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新百合ヶ丘高校文芸部☆  作者: m8eht
雨の季節編
59/67

第20話 「誰かが誰かを」2

▼ 高原莉香子


 目が覚める。ベッドを出て、私のルーティンが始まる。部屋の姿見に、寝間着を着た私の姿が映る。しどけないこの姿。しらゆきに見せたい。

 鏡越しに机の上の台本が目に入る。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』。今度の夏の発表会で、演劇部がやる題目。私が演じるのは、いっときの熱狂と妥協に一生をからめとられる美貌の女。馬鹿みたい。私との共通点といえば『美貌の』というところだけ。人差し指で下唇に触れる。見てほしい。私の熱はこんなにも長くこの胸に在って、絶対に妥協を許さない。でも、演じてあげなくもない。一年生で準ヒロイン。この立ち位置は悪くない。

 バスルームでシャワーを浴びる。水が滴って、ぬらぬらと灯りをはじく私の体。両腕に抱けば、押さえつけた乳房のあふれそうな感じ。きつく、悩ましく。官能的ってこういうこと。

 今日は私の大切な日。しらゆきとデートの約束をした日。片想いのしらゆきに、片想いする私。ちゃんと演じきれたら次につながる大切な役。だから大切に演じていく。

 香水を指先に落として、こすって、耳の裏に触れる。ほら、しらゆき。これが私のにおいだよ。覚えてね、なんて。

 玄関の扉を開けて、雲の立ち込めた重たい空の下に飛び出していく。水浸しになった地面。でも私の心は弾んでいる。これから私はしらゆきの視界に入っていく。そこが私の舞台。しらゆきが私を見てくれるなら、きっと私は最後まで演じきれる。

 ぬるついた雨粒が乾いて、白くこびりついたバスの窓。そこから見える灰色の街。しらゆきのことを考えると、色彩が私の気分にそぐわない。でも、このミスマッチなところ、私は嫌いじゃない。

 駅前のバス停で降りると、しらゆきが私を待っていた。

「しらゆきぃ~」

「リカコぉ~」

 駆け寄っていつものあいさつ。

「どうしよ?」

「ちょっと座ろうよ、ほら」

 駅ビルの一階に入るカフェを指さす。バス停のひさしの下から出て、しらゆきは傘を開いた。私は開かない。しらゆきの傘に入る。

「あいあいがさ~」

「こらこら」

 そのまま並んで、私たちは歩き出す。

 ――私、まだ、あなたのことが好きなの。

 あんなことを言ってしまった後でも、こんなふうに二人っきりでお出かけできる。それが私としらゆき。それは変わらない。ずっと変わらない。誰にも――しらゆきにも――変えられない。だって、親友ではあるでしょう? 誰が何と言おうと。これから恋人になるけれど。親友と出かけて何が悪いの? 親友と二人で街を歩くだけ。それは悪いこと? そんなわけない。

 カフェに落ち着いて、ゆっくりとしらゆきの顔を見る。

「なーに?」

「んーん?」

 今日のしらゆき。かわいい。厚手の白いシャツにデニムにスニーカー。ボーイッシュにまとめた中に、いつもの白いリボンで結ったポニーテールが女の子を主張してる。この外し方、本当に私の好み。思わず頬が緩む。

「ど、どーしたの?」

「ん? んふふ、なんでもない」

「そう?」

 しらゆきの前にあるのは無糖のアイスコーヒー。子供っぽく見える背伸びの仕方。しらゆきは私を夢中にさせる天才。

「あ、そーだ! まーちゃんたちに、しらゆきの小説が載った部誌、配っといたからね~」

「しょ、小説って……。う、うん、感想きたもん」

 しらゆきの部誌の話。この話をするのが少し遅れてる。クラスが離れて共通の話題が少ない。私さみしいよ、しらゆき。でも、この距離感をうまく扱えば、それはきっとプラスに働く。私なら、それができる。

