ずかしい気もする。
「あ、とーこちゃん!」
「美月ちゃん。学食のお勉強会?」
「そうそう! これから壮行会しようってなったんだ~。そーだ、とーこちゃんもおいでよ~! ちょっと寄ってかなぁい? 文芸部の先輩さんもいっしょに!」
とてもうきうきした調子の美月ちゃんが、私の手を取る。そんな美月ちゃんに誘われて、私とひなた先輩は、美月ちゃんたちが開くという壮行会に参加することになった。
「みよっちにメールしとかなきゃ!」
ひなた先輩が美夜子先輩にメールして、私たちは学食へと向かう。ひなた先輩と景ちゃん、美月ちゃんが前を歩いて、私と今枝くんがその後ろを並んで歩く。
「……」
今枝くんは何も言わない。その横顔はどこか張り詰めているようにも見える。
「あっ」
目が合って、今枝くんはあわてて私から視線をそらした。
「……どうしたの、今枝くん」
そう聞いてみる。
「い、いや、別に……」
今枝くんはそれだけ言って、じっと前を見ている。その頬が心なしか赤くなっているようにも見えた。どうしたんだろう?
☆ 牧野ひなた
『とーこちゃんとしらゆきちゃんのクラスの子たちに会ったよ~! これからお茶会にお呼ばれしてきま~す!』
うん、みよっちへのメールはこれでよしっ! さ、お茶会に、れっつご~!!
「はじめましてっ! 牧野ひなたですっ!!」
「あ、井上美月です~」
「狭間景です」
「美月ちゃんと景ちゃんだね~」
美月ちゃんは小っちゃくて、二つに編んだ髪がとってもカワイイ子! 景ちゃんはのっぽさん! かっこいいね!
「カワイイな~! やっぱり後輩ちゃんはカワイイな~」
思わず口に出しちゃう。
「あれ?」
どうしたんだろ? 美月ちゃんも景ちゃんも、ちょっと固まってる?
「どうしたの?」
「あ、えと、別になんでもなくて……あの、それで」
景ちゃんがちらっと後ろを見た。
「後ろのが、今枝修一くんです……」
後ろを振り返ってみると、とーこちゃんと並んで歩く男の子がいて、あっ、わたしと目が合った! にっこり☆ よろしくね!
今枝くん、この前、部誌を持ってってくれた子なんだよね! かくれたり、わたしたちの様子をうかがったり、でも最後には持ってってくれて、ほんとにうれしかったんだぁ! きっとちゃんと読んでくれたよね!? うれしいなぁ!!
学食に着いて、談笑する声のあいだをぬって、わたしたちのお茶会の席へ! メガネの大臣さん! ふとっちょな商人さん! そしていたずら好きな魔女さん!がわたしたちを迎えてくれる。うーん、そういうことなら、美月ちゃんは貴族の令嬢さん、景ちゃんは王子様、今枝くんは……騎士様!かな!?
「はじめまして! 牧野ひなたですっ! とーこちゃん、しらゆきちゃんと一緒に文芸部してまーす! お茶会と聞いてお呼ばれしちゃいましたぁ!」
スカートの両すそをつまんでお辞儀! ちゃんとできてるかな!?
「ねえ、とーこちゃん! 紹介してくれるっ?」
「あ、ええと……末松武くん、古屋雄太くん、そしてゆかり……藤沢ゆかりちゃんです……」
「あらためて、はじめまして!」
あれ? どうしたんだろ? みんな驚いてる? それになんだか、メガネの大臣さん――古屋くんの顔色、ちょっと悪くないかな?
「ねえ、メガネの大臣さん? だいじょうぶ? 顔色、悪くない?」
「……え? あ、いや、別に、問題ないです。あ、テーブル狭くないですか? 座れるかな? 僕、抜けましょうか?」
そそくさと立ち上がろうとする大臣さんのところに騎士様が二人分の椅子を持って駆けつけちゃう。
「問題ねぇ。八人でぎゅうぎゅうになって座ろうぜ!」
うーん、グッドアイデア!! さすが騎士様だよね! 六人用のテーブルを八人で囲んじゃう! ほんとにぎゅうぎゅう! でもなんだか触れ合ってる感じがして、こういうの大好き!
「ねえ、こんなふうにぎゅうぎゅうになってると、なんだか家族って感じ、しないかな?」
「か、家族……?」
「あっ、お近づきのしるしっ! どうかわたしたちのアップルティーを召し上がってくださいな!」
「めしあ……え?」
「あ、シュウちゃん、コップ! 八人分!」
「あいよぉ! ……ってか、オマエも手伝え!!」
騎士様がもってきてくれたコップに、アップルティーを注いでく。それじゃあ、みんなで乾杯だよ!
