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新百合ヶ丘高校文芸部☆  作者: m8eht
雨の季節編
57/67

第19話 「授業/詩の周辺」

☆ 牧野ひなた


 前を歩いてるみよっちの背中、じっと見てると音が聞こえてくるみたい。ドキドキ、ドキドキ……って、みよっちの心の音が聞こえてくるみたい。しらゆきちゃんととーこちゃん、並んで席に座ってる。聞き耳たてた子猫ちゃん、並んでお座りしているよ。かわいいね、大好きだね、みよっち! 茜先輩は保護者席? とっても素敵なお母さん!

 みよっち、雨の音がするね。拍手の音みたいだね。元気の出るマーチみたいだね。心が落ち着くね。

『雨の日は、好き。みんなと一緒にいられるから』

 なんだかなつかしい言葉、思い出しちゃうね。

「はい、みなさん! 今日はみよっち先生の授業がありますよ~!」

 高らかに宣言しちゃう。受け止める二人の視線。『私たちに何ができるんだろう?』その答えを今、わたしとみよっちは出そうとしてる。

「はいっ! わたし特製のテキストだよ~! 今日の授業で使いま~す!」

 しらゆきちゃんととーこちゃん、それに茜先輩にテキストを配って準備完了! みよっちは教壇に立って、わたしは黒板のわきの椅子に腰かけて。ドキドキ、わたしもドキドキしてきたよ!?

「きょ、今日は……」

 少し言いよどむみよっち、とっても緊張してるみよっち。でも……がんばって!

「今日は、一つひとつの詩の周りに、どんな世界があったんだろうって……そういうお話をしようと思います」


□ 文村冬湖


 教壇に立った美夜子先輩は私たちと視線を合わせようとしなかった。それはたぶん、緊張しているから。

「きょ、今日は……」

 話し始めた声が震えている。でも次の瞬間、そんな自分の弱気を振りほどくように、きゅっと口もとを引き締めて、それからまた話し始めた。

「今日は一つひとつの詩の周りに、どんな世界があったんだろうって……そういうお話をしようと思います」

 そこまで言って、美夜子先輩は私たちを見回した。私とも目が合う。少し心の余裕ができたみたいに、表情が柔らかくなる。そして美夜子先輩はチョークを手に取って、黒板に文字を書いた。

『高村光太郎・智恵子』

 それだけ書くと、美夜子先輩は私たちの方に向き直る。

「詩だけを読んで想像してみるのも素敵だと思います。でも、その詩の周辺にどんなものがあったのか、それを知っていると、その想像にもっと血や肉を持たせることができるんじゃないかなって思うから」

 そしてまだ少しかすれたままの声で話し始めた。

「それじゃあ……聞いてね」


★ 宮守美夜子


 今日は一つひとつの詩の周りにどんな世界があったんだろうって……そういうお話をしようと思います。

 詩だけを読んで想像してみるのも素敵だと思います。でも、その詩の周辺にどんなものがあったのか、それを知っていると、その想像にもっと血や肉を持たせることができるんじゃないかなって思うから。

 それじゃあ……聞いてね。

 大正十五年、二月。今から九十年くらい前のこと。東京郊外の野原の真ん中に木造二階建ての一軒家があって、そこには一組の夫婦が住んでいました。

 夫の高村光太郎さんは彫刻家、妻の智恵子さんは画家。ふたりは共通の友人の紹介で知り合って、お互いに恋に落ち、そうして結婚しました。結婚してからは、二人はそれぞれ自分の制作を続けながら、夫婦として暮らしていました。

 夫の光太郎さんは、詩も書いていました。それは彫刻の純粋を守るため。どういうことかというと……テキストの表紙をめくって、最初の見開きを見てください。そこに二つの彫刻の写真があると思います。一つは『サーカス』、もう一つは『老人の首』という作品です。

 彫刻で自分の制作を始めたばかりのころ、光太郎さんは右側の『サーカス』のような彫刻を作っていました。サーカスの演目を猛特訓する中、叱られている女の子を男の子がかばっている、そういう一場面を彫刻で表現した作品です。でも、いつしか光太郎さんは、彫刻にそういった文学的なストーリーを持たせることは、彫刻の本質から外れたものじゃないかと思い始めました。

