第20話 「誰かが誰かを」1
□ 文村冬湖
朝、私のからだは家を出て学校へ行き、そして夕方になれば家へと帰ってくる。それと同じように、私の意識は姉さんのそばから離れて、いろんなものを見たり聞いたりしたあと、また姉さんのもとへと帰ってくる。私の世界の中心に姉さんがいて、私の足跡は姉さんの周りにいろいろな模様を描く。私のからだもそして心も、すべて姉さんに所有されていて、私の自由になるものは何一つなくて、そうしてそれは私が自ら望んだこと。
もし私が地球なら、姉さんは太陽だと思う。
私は姉さんに引き寄せられて、その周りをまわり続けているから。そしていつだって、姉さんに照らされているから。
夕飯の後片付けを終えた姉さんが、お風呂場の脱衣所へと入っていく。それを見て、リビングでテレビを見ていた私も、頃合いを計って脱衣所へと入る。洗濯籠の中の、姉さんが脱いだばかりの服。触ってみる。あったかい。そして私も服を脱いで、お風呂場の戸を開けた。
戸の方を向いて湯船に浸かっていた姉さんが、私を見る。でも体を隠そうとしない。
昔、姉さんがまだ中学生だったころ。私が姉さんと一緒にお風呂に入ろうとして戸を開けたとき、姉さんは驚いて胸と股とを腕で隠して身をよじったことがあった。それまで何度も一緒にお風呂に入ってたのに、そんなことをされたのは初めてだった。私は姉さんをポカンと見て、そしてぽろぽろ泣いた。姉さんに拒絶されたような気がして、さみしかったから。そんな私に、姉さんはあやまってくれて、なぐさめてくれて、そして抱きしめてくれた。
それ以来、姉さんは私から体を隠そうとしない。姉さんの体はとても綺麗だと思う。線にかどがなくて、やわらかそうであたたかそう。そして実際、やわらかくてあたたかかった。
からだと髪の毛とを洗って、湯船に浸かる。私が入ったから、お湯が少しあふれる。姉さんの方を見てみる。しっとりと濡れた肌。お湯につかって上気した姉さんの頬は、ほんのりと赤く染まって。やさしげな瞳、そっと伏せられている。
「姉さんって……もてる?」
私はそう聞いてみる。姉さんは、ちょっと笑った。
「もてないよ。でも、たっくんにはもててるかも?」
姉さんは遠山さんを『たっくん』って呼ぶ。名前が太樹だから。
遠山さんは……姉さんの彼氏。恋人。姉さんと遠山さんは高校のころからずっと付き合っている。でも、私はまだどこか実感が持てずにいた。姉さんにそういう人がいるということに。
「今日はどうだった? 学校」
「ん。楽しかった」
楽しかったけど、頭を使ってなんだか疲れた気がする。それに今日あったことは、口ではうまく説明できない気もする。でもいい。何も言わなくても姉さんは、きっと全部わかってくれるから。姉さんのいちばん近くは、私にとっていちばん安心できる場所。
今、姉さんに触りたい。そう思った。でも、お湯につかってうっとりしている姉さんを見ていると、どこか手を伸ばせない。だから私も、じっとお湯につかっている。
「……お姉ちゃん、先に出るね」
「あ、うん」
水音とともに姉さんがお湯を出た。濡れた唇から鎖骨のあたり、胸、お腹、少しだけ擦り寄せた太もも、そしてその間にある姉さんの――。
私の目はずっと姉さんの姿を追っていく。私に背を向けて戸を開ける姉さん。その濡れた髪、肩の柔らかな線、背中から腰のくびれ、お尻の丸み、ふくらはぎの丸み、そしてかかとまで。姉さんはとっても綺麗。
一人きりの湯船。さっきまで姉さんが入っていたお湯をそっと自分の肩にかけてみた。そしてその手を、そのまま肩から胸にすべらせる。姉さんのことを思うと、こんなにも幸せな気持ち。でもそれは、どうしてなんだろう?