「ちあ~~~ず☆」
高らかにコップをかかげてカンパ~イ! わたし、ちょっと浮かれすぎかな? だいじょうぶだよね!?
「あっ、お菓子も召し上がってくださいな~。たくさんあるから~」
テーブルの真ん中にお菓子の袋をひっくり返して、お菓子でできたピラミッドを作っちゃう!
「……ねえ、シュウちゃん、もしかして?」
「ああ、オレは会った瞬間に気付いたぜ……。文村の詩に出てきた『H先輩』だ! 間違いねえッ!!」
「わ~、やっぱり読んでくれてたんだねっ! うれしいな~!」
「そうそう! シュウちゃん、文村さんの詩が載ってるって聞いて、部誌、取りに行ったんだよね!!」
「ええっ!? そうなの!?」
「な、なに言ってんだ、ふとしぃっ! い、いや、ちがくて!! とにかくアレです、ほら、実は神山の友だちが教室で、神山の書いたヤツを朗読したんすよ! で、それでちょっと興味持って……って感じで!」
「へえ~、そんなことあったんだぁ……」
「ねえシュウちゃん、自分の気持ちに正直になったら? 文芸部、いってくればいいじゃん!」
「おい、ふとし、なに言ってんだよ!?」
「ほら、むかしポエムだって作ってたでしょ? 『夕暮れの傷跡』だっけ? 『夕暮れとともに旅に出よう さよならの先にあるものを探して……』とかなんとか?」
「それぇっ! 現代文の授業で作らされたヤツだろ!? なんでお前、そんなもん覚えてんだよ!?」
「え? いやあ、ごめんごめん。文芸部の人の前で披露するようなもんじゃ、なかったよね?」
「デブ! このやろう!!」
「ねえ、まって、ステキ! 詩を書くって、ほんとにステキなことなんだよ! ねえ、もしお暇ができたら訪ねてきてね? 気軽におしゃべりしにきてくれたらうれしいな! いっしょにおやつ、食べようよ!」
「おっ、いいですね~! シュウちゃん、いってきたら?」
「だから、ふざけんじゃねえよ……。オレがそんな神聖な空間にお邪魔できるわけねえだろ!?」
「はやく素直になりなよ?」
「い、いかねえっ! オレはいかねえぞ……!」
「うーん、残念! でもいつか、きっと訪ねてきてね? そしたらきっと楽しいよ! 自分の感じたこと、想ったことを言葉にしていいんだよ! 初めのうちはうまく言えなかったり、ぴったりの言葉が見つからなかったりするかもだけど、だんだんできるようになるんだよ! そうして書いたものを誰かに読んでもらって、同じ気持ちを共有したり、まったく別の見方があることに驚いたりするんだ! ねえ、きっと楽しいよ?」
……あれ? シーンとしちゃった?
「シュウちゃん、本気の勧誘もらってんじゃん。ほんとにいかないの?」
「う、うるせえな……。いや、考えさせてください……」
「うん! いつでも大歓迎だよ! ところで……」
メガネの大臣くんの様子がほんとにヘン。
「その……古屋、くん? ほんとに大丈夫? つらいの?」
「あっ、これが素の顔ですよー?」
魔女っ子ちゃんはそう言うけど、ほんとかな?
「あ~、でも最近、ちょっと恋煩いなんですよ~」
「え?」
「えっ、そうなの!?」
「おい、イインチョ! マジいってんのか!? オレ、そんな話、聞いたことねーぞ!?」
「いつも明るくて、手先の器用な子が気になってるんだって! ね、イインチョ!」
魔女っ子ちゃんに肩を叩かれて、大臣くんの頭が、上から重いものを載せられたみたいに下がってく。もしかして……照れてるのかな☆ でもどうして美月ちゃんはゆかりちゃんの肩をバンバン叩いてるんだろう?
『王子様、どういうこと?』
視線で聞いてみたら、景ちゃんはかっこよく肩をすくめた。
「ねえ、大臣くん!」
「……えっ?」
とっても虚ろな目。やっぱり照れてるんだね☆
「大臣くんの想い、叶うといいね」
こんなとき、わたしは自然と両手を胸に当てちゃうんだよね……。
「一途に想ってあげてね? そしたら女の子はとっても嬉しいんだよ……!」
「さっすが、おねえさま! わかってらっしゃる!!」
「おいデブ! なに言ってんだテメー!」
「こらこら。お友だちのこと『デブ』なんて言っちゃダメ! あっ、でも『おねえさま』って呼ばれて、とってもうれしいな!!」
後輩ちゃんたちに囲まれて、わたし、ちょっと浮かれすぎかな? でも、楽しいな! うれしいな!