 彫刻の本質は、対象そのもの、対象の本質を捉えて、それを木や粘土で表現することにある。光太郎さんはそう考えて、自分の彫刻から文学的な要素を排して、やがて『老人の首』のような作品をつくるようになりました。光太郎さんが後に遺した文章によれば、この作品のモデルになった人は、光太郎さんの家に花を売りに来るおじいさんで、光太郎さんはそのお爺さんの『江戸時代の顔』に惹かれたそうです。

 彫刻とは、対象の本質を捉えて、それを木や粘土を用いて表現すること。光太郎さんは自分の彫刻をそういうものにしようと、その道を歩き始めました。でも、もともと光太郎さんは文学的な素養も備えた人でした。だからいつも心の中には表現物に文学的な要素を盛り込もうとする意図があって、それはどうしても心を去ってくれません。ですから、光太郎さんは詩を書くことにしたんです。文学的な意図を彫刻から切り離して、彫刻の純粋を守るために。そしてそれは、自分が彫刻の本質だと思うものを守り、自分の中にある文学の芽を育てることになったんです。

 そんな光太郎さんにとってかけがえのない人がいました。妻の智恵子さんです。智恵子さんは画家。絵を描くことと純粋に真剣に向き合う人でした。セザンヌの絵が大好きでした。一個の芸術家として自立したいという情熱を持ち、絵に打ち込んでいました。

 そして智恵子さんは、光太郎さんにとって最大の理解者でした。光太郎さんは自分の作品に注がれる智恵子さんの優しいまなざしを励みにして、自分を信じて、自分の創作活動に打ち込むことが出来ていたんです。

 そんな光太郎さんは、智恵子さんとの日常を、数々の詩にしました。その中の一つを紹介します。


「金」

工場こうばの泥を凍らせてはいけない。

智恵子よ、

夕方の台所が如何に淋しからうとも、

石炭は焚かうね。

寝部屋の毛布が薄ければ、

上に坐布団をのせようとも、

夜明けの寒さに、

工場の泥を凍らせてはいけない。

私は冬の寝ずの番、

水銀柱の斥候ものみを放つて、

あの北風に逆襲しよう。

少しばかり正月が淋しからうとも、

智恵子よ、

石炭は焚かうね。


 光太郎さんがこの詩を詠んだのは、大正十五年の二月、遅い冬のことです。

 光太郎さんは彫刻家。木彫の他にも塑像、つまり粘土の像も作っていました。きっと夜のアトリエで、寝ずの番のための支度を整えながら、お金がないことをふと自嘲気味に言ってみたくなったのかもしれません。石炭をたいて、温かくした部屋で、それでも少し寒いから、上から丹前かコートを羽織って。

 テキストに当時の石炭ストーブの写真を載せておきました。半球の頭と円筒の胴を持つ、黒ずんだ小さな炉のようなものがわかりますか? 小型の石油ストーブ、あるいはSF映画に出てくる小型ロボットを黒く塗ったもののようにも見えますね。

 そしてその下が『凍み』の写真です。写真をよく見てください、粘土の表面に白っぽいまだら模様ができているでしょう? これは粘土の中にある水分が凍ってできたもので、こうなってしまうと粘土は可塑性、つまり柔らかさを失って、それ以上、形を創ることができなくなってしまうんです。だから石炭をたいて部屋を暖かくしてないといけないんです。

 この詩を書いたとき、光太郎さんの心の中には、智恵子さんに対して苦労を掛けてすまないなって気持ちがあったかもしれません。それと同時に、自分の作品を大切にしていきたいという気持ちと、その気持ちを智恵子さんに共有してほしいという気持ちも。それから……もしかしたら自分にはこれしか、彫刻しかないという気持ち、そしてそれを自分に言い聞かせるような気持ちも。

 智恵子さんはそんな光太郎さんのいちばんの理解者で、そんな光太郎さんのことを、あ、愛して、そして一緒に暮らしていたの。とっても……仲睦まじい夫婦だったのよ?


☆ 牧野ひなた


「とっても……仲睦まじい夫婦だったのよ?」

 ……はい! ここで一息いれよう! すべりだし、おっけえ! 順調だよ、みよっち!