お風呂から出ると、姉さんがリビングのソファに座って、電話で誰かとお話していた。私はお寝間着に着替えてから、そっと姉さんの隣に座る。そして姉さんの携帯電話に耳を寄せてみる。電話越しに聞こえてくる、聞き覚えのある声。その声は遠山さんのものだった。
姉さんは私が耳を寄せても、いつも遠山さんと話すときの調子で話し続ける。私を不安にしないように。私に隠し事をしないように。
遠山さんの声が、次第に私の中で意味を取り始めた。週末、会おう。そう言ってるみたいだった。試験の準備で忙しくなる前に会いたいし。そうも言ってるみたいだった。
「うん、りょーかいっ!」
了解という言葉を使う姉さん。声の感じも、私が普段知っている姉さんとは違う。お風呂上りの火照った頬。私にはそれが別の意味に見えてしまう。お寝間着の一番上のボタンを留めてない姉さん。ただそれだけのことなのに、私には姉さんが緩められて解かれたように見えてしまう。私の胸が騒いでいる。姉さんにそっと寄り添って、その不安を拭おうとする。姉さんのからだは私にとって、どんな不安も溶かしてくれる優しいお薬。
じゃあ、またね。そんな言葉を交わして、やがて電話は切れた。姉さんと私のあいだに沈黙が生まれる。遠山さんは今、隣の県にある大学に通っている。その遠山さんが姉さんに会いに帰ってくる。きっと、そう。そう思って。
「……デート?」
そう聞いてみる。
「……うん」
なぜか姉さんは後ろめたそうにする。そしてぎこちない笑顔を作る。でも、瞳の光は消せない。瞳の奥にある静かな、でも確かな光。そんな姉さんを見て、私は聞いてみた。
「姉さん。遠山さんのこと……好き?」
「……うん。好き、だよ」
少しはにかんで、姉さんはそう答えた。私の大好きな姉さんの、私の大好きな表情のひとつ。はにかんで、笑う姉さん。私のことでそういう表情をしてくれればいいのに。胸がちくりと痛んで、そして私は聞いてみたくなる。
『私と……どっちが好き?』
そう聞きたい。聞いてみたい。でも、聞けない。なぜか聞けない。口から言葉が出てこない。心が前に進もうとしない。どうしてだろう?
姉さんは黙ってしまった私の肩を抱き寄せた。お風呂上がりの姉さんのいいにおいがして、少しずつ、心が落ち着いていく。やっぱり姉さんのそばは、私にとっていちばん安心できる場所。そう感じた。
自分の部屋で、私はぼんやりしていた。何かをしようとして、でも何も手につかない。そして私は頭の中でぐるぐる考える。
出会って、恋に落ちて、結婚して、夫婦になって、生涯を共にする。そんな世界を、私はまだ知らない。美夜子先輩の授業の中に出てきた『夫婦』という言葉が、私の頭の中に刻み込まれたみたいに残っていた。カバンからひなた先輩のテキストを取り出して表紙をめくってみる。ページをめくりながら、今日、美夜子先輩の教えてくれた詩を読み返していく。
二番目の見開きにある写真を一つひとつ、よく見てみた。智恵子さんが街を歩くときにも、ふところに入れて愛撫していたという小さな木彫の写真。鷽、桃、柘榴、蝉……。一つひとつ、指で押さえながら見ていく。
そしてまたページをめくる。
三番目の見開きには、あの暗い夜の詩があった。でもなぜかこの詩は、明るい色の綺麗な切り紙細工に囲まれている。どうしてだろう? 詩のイメージと合ってない気がする。授業のとき、そんなふうに思ったのを思い出す。
そしてまた、最初の見開きに戻ってくる。セザンヌ。智恵子さんの憧れた人。白い果物皿の上に載った白と黄色のまだら模様のリンゴたち。そしてその果物皿の下に敷かれた、まるで風にちぎられた雲のような、幾重にもしわのある白いテーブルクロス。題名は『静物』。そんな絵のとなりに、おひげを生やした凛々しい顔と、丸っこい可愛らしい顔の並ぶ写真が載っていた。それが光太郎さんと智恵子さんだった。
じっと見てみる。じっと見てみて、そして考える。
恋をするって、どういうこと? そしてその先にある夫婦という関係。私は何も知らない。遠山さんの話をするときの姉さん。はにかんだその笑顔。私には姉さんの気持ちが分からない。
『どこまで知っていれば、その人のこと「知ってる」って言えるの?』
茜先輩が今の私にそう聞いたとして。私は……姉さんのことを知ってる? ちゃんと知ってるって……言えるの?
姉さんと私が今まで積み上げてきた思い出が、手を伸ばすより早く通り過ぎていく。昔のこと。そして、お母さんのこと。私が姉さんのことを失いたくないと思うのはどうしてなんだろう?
部屋の灯りを消して、ベッドに横になる。そして考え続ける。恋、結婚、生涯を共にして、ふたりはずっとしあわせで……。指先に木彫りの鯰の感触がよみがえって、この部屋のどこかで盥の水の跳ねる音がして、窓の外では雨が、降り積もった雪の上に降っているような気がして……。
夫婦。夫婦ってなんだろう? 高村光太郎さんと智恵子さんは夫婦だった。夫婦は結婚した二人がなるもの。
結婚? でもどうして結婚するんだろう? 例えばお父さんとお母さん、文村秋俊と文村夏帆。二人はどうして結婚したの? やっぱり恋をしたから? うん、そう。きっとそうだと思う。
姉さん。じゃあ姉さんは? 姉さんは遠山さんと夫婦になるの? 夫婦になったら二人でいて、雨の夜にふたりで死ぬときのことを想って、そういうお話を、するの?
眠れない。眠れなくて、考える。でも、夢を見ているような気もする。わからない。わからないことばかり。知らないことばかり。姉さんさえいれば、私は大丈夫。それなのに、そうじゃなくなったら? 私はどうしよう? どうすればいいんだろう……?