「てゆか、めっちゃ恥ずかしかったよぉ! リカコが朗読したときさぁ。本当に顔から火が出ると思ったもん」

「そうお? 楽しんでもらえたんなら、光栄なんだけど?」

「ほんともぉ~」

 しらゆきが笑う。私は時間を忘れて見惚れそうになる。

「でもリカコ、あれって即興だったんでしょ? 即興であれだけやれるってすごいね! さすが演劇部!」

「まあね~!」

 即興だと思われてた方がいいのか。それともいつかしらゆきの前で読んであげたくて練習してたって知ってほしいのか。自分の気持ちが分からない。けど、このふわふわした感じ、恋って感じがして、いい。もっとこうゆうこと、考えてたい。

 そんなことを考えて、つい口が滑る。

「それで? どーなの? コハルちゃんはコノハナ姫とうまくいってるの?」

 笑顔を作って――それは完璧な笑顔のはず――しらゆきをじいっと見る。コハルに自分を、コノハナ姫に文村冬湖を反映して書かれたしらゆきの小説。すぐに割って入ることはできない。でも、方法がないわけじゃない。きちんと段階を踏んでいけば、きっと私はたどり着く。そう信じるし、そうとしか思えない。

「えっと……うん。ちょっとずつ。ちょっとずつ、ね」

「ちょっとずつ? なにがちょっとずつ、なの?」

 普通なら、こんな怪しい立ち位置の人間を、自分の大切な部分に踏み込ませたりなんて、しないはず。

「ねえ、話して。応援させてよ」

 でも、私はしらゆきを知っている。しらゆきは私を受け入れる。話を逸らしたりなんてしない。こんなときにも誠実であろうとしてしまう。

「う、うん……」

 しらゆきはコーヒーを一口飲んだ。気持ちの整理? そう、整理して。そして私に聞かせてよ、しらゆきの心に在るもの。しらゆきの心に在る言葉。私、それが知りたいの。それは私にとって、とっても大切なものだから。とっても大切な……ヒントになるから。

「あの、ね」

 しらゆきが私を見た。瞳の中の怯えた色。でも視線はあくまでまっすぐ。私、知ってる。私、これ知ってる。しらゆきが本音を言うときの表情。私、これ、大好き。

「今は、さ……言葉を探してる感じ、なんだよね」

「言葉を探してる?」

「うん。ちょっとずつ自分の気持ちに言葉をあてはめてみて、そうかな、ちがうかなって、いろいろ考えて。自分の気持ちにぴったりな言葉、見つけたいって思って……」

「なにそれ? 恋、じゃないの? 好きです、じゃないの?」

「うん……そうなんだけど。でもさ、なんか探しちゃうんだ。自分の気持ちにぴったりな言葉。そりゃ『恋してる』って言って『とーこ、好きだよ』って言えたらいいと思うよ? でも、まだ探しちゃうんだ。とーことの思い出を積み重ねるたび、自分の気持ちもちょっとずつ成長していく気がして。だから探したいんだ。自分の気持ちにぴったりな言葉。そして、それをとーこに伝えたいんだ」

 ……笑顔崩れてない? ひきつってない? そればかり気になる。どうして私の前でそんなこと言うの? でも、言わせてるのは私。それでも心臓は勝手にきゅってなる。からだがウェットな演技を求め始める。でも、まだ早い。涙が意味を持つのは、自然な流れの中で気持ちの動くタイミングに合わせられたとき。いま泣いても、しらゆきをびっくりさせるだけ。道化にしかならない。

「そっかそっか。それじゃ、ゆっくり育てなきゃね。しらゆきの気持ち……」

 でもねえ、しらゆき。よく考えてみて。それって本当は誰に対する気持ちなの? 文村冬湖? 本当に? てゆか誰それ? 忘れて? ねえ私、私でしょう? しらゆきが文村冬湖に捨てられたとき、また一人ぼっちになったとき、私がしらゆきのこと、後ろから抱きしめてあげる。そのときは私を拒まないで。受け入れて。私の腕の中からいつまでも逃げないで。わたしへの気持ちを言葉にして、私に伝えて……。

「リ、リカコ?」

 目の前にしらゆき。心配そうに私の顔をのぞきこんでる。ちょっとぼーっとしてた? 早く戻らないと。

「あっ、うん、そうね。しらゆき、がんばらなきゃね……」

 口の中が苦い。そんな錯覚。でも演技プランから外れるとよくないことが起こる。それだけは分かる。大きめのパフェを注文して、細くて長いスプーンでついばむ。甘い。そんな私を、しらゆきが見てる。

「しらゆき、さ。とーこちゃんともこういうお店、来たことあるの?」

「う、うん」

 ――とーこちゃんもこういうふうにパフェを食べてた?