 カラーでプリントした紙を折って束ねて、ホチキスで閉じて、ホチキスの芯を色付きのテープで隠して、そうして出来たのが、みよっち先生のための特別なテキスト! わたしの自信作なんだよ!

 二人の方を見たら、しらゆきちゃんと目が合って、視線のメッセージが届いたよ!

『え、マジですか!? これってマジですか!?』

 しらゆきちゃん、突然の展開に驚いてる?

『まぁじだよぉ!』

 視線でお返事しちゃう! しらゆきちゃん、みよっちセンセイのこと、受け止めてほしいな!

 とーこちゃんは? とーこちゃんは、わたしのテキストとみよっちを交互に見比べてる。仕草がやっぱり子猫ちゃんみたいでカワイイ! あっ、目が合った! とーこちゃんとも視線で会話しちゃうぞ!

『ねえ、どーかな、とーこちゃん! 私のみよっち先生は!?』

 なんだかうつむいちゃうとーこちゃん。そんな仕草もカワイイ!

 さてさて、お次は!? これからどーなっちゃうのかな!? それゆけ、みよっち先生! がんばれ、みよっち先生☆


□ 文村冬湖


「とっても……仲睦まじい夫婦だったのよ?」

 美夜子先輩の言葉が途切れると、雨の音が小さく聞こえはじめる。部室の中はなんだか割り切れない不思議な雰囲気になる。美夜子先輩が話しはじめたとき、美夜子先輩の書いた小説のことが頭に浮かんだ。それは語り口の雰囲気がよく似ていたからだと思う。

『みよっち先生の特別授業』

 そうカラフルな色鉛筆で書かれた表紙をめくった先の見開きに、詩と写真数葉とがあった。右側のページには、今、美夜子先輩の朗読した詩がひなた先輩の字で書かれていて、左側には光太郎さんと智恵子さんの肖像、『サーカス』、『老人の首』、『セザンヌ「静物」』という注釈の付された絵、石炭ストーブ、粘土にできたまだら模様、それぞれの写真が載っている。

 顔を上げると、美夜子先輩と目が合った。いつもと少しだけ違う美夜子先輩がそこにはいた。すっとまっすぐ通った視線の奥、その瞳の中に、どこか臆病な光があるような気がして。その光は……よく分からないけれど、私を引き付けているような気がする。

 部室の脇の方に座るひなた先輩とも目が合う。にこにこ笑って、そしてそのままじーっと見つめられる。視線で何かを伝えようとするみたいに。なんだか気恥ずかしくなって、視線を落とす。でも、きっとこの授業をいちばん楽しんでいるのは、ひなた先輩。なんとなくそんな気がした。

 となりのしらゆきを見てみた。しらゆきはまっすぐに美夜子先輩を見ていた。そして力強く二度うなずく。上目遣いに美夜子先輩の方を見ると、美夜子先輩の表情が少し緩んでいた。

「智恵子さんの日常には、いつも光太郎さんがいました」

 そしてまた部室の中に、美夜子先輩の言葉が響いていく。


★ 宮守美夜子


 智恵子さんの日常には、いつも光太郎さんがいました。そして光太郎さんの作品も。

 緑豊かな東京郊外の街を、智恵子さんが歩いていきます。そのふところには、光太郎さんの木彫の作品が入っていました。例えば、鷽、桃、柘榴、蝉……。時々、そっと触れたり、その輪郭を指でなぞったり、やさしく握ってみたり、そんなことをしていたんです。そして光太郎さんは、自分の作品をそんなふうに智恵子さんに愛撫してもらえるのがうれしくて、受け止めてもらえるということのしあわせを感じていたんです。

 もっと智恵子さんに見てほしい。触れてほしい。

 智恵子さんが光太郎さんに注ぐ視線が、そのまま光太郎さんの自信と勇気と、そして前へと進む力に変わって、夜の更けていく静けさの中で、またコツコツと木を削っていく。光太郎さんはそんな日々を送っていたんです。