「実はね……わたしにも恋してほしい人、いるんだ……」
わたしの思い浮かべるその人は、もちろんみよっち。あの『授業』が終わったあと、ふたりっきりになって、ほっとして、緊張がとけて、笑顔になって、でも目もとを赤くして、うるんだ瞳からぽろぽろと涙をこぼしたみよっち。わたしの大切な人。わたしの大切な友だち。
「その人はね、わたしの大切な友だちなの。それでね、考えちゃう。この人は、これからどんな人を好きになるんだろう、どんなステキな男の子に想われるんだろう、って。わたし、楽しみなんだ。わたしの親友がどんな恋をするのか。そしていつか、二人でコイバナしたいんだぁ……!」
……あれ? みんな、どーしたの?
「な、なァ、文村……」
「え?」
「いや、その……あ、やっぱなんでもない」
「ねえ、今枝くん、どーしたの?」
「え!? いや、その、ほんと……なんでもないです」
「あっ、とーこちゃん、かわいいでしょ?」
「はぇ!? あ、そう、はい、そのとおり、そのとおりですね……?」
「ふふ、とーこちゃんとしらゆきちゃんも、とってもイイコだからね! だからわたし、二人にもステキな恋してほしいな~って思ってるんだ~」
「そうですよね~! それ、私たちにお任せくださ~い!」
「もぉ、ゆかりんたら!」
「さっすが藤沢さんだよね! 頼りになるぅ~」
「悶えてんじゃねーぞ、デブ……」
……あれあれ? いつのまにか古屋くんが真っ白な灰みたいになってる? もぉ~、照れすぎだよぉ~☆
今日は後輩ちゃんたちとたくさんお話しちゃった! みんなステキな子たちだったなぁ! 楽しかったなぁ! そういえばとーこちゃんは最後まであんまり話さなかったよね? でも話してる人をまっすぐに見つめてた。とーこちゃんって、いつもクラスではそんな感じなんだね! とーこちゃんのクラスでの様子もわかって、うれしいな!
でもなんだろう? なにか引っかかってる? ん~? まだ何か大切なことに気付けてない、そんな感じ?
購買部の前を通り過ぎた。美月ちゃんと景ちゃんと、今枝くんに会った場所。わたしたちの後ろを、とーこちゃんと並んで歩いてた今枝くん。そのときの、ぎこちない歩き方。臆病そうな、でもイキイキしたまなざし……。そういえば末松くん言ってたよね、とーこちゃんの詩が載ってるから部誌を取りに行ったって……。
ん? んん? あれ? もしかして……?
「はっは~ん! おねえさん、わかっちゃったぞ!!」
□ 文村冬湖
「ふふ、とーこちゃんとしらゆきちゃんも、とってもイイコだからね! だからわたし、二人にもステキな恋してほしいな~って思ってるんだ~」
ひなた先輩は最後までノリノリ。
「そうですよね~! それ、私たちにお任せくださ~い!」
ひなた先輩の甘い感じを、みんながあんまり気にしなかったのが不思議だった。初めてのとき、しらゆきは砂糖を吐いたって言ってたのに。でも古屋くんだけは少しこたえたみたいで、ふらふらと雨の吹き込むテラス席の方へ歩いていった。
部室への帰り道。私は残り少なくなったアップルティーのペットボトルを両手に持って歩いている。私の半歩先を弾む足取りで歩くひなた先輩。そのひなた先輩が、急に歩調を緩めたから、私はひなた先輩のとなりを歩くことになる。その横顔を見ると、あごに人差し指をあてて、何か考えごとをしているみたい。
購買部の前を過ぎて、中庭に出たところで、ひなた先輩の顔がぱっと輝いた。
「はっは~ん! おねえさん、わかっちゃったぞ!!」
「え? なんですか?」
「ううん! なんでもなぁ~い!」
ひなた先輩がいたずらっぽく笑って、その足取りが弾むようなものに戻る。
「ねえ、とーこちゃんっ」
「はい」
「実を言うとね、わたし、恋の話って大好きなんだぁ! ね、ステキだと思わない? 誰かが誰かを好きなのって! そんな世界をいつか、ルルック王国でも書いてみたいんだぁ!」
「はぁ」
「でもね、わたし、ほんとは恋ってよく分かってなくて!」
「ひなた先輩にも、わからないんですか?」
思わず、私はそう言っていた。
「あれ? とーこちゃんも興味津々? うれしいなっ! そうなんだよ! 恋ってなんなんだろうね! そういうことを考えるとね! くすぐったくって、この胸が……」
両手を胸の上で重ねる、ひなた先輩。
「うれしかったり、切なかったりして、ドキドキしちゃう……」
目をつむったひなた先輩の、くちびるの端にある微笑みを、私は見ている。