 そう。きっとそう。私といるときに、しらゆきは文村冬湖を想ってる。でも、それならそれでいい。この悲恋はいつか、歓喜の涙といっしょにしあわせな結末を迎えるから……。

「リカ、コ?」

「え、あ、うん。それで、何の話だっけ?」

 物思いにふけりがち。会話は途切れがち。しらゆきも居心地が悪そう。でも……しょうがないよね。これは罰だから。しらゆきが私を不安にした、その罰なんだから……。

 でも、しらゆきに嫌われたくない健気な私。空気を換えないと、と思ってみる。あまったるいバニラアイスを口の中で溶かして、舌に魔法をかける。はやく嘘吐きになあれ……。

「……」

 しらゆきの胸に視線を這わせてみる。ふざけて抱きしめたときの感触が、まだ私の胸に残ってる。あのとき、しらゆきはスポーツブラだった。

「ちょ、ちょっと! どこ見てんのぉ?」

 あくまで朗らかに。明るい話題に転換するきっかけをつかんだしらゆきの、明るい声が好き。

「んーん? べっつにぃ?」

「そお?」

 アイスコーヒーを口に含むしらゆき。少し意地悪したくなる。

「ところでしらゆきってさ、とーこちゃんのお胸に注目してたりするの?」

「んぐっ! し、してないよ!」

「ほんとかなぁ? だといいけどねえ?」

 いじわるに笑ってみせる。私が自分のことを棚に上げても、しらゆきはそこに突っ込んでこない。本当にやりやすい。やっぱり、からかうなら、しらゆき。

「もぉ……」

 紙ナプキンで口もとを拭うしらゆき。そのくちびる。

「もうキスした?」

 むっとした顔をつくるしらゆき。

「し、て、な、い、よ!」

「そ? ごめんごめん」

 笑って。私は笑って。

「ねえ、しらゆき。ブラ、買いに行かない?」

「へえっ?」

「しらゆきってさ、まだスポブラ普段使いなんでしょ? せっかく美乳なんだからさ! しらゆきに合うブラ、探してみよ?」

「い、いや、いいよ、そんなの、探さなくていいよ!」

「いいからいいから! 私が見つけてあげる!」

 行くところができたね、しらゆき。さ、行こう!


 エキナカのショッピングモール。女性用衣料品の店舗が並ぶそのいちばん奥にある下着の専門店。店の外からでもカラフルな下着が並んでいるのが見える。そのたたずまいを見てしらゆきの足が止まる。

「ねえ、リカコ。あそこ?」

「そうだよ?」

「あ、あたしにはまだ早いんじゃないかなっ?」

「そんなことないよ」

 自然にしらゆきと手をつなぐ。しらゆきの気後れ、私が振り払ってあげる。

「むしろ遅いくらいだよ。ほら、いくよ?」

 しらゆきの手を引いて、店内へ。

「いらっしゃいませぇ! あ、莉香子さん!」

 顔見知りの店員が近づいてきて、後ろから驚きの気配がする。そうだよ、しらゆき。もう十五歳なんだよ。行きつけのお店がなくてどうするの?

「今日は友だちのを買いに来たんです~。この子、こういうお店初めてで!」

「そうなんですか~」

 店員の視線が、わかりやすく固まってるしらゆきに移る。

「ではまず、サイズをお測りしますね~」

「え、え?」

 訳も分からず、店の奥の採寸室に連行されるしらゆき。採寸の準備を始めた店員の背中を眺めながら、いたずら心がうずく。

「あれ? どしたの、しらゆき?」

「え?」

「脱がないの?」

「ええっ!?」

「だって、サイズ測るんでしょ?」

「え、でも、そんなの……」

「あ、服を着られたままでも大丈夫ですよ~」

「……リカコ?」

「あれっ、ヘンだな~? 私のときは上、脱いだんだけど」

「そんなのリカコだけでしょ!」

 だって、ちゃんと測らなきゃ。自分にピッタリしないと気持ち悪いでしょ?