 そんな一夜を詠んだ詩があります。読んでみましょう。


「鯰」

たらひの中でぴしやりとはねる音がする。

夜が更けると小刀の刃がえる。

木を削るのは冬の夜の北風の為事しごとである。

煖炉に入れる石炭が無くなつても、

なまづよ、

お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。

檜の木片こっぱは私の眷属けんぞく

智恵子は貧におどろかない。

鯰よ、

お前のひれに剣があり、

お前の尻尾に触角があり、

お前のあぎとに黒金の覆輪があり、

さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、

何と面白い私の為事への挨拶であらう。

風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。

智恵子は寝た。

私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、

研水とみづを新しくして

更に鋭い明日の小刀を瀏瀏りゆうりゆうと研ぐ。


 ページをめくってみてください。見開きの右側に、今、読んだ詩が載っていますよ。

 詩の中に出てきた覆輪ふくりんというのは、馬の鞍のふちを金銀などで覆って飾ったもののこと。ここでは鯰のあぎと、つまりあごの縁取りの形容ですね。ほら、漫画などでデフォルメされた鯰を見たことがあるでしょう? その絵で、まるで分厚い唇のように描かれている、あの部分です。左側のページに馬の鞍と鯰の写真を並べて載せておきました。見比べてみてくださいね。

 真夜中に工場こうばで仕事をする。夜のしじまにコツコツと木を削る音がする。その音は、かえって静けさを強調して、手を休めて光太郎さんは、家の中に智恵子さんの存在を、その寝息を感じているんです。そしてまたコツコツと木を削り始める。自分の全部で光太郎さんの生み出すものを愛してくれる智恵子さんのために。

 ……さて、ここで二人に見てもらいたいものがあるんだけど、さ、何だと思う? ひなた、お願い。


☆ 牧野ひなた


「ひなた、お願い」

「はいはーい! まっかせてぇ!」

 ここでわたしの出番だね! そうそう、そうだよ! とっておきがあるんだよね、みよっち!

「よいしょっとぉ!」

 それを手に持つと、手がぬるぬるしてくる気がするよ! 不思議なぬめり、不思議な木肌。そしてそのまま二人の前に置いちゃう!

「こ、これ!? もしかして、そーなんですか!?」

「そうだよ、しらゆきちゃんっ! これが高村光太郎さんの作った『鯰』っ!」

「ほんものですか!?」

「ほんものですよ!!」

 鯰さんの石頭を撫でて、顔を二人の方に向けてあげる。初めまして、だね!

「高村光太郎さんはね、木彫りの鯰を全部でよっつ作ってるの。一つ目は高村家ゆかりの人が、二つ目は東京国立近代美術館が、三つ目は愛知県のメナード美術館がそれぞれ持ってて、これは四つ目。いちばん最後に作られたものなの。それがたまたま、みよっち先生のおうちににあったんだぁ!」

「嘘ですよね!? ほんとですか!?」

「本当だよ~☆」

 さっすがしらゆきちゃん、いいツッコミだね! でもほんとなんだよ!!

「さ、さわってみてもいいですか?」

「もっちろん! だよね、みよっちセンセ?」

「ええ、もちろん」

「……うわ~、すごい、すべすべしてる!」


□ 文村冬湖


「……うわ~、すごい、すべすべしてる!」

 テーブルの上に置かれた木彫りの鯰。それにおずおずと手を伸ばしたしらゆき。

「あたしも愛撫しちゃいます~!」

 でも、だんだんと大胆になでまわしはじめる。

「……」

 私もそっと指で触れてみた。ひんやりして乾いた感触。でも指を離すと、指先がぬるぬるしているような気がしてくる。

「ここ……」そう言いながら美夜子先生は鯰が体をくねらせているその内側を指さした。「削るのがとても難しいらしいの。途中から木目に逆らう形になるから。でも工夫したら一息で彫れるようになるみたい」

「へえ~?」

 しらゆきがよく分かってなさそうにうなずく。私にもよく分からない。でも、きっと難しいことなんだよねって思った。


☆ 牧野ひなた


 てのひらでなでなでしまくるしらゆきちゃん。指先で輪郭をたしかめるようなとーこちゃん。うん、二人とも楽しんでくれてるみたい。うれしいな!!