「うん、きっとこれが入り口だよね。自分の心の中にまだ自分の知らない自分がいて、それがこんなにもわたしの胸をドキドキさせちゃうの!」
目を開けて、夢見るような瞳で、ひなた先輩が私を見た。
「でもね、わたしがこんなこと言ってたってナイショだよ? みよっちはこういうお話、苦手みたいだし。あ! 茜先輩にはいちばんナイショだよ! 恥ずかしいもん! ねえ、一緒に考えようね、恋のこと! そしていつか……ふたりで秘密のコイバナしようねっ!」
そう言って、軽い足取りで歩いていくひなた先輩。恋ってなんなんだろう? それはお父さんとお母さんを結び付けたもの。そして姉さんをしあわせにするもの。だから私も知りたい。恋のこと。ひなた先輩より少し遅れて歩きながら、私はそんなことを考えていた。
「たっだいま戻りましたぁ!」
いつものように、元気に声を張るひなた先輩の後ろから部室に入る。
「……?」
そのときの、一瞬の印象。かすかな……ほんのかすかな違和感。その正体を見つけようとして部室を見回す。でも、尾を引く残り香のようなそれは、私が追いかけようとした瞬間に、跡形もなく消えてしまう。
「おかえりなさぁい!」
しらゆきの声が私たちを出迎えて、
「どうだった? とーこのとしらゆきのクラスの子たちは……?」
茜先輩の声も聞こえてくる。
「はいっ! とってもステキな子たちでしたよぉっ!」
ひなた先輩が答えて、部室の中はいつもの部室に戻っていた。一瞬の印象は、それにこだわるきっかけもないまま、日常の中にまぎれてしまった気がした。
校庭を望む、正面玄関の軒先。私は姉さんが来るのを待っている。校庭の灯りを映す水たまり。私はもっとよく見てみようとして、雨の降る中に出る。水たまりの中に、灯りを揺らす水影の花火がいくつも打ちあがって、風のつくるさざなみと雨粒のつくる波紋が、お互いに干渉することなく幾重にも広がって消えて、また広がっては消えていく。私はそれを見ていた。
「とーこ」
後ろから声がして、振り返るとそこにしらゆきがいた。手に合羽を持ったまま、私のところにやってくる。
「どうしたの? 濡れてるよ?」
そう言いながら、私のセーラー服の襟にそっと触れる。
「うん、水たまりが……花火みたいだなって思って」
私は、考えていたことをそのまま口に出していた。しらゆきは何も言わない。
「しらゆき?」
しらゆきが、私の目をまっすぐに見ている。
「……ねえ、とーこ。あたし、恋愛小説、書くから」
「え? うん」
「だから……ねえ、とーこ。お願いがあるんだけど……」
改まってどうしたんだろう? そう思って、からだごとしらゆきの方に向き直る。
「いちばん最初に、読んで、ね?」
真剣なしらゆきの表情に、少しだけ違和感を覚える。
「うん。いいよ?」
「……ありがと」
大真面目にお礼を言うしらゆきが、なんだか大人びて見えた。
「ねえ、しらゆきは……」
私は自分が何を言おうとしているのか分からないまま、言葉を継いだ。
「好きな人って、いるの?」
しらゆきははっとして、それからじっと私を見た。
「……うん。いるよ」
この生真面目な表情のしらゆきを、私はどこかで見ている気がする。
「好き、なんだ。好きで好きで、好きすぎておかしくなっちゃいそうなくらい、好きなんだ……」
しらゆきがそう言っている間だけ、雨の音が途切れた気がした。私は知らなかった。しらゆきに、そんな人がいたこと。それはどんな人? 想像しようとして、でもそれはすぐに途切れる。私の想像の届かない場所にいるしらゆきが今、私の目の前にいる。
「な、なあんちゃって! ちょっとそうゆうこと、言ってみちゃったり!?」
しらゆきがぱあっと笑った。いつもの元気な、でもどこか空元気のような、そんな笑顔で。
「とにかく頑張って書くからね! 読んでね! じゃっ!」
しらゆきは手を振って、雨に濡れながら、自転車置き場の方へ駆けていく。
「うん、バイバイ」
しらゆきの後ろ姿に、私は小さくそうつぶやいた。なんだかぼーっとする。雨の音がする。たしかに聞いたはずなのに、幻聴だったような、聞き間違いだったような、そんな気もしてくる。
――好き、なんだ。好きで好きで、好きすぎておかしくなっちゃいそうなくらい、好きなんだ……。
しらゆきの中にいる、私の知らないしらゆき。私は少しだけ胸が苦しくなって、ほっと息を吐いた。雨が降り続いている。もうすぐ姉さんが迎えに来てくれる。少しずつ姉さんが近づいてくる。雨の降る中、私はその気配を感じていた。