「では、こちらへどうぞ~」

「あ、はい……」

 緊張しながら、しらゆきは採寸室の中へ。カーテンで隔てられる、しらゆきと私。中から聞こえる物音に少し興奮するヘンタイな私。

「ねえ、しらゆき。開けてもいい?」

「なんでよ!? だめだよ!?」

「え~?」

 白いカーテンをじっと見つめて想像する。採寸用のメジャーが、スポブラの上からしらゆきの胸にやわらかく食い込んでいるところ。しらゆき、いい。しらゆき、すてき。高校生になって骨格もしっかりしてきたよね。そこにしなやかな筋肉が絡んで、やわらかい脂肪がのって滑らかな肌がそれを包んでいる。私の純情なしらゆきのカラダが、こんなにも官能的なのはどうして? 何かの罠? 私をひっかけるための? だったら早く、早くしらゆきのカラダに溺れたい。

「リカコ……?」

「えっ?」

「リカコが黙ってると不安なんだけど」

「え~?」

 なんだかんだで信用のない私。まあ、いいけど。

「あ、私に下さい」採寸室の中から出てきた店員に手を伸ばす。「私が保護者ですんで」

 笑いながら差し出された紙。

「ちょっと!? こらこら!」

 しらゆきの追及の手を振り払って、じっくりと読んでみる。しらゆきの秘密が書かれた魔法の手紙。

「ねえ、しらゆきって白いTシャツ、よく着てるよね? ベージュにしてみよっか? 透けにくいよ? あ、でも、オシャレなのも欲しいよね? 四分の三のモールド、コットンメインのを試してみる? せっかく美乳なんだから、ちゃんと育てようね!」

「育てるって何……」

 わかってるくせに。ヘンタイのしらゆき。


「ありがとうございました~!」

 店員に見送られて店を出る。しらゆきは右手に持った紙袋を持て余している感じ。

「こ、こんなに買ってよかったの?」

「一つだけじゃ、着回せないでしょ?」

「そ、そりゃそうだけど……あ、レシート……後でお母さんに……」

「なに言ってんの、しらゆき! それ、私からのプレゼント! しらゆきが大人の階段をのぼった記念! そのお祝い、だよ!」

「そ、そんなの、のぼってないけど」

 のぼってるよ。そこは自信もって? いい感じなんだよ、しらゆき。

「でも……」

「たくさん選んで疲れたね! どこかで座ろ?」

 エキナカのレストランでランチ。食事の手を止めて、しらゆきを見つめてみる。

「ど、どーしたの、リカコ?」

「ん? ううん、なんでもない」

 しらゆきと目が合うと、しらゆきの瞳の中に私が映る。そしてしらゆきの椅子の脚に立てかけられた紙袋。そこにはしらゆきの新しいブラが入っている。きっと、どれもしらゆきによく似合うと思う。だって、ぜんぶ、私がしらゆきのために選んだんだから。

 しらゆきに少し、私の色がついた。うれしい。それが、うれしい。ただ、そう思う。

「え? もぉ、なぁに?」

「んーん! なんでもない!」あんまりうれしそうにしてたから、ヘンに思われちゃったかな?「なんでもないったら!」

 あわててフォークにスパゲティを巻き付ける作業に戻る。私の繊細な指先、しらゆきはちゃんと見てくれてる?

「きょ、今日はありがとね。でもリカコ、ちょっといろいろ詳しすぎない?」

「そーお? まあ、これでもオンナノコですから?」

「あ、あたしだってそうだよ!?」

「あはは! そうだっけ?」

 かすかな優越感が胸をよぎる。

「とにかく一通りそろったんだからさ、これからちゃんとローテするんだよ?」

「うん、でも……ちょっと背伸びしすぎじゃないかな~、なんて」

「なに言ってんのぉ! とーこちゃんのために早く『大人の女性』にならなきゃ! そうゆう私の親心だよぉ!」

 あのとき見た、あの光景。夕暮れの校舎の裏で、しらゆきが文村冬湖と抱き合っていたあの光景。これからはあんなことがあっても、もう私を疎外することはできない。だってしらゆきは、私の選んだブラを着けているから。