 そんな二人を見ながら、みよっち先生は息を整えてるみたい。その生真面目な顔に、思わず頬がゆるんじゃう。

 ――思い入れを語るだけじゃダメ。教えることのできないものだから。でも、授業する。それは……。

 みよっち先生は――みよっちはいつも一生懸命で、聴いてくれる誰か、読んでくれる誰かにまっすぐでいようとする。ひるんでしまいそうになる自分を懸命に励まして、ありのままの自分を相手に差し出そうとする。そんなみよっちがわたしは大好き。そんなみよっちをわたしはみんなに自慢したくなっちゃう。みよっち先生の授業、もしかしたらいちばん楽しみにしてたのはわたしなのかも?

 教壇の上で、みよっちが姿勢を正して、そんな気配に、しらゆきちゃんととーこちゃんも、またみよっち先生に注目ぅ!

「創作をする人の日常には、いつも『作品をつくること』があります」

 そしてラストスパートへ!! がんばれ、みよっち先生! レツゴーみよっち先生っ!!


★ 宮守美夜子


 創作をする人の日常には、いつも『作品をつくること』があります。何気ない普段の生活の中に『作品をつくること』があって、そして作品は、作者の想いと印象の反映ですから、それぞれの作品の中には、生活の中にある小さなしあわせ、ふとした瞬間のさみしさ、親しい人たちと交わした言葉のやり取り、そんなものが知らず知らずのうちに織り込まれているのかもしれません。

 そして光太郎さんの日常には、いつも智恵子さんがいました。智恵子さんと過ごしたある夜のことをうたった詩に、こんなものがあります。


「夜の二人」

私たちの最後が餓死であらうといふ予言は、

しとしとと雪の上に降るみぞれまじりの夜の雨の言った事です。

智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど

まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持ってゐます。

私達はすつかり黙つてもう一度雨の音をきかうと耳をすましました。

少し風が出たと見えて薔薇ばらの枝が窓硝子に爪を立てます。


 夜、雨音に満たされた暗い部屋の中、光太郎さんと智恵子さんは長椅子の上に並んで座っています。そして雨音に紛れて、智恵子さんが不用意にこぼした一言。そのあとに続いた沈黙。風の音がして、ふと窓の方を見ると、風に揺れる薔薇の影が映っている――そんな一夜の印象をうたったものです。智恵子さんの友だちは皆、智恵子さんのことをおとなしい人だって思っていたけれど、でも彼女の心の中には、とても激しいものがあったんですね。

 そんな智恵子さんとともに過ごす日々の中で、光太郎さんは作品づくりに励んでいたんです。自分に注がれる、あたたかく優しい視線の、そのいちばん奥。そこに届けたい、そこに触れたい。そんなふうに思いながら、光太郎さんはコツコツと木を削っていたのではないでしょうか。

 光太郎さんにとって、智恵子さんは妻。でもそれと同時に、ううん、それ以上に、偶像のような、憧れの人のような、そういう存在だったのだと思います。光太郎さんの彫刻家としての人生は、智恵子さんに照らされて、導かれて、そうして一歩、また一歩と、少しずつ歩みを進めていくものになったのですから。私はそんな光太郎さんを、心からうらやましく思います。

 ……今日は大正十五年の二月、遅い冬に書かれた三つの詩を紹介してみました。

 創作をする人にとって作品は、自分と歩調を合わせて成長してくれる存在です。自分の中にあるものを取り出して、そして、それがいちばん伝わる形にして、見てくれる人、聴いてくれる人、読んでくれる人、触れてくれる人に対して差し出す。そういうものだと思うんです。だから忘れないでください。想いも、心の中の世界も、少しずつ成長していくものだから。二人が気に入ってくれた言葉――。

『想いを言葉にするところから物語は始まります』

 自分の想いを、気持ちを大切にしてあげてください。それは目に見えなくて、いつだってふわふわしていて、だから不安になるかもしれないけれど、大切にしてあげてください。そしたらいつか、はっきりした形をとって、大切な瞬間が訪れたときに、どうすればいいのか、それを教えてくれると思います。

 表現にも色々な形があって、光太郎さんは彫刻を、私たちは言葉を選びました。

 『嘘』という名前の木を削って『本当のこと』という形を創る。言葉をつかって表現すること、私はそんなふうに思っています。だから私たちは自分の気持ちを手に取って、自分のいちばん表現したいことを探して、それにふさわしい言葉を探して、見つけて、そして余計なものを削り取って、想いの形がいちばんよく俯瞰できるような時間の流れを、お話の流れを作りましょう。それは夜、静かな工場こうばでコツコツと木を削っていくイメージと重なって、私にはそれがうれしいんです。

 みなさんにとっての智恵子さんは誰ですか?