「ねえ、しらゆき。とーこちゃんをヘンな男に盗られちゃダメだよ?」

「う……うん」

 これは私のおまじない。しらゆきがそれを意識するなら、しらゆきはきっと、そういう未来を引き寄せる。自信を失って、自分の大切な気持ちを隠したまま、誰かに笑顔で、絶対に譲ってはいけないものを譲ってしまう。それでいいの。それでいいんだよ、しらゆき。その傷はすぐに、私が癒してあげるから。


 バス停でお別れ。楽しい時間はあっという間だね。

「私、もう少し、街を歩いてから帰るね」

 家に帰ったからって、何かあるわけじゃないし。

「ねえ、しらゆき。また二人でお出かけしようね? 約束」

「うん。今日はありがとね」

 紙袋を掲げてみせるしらゆき。

「ねえ、しらゆき」

「ん?」

「最近、こんなふうにちゃんと話せてなかったからさ」笑顔の中に真剣さをにじませて「だから私、今日はうれしかった」

「そ、そっか」

「うん」

 バスに乗り込んで、バス停側の窓際の席に座る、しらゆき。やさしいしらゆき。バイバイ。手を振る。バスが少しずつ動き始める。しらゆきがまだ手を振っているのに、視線を切って背を向ける私。別れ際は少しそっけなく。私という余韻が、しらゆきの中で尾を引くように。

 行きつけの喫茶店まで行くのが面倒で、近くのファストフードの店に入る。窓際の席。頬杖をついて考える。浮かれてるようで、沈んでいるような、そんな気分の中で、とりとめもなく浮かんでくる言葉、光景。それらは全部、しらゆきに関係している。

 ――ねえ、しらゆき。私にもチャンスはある?

 そう聞いてみたい。でもダメ。まだダメ。いちばんふさわしいタイミングがきっとあるはずだから。それはいつ? でも、きっと。いつか必ず。私には信じられる。今は、今はまだ……。

 ――まだ、あなたのことが好きなの。

 思い出すと胸に心地よいしびれが。あなた、っていうどこか他人行儀な言葉に、真面目で真剣な感情が見え隠れして、私は背筋を這っていくような歓びを感じる。この言葉は特別なものになった。そんな響き。私はそれを信じる。しらゆきにとってもそうだった。そうでないなら、いずれそうなる。

 チャンスは必ずある。それは一度っきりのものかもしれない。でも私なら。私ならその一度きりのチャンスをものにすることができる。ふふ、嬉しい。それが本当にうれしい。

 ひとつ、またひとつと、窓ガラスにあたった雨粒が、縦に並んだ小さな水滴の列になる。

 斜向かいの女が咳をした。その湿り気のある音が、咽喉に絡む痰を連想させる。不愉快になって席を立つ。店の外に出たとたん、ぬるい風が吹いて髪を散らした。せっかくセットしたのに。でも別にいい。しらゆきにはもう見せたし。

 小雨が降り始めていた。見上げた空には灰色の雲が重たげに流れていく。なんだかつまんない。せっかくしらゆきと一緒だったのに。楽しかったのに。

 さっき別れたばかりなのに、もうしらゆきに会いたくなってる、困った私。

 しらゆきのいなくなった街を、しらゆきを探してさまよう私は、片想いにふさわしい私じゃない? いつか私の指先がしらゆきに届くまでに、そんな日もあったって思い返せれば、私はその瞬間に、もっとそれにふさわしい涙をこぼすことができる。だからしらゆき、いつか必ず、私に恋してほしい。

 私がどんなにしらゆきを傷つけたとしても、しらゆきは誰にも告げ口しない。私のことを知っているから。誰にも相談しない。ぜんぶ自分で、自分一人のからだで、しらゆきのすべてで、私を受け止めてくれるから。だから演じ甲斐がある。しらゆきの心に私は住みたい。そうなったら、それはとても……素敵。

 いつかしらゆきの心に私は住んで、そのときはじめて、演技が演技じゃなくなって、私は本当の私になれる。楽しみだね。本当に楽しみだね。

 ――そうだね。


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