 私たちは言葉を彫琢して形を創りましょう。表現にもいろんな形があって、私たちは言葉を選んだのですから。


☆ 牧野ひなた


「表現にもいろんな形があって、私たちは言葉を選んだのですから」

 語り終えて、すうっと肩の線がゆるむみよっち。それに合わせて、なんだかわたしもふわあって体中の力が抜けてくみたい。

 静か、静かだね。雨の音が聞こえてくるよ。拍手みたいな。わたしたちを包み込んで、わたしたちの世界を創ってくれてるみたいな。

 わたしも拍手してしまいたいな。でも静かだね、みよっち。心地よい眠気を誘うような、そんな静けさだね。

 少しだけ目をつむってみて、そしたら見えたの。青い空と白い雲から落ちてくる透明なしずく、キラキラ輝いて、瞬いて、落ちてくる光のかけら! ねえ、みよっち。ステキだった。ステキだったよ! そうだよ、これは、この感じは、みよっちのピアノに似てる。みよっちのピアノの音。みよっちの繊細な指先が、鍵盤の一つ一つを丁寧に抑えて奏でる、ピアノの音。わたしの大好きな音。ねえ、また聴けたよ。ねえ、わたし、うれしいな。みよっち見つけたんだね、みよっちの新しいピアノ。新しい音、新しい歌。

 語り終えたみよっちの横顔、ずっと見てたいな。生真面目なみよっちの指が鍵盤を丁寧に抑えていったときの真剣な横顔も、わたしはいちばん近くで見てた。あのときと今とが重なってるような気がして、なんだかうっとりしちゃう! わたし、みよっちのとなりにいるのが好き! ドキドキして真剣な気持ちになれるもの!

「あの~……」

 しらゆきちゃんがそっと手を上げる。

「それから二人は、どうなったんですか?」

「それから……?」

 みよっちは少し戸惑って。

「二人は……最後までずっと一緒だったの」

 そう、そうだよ。二人は最後まで一緒だったんだよ。おとぎ話のめでたしめでたしのその後で、二人がずっとしあわせに暮らしていくように。

 わたしも、みよっちと一緒に居たいな。あと少しだけ、みよっちとこの場所に。それから二人で一緒に帰ろうよ。あのころみたいに手をつないで。だって、楽しかったから! 今日はとっても楽しかったから!!


□ 文村冬湖


 美夜子先輩の言葉が途切れた後に、穏やかな高揚感と静けさの余韻が尾を引いていく。美夜子先輩の授業が終わったみたいだった。

「あの~……それから二人はどうなったんですか?」

 となりのしらゆきが、おずおずと聞く。

「それから……?」

 美夜子先輩が少し言い淀む。

「二人は……最後までずっと一緒だったの」

 どこか戸惑いながら、美夜子先輩はそう言った。教室の中におりてくる静けさ。雨、雨の音がする。そんな雨音に満たされた空間の真ん中に、木彫りの鯰が岩かげに身をひそめるようにしてうずくまっている。

 ふと視線を落とすと、最後のページが開いてあるテキストがあった。夜の二人。こんな寂しい詩なのに、なぜかその周りは、明るい色の切り紙細工で縁どられている。

 違和感と沈黙。

「きりーつ!」

 その沈黙を、茜先輩の一言が跡形もなく壊した。

「れぇい! ありがっ……したぁ!」

 あわてて立ち上がってお辞儀する、しらゆきと私。

「美夜子先生とひなた先生に盛大なる拍手ぅ!」

 茜先輩につられるようにして、しらゆきと私も拍手する。美夜子先生は照れたようなすまし顔で、ひなた先生は美夜子先生に寄り添うようにして、それを受けた。

「ウチの孫たちが!! いつもお世話になってます!!」

 まるでヤジをとばすような調子で、茜先輩は声を張る。

「もぉ……茜せんぱぁい?」

 茜先輩と美夜子先生のいつもの応酬が始まる。

 ゆるんでく空気の中で、また沈黙が訪れて、なんとなく解散の雰囲気になる。帰り支度の私たち。美夜子先生とひなた先生はそんな私たちをぼんやり見てる。

「……? どーしたんですか?」

 しらゆきがそう聞くと、ひなた先生があせったように笑った。

「えっと、えーっとね! 反省会! 反省会しよっかなぁって!」

 ひなた先生、美夜子先生と話したいことがあるのかな? なんとなくそんな気がした。

「それじゃ、お疲れ様したぁ! また月曜日に!!」

 私たちは部室を出る。雨、雨の音。それが私たちの廊下を歩く音と重なる。

 ふと振り返ってみた。薄暗い廊下。図書室の灯りはもう消えていて、そのとなりにある部室の、明かり取りの窓から漏れる光が、ほんわりと廊下を照らしている。

 ――夫婦。

 そんな言葉が私の頭をよぎっていく。今日、美夜子先生が言ったことを、そして美夜子先生の横顔を誇らしげに見ていたひなた先生の顔を、私はずっと忘れないような、そんな気がした。

「あの……茜先輩」

 階段の踊り場まで来て、しらゆきが言う。

「今日、すごかったですよね」

「ふふ、そうね……」

「私たちは言葉を彫琢して形を創りましょう!」

 また階段を下りながら、しらゆきが弾んだ声で言う。

「そーそ。ね、あれが気高きみよっち様というもの。いじらなきゃ。いじり倒さなきゃ。私たちの力の限りを尽くして。そういう使命を私たちは負ってるの。わかる……?」

「わかります! がんばります!」

「ふふ、でしょう……?」

「あの……」

 気が付けば私も会話に加わっていた。

「私たちも……何かした方がいいんですか?」

 言葉足らずになった私の言いたかったことを、茜先輩は汲み取ってくれる。

「んーん。いつまでも今日のことを忘れないこと、それでいいの。それだけでいいの。先輩をちゃんと立ててあげなきゃね! キャーセンパーイ!!ってね……」

「キャーセンパーイ☆」

 しらゆきが笑いながらそう言って、くるりと回る。

「あと……ときどきセクハラしたりとか」

「セ、セクハラ!?」

「セクハラ……する?」

 しらゆきに向かって、ぐっと胸を張る茜先輩。

「つ、謹んで! 謹んで遠慮させていただきます!!」

「ふふ、残念……」

 くつばこを経て、正面玄関に出た。屋根の下に人影はなくて、ただ見慣れた校庭が、雨と街灯の下に、ぼんやりした輪郭を投げ出している。そして、雨の中に踏み出そうと傘をひろげようとしたとき。

「とーこ、しらゆき」

 その声に振り返ると、茜先輩が私たちに向かって両手を広げていた。

「……?」

「ど、どーしたんですか?」

 正面玄関の暗がりを背景に、茜先輩がいつものように笑っている。

「ちょっとね、抱きしめさせて……」

 しらゆきと顔を見合わせる。でも、どうしてだろう? そうしてあげたいって思ってた。そして、それはしらゆきも。私たちは茜先輩に歩み寄って、そしてそのまま、茜先輩の腕の中に納まった。茜先輩の腕に力が込められて、私たちは茜先輩に抱きしめられる。

「おお~、あったけえだ~、オラ若返るだよ~」

「茜おばあちゃ~ん!」

 茜先輩としらゆきの声を聞きながら、私は茜先輩の髪の毛のにおいをかいでいた。ふっと、茜先輩のからだが離れる。

「ありがと……」

 雨の音が茜先輩の語尾を霞ませた。そして顔をそむけるようにして、私たちの横をすり抜けていく。

「では、よい週末を……」

 傘を広げて、茜先輩は雨の降る中に踏み出していく。足元で水が跳ねるのも構わずに、速足に。その後ろ姿。しらゆきと私は顔を見合わせた。お互いに何も言えなかった。しらゆきも私と同じことを言おうとしてたの? 茜先輩、泣いてなかった?って。


【引用】

青空文庫・高村光太郎「智恵子抄」より「金」「鯰」「夜の二人」

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