第17話 「雨の土曜日」
嵌め木細工の廊下が続いていた。その廊下の先に、どこに続いているのか分からない階段があって、その階段の先を見ようとしても上半分が引き破られた絵のように真っ白になっている。それでも私はその階段を上って、その先に食堂を見つけた。
真白いクロスのかけられた無数のテーブルが規則もなく並んでいる。窓際にあるテーブルの椅子に男の人が腰掛けているのが見えた。その人は、写真で見た若い頃のお父さんによく似ているような気もする。そばに近寄ってみる。まるで私が透明な私みたいに、男の人は私の方を見ない。男の人はスープを飲んでいた。湯気のたつ、白く濁ったスープをスプーンでゆっくりと口もとに運んでいる。でも、よく見るとそれはスプーンではなくて、小さなペンチではさんだ貝殻だった。それをスープにつけて、また口もとへと運ぶ。私の目で見ているその光景が、もう一人、誰かの目で見た光景と夢の中で、あるいはどこか別の場所で二重写しになる。
洋風の出窓の先には、なだらかな起伏を繰り返す草原があって、次の瞬間には私はその中に立っていた。風に吹かれながら、あたりを見回してみる。遠くに、さっきまでそこにいたような気がするお屋敷が見えた。風が強く吹いて、私の体が浮いた気がする。仰向けに倒れると、空が見えた。そこには、まるで早送りにした映像のようにせわしなく流れていく白い雲があった。
「じっとしてなさい」
そんな声を聞いた。風がどんどん強くなっていく。私のかたわらの草は地面に押し付けられるようにして震えている。立ち上がることもできなくて、私はそのまま空を見ていた。雲はやっぱりどんどん流れていく。その現実感のない光景を、私はただ、ぼんやりと見ていた。
ふいに、手が差し伸べられる。
「……茜先輩?」
差し伸べられた手の先には、茜先輩の人を惑わすような微笑みがあった。
「おいで、おいで……」
茜先輩と手を重ねて立ち上がると、あたりは夕方になっている。そして茜先輩は私と手をつないだまま、前を向いて歩き始めた。前を行くその横顔に、私は問いかける。
「どこへ行くんですか?」
「ふふ……面白いところ……」
手を引かれるままに歩き続けた。ふと振り返ると、黄色っぽい夕焼けの空の下に、さっき見たお屋敷がぽつんと建っていた。歩きながらもそこから目が離せなくなる。人影が見える気がする。誰かがお屋敷の前に立って、私の方を見ている気がする。あれは……誰? そのことを考えようとすると、とたんに頭がぼやけはじめる。
「茜先輩、あの……」
前を向くと、茜先輩はもういなかった。つないだ手の感覚も、その名残りも、なくなっている。目の前には灰色の海が広がっていて、私はちょうど砂浜と草原の境になる場所に立っていた。波の音は絶え間なく続いて、それはどこか雨だれの音にも似ていた。
そこで目が覚めた。
ぼんやりと天井が見えた。低く絶え間なく続く音が、雨の音だと気付いた。ベッドから起きてカーテンを開けると、見慣れた家々の並びが見えた。ベッドの上のおふとんは乱れて偏っている。汗をかいたのか、パジャマは少し湿っぽくなっていた。
そのままの格好で、階下に行く。リビングでは、お父さんがソファに座ってテレビを見ていた。缶ビールを口もと近くに持ったまま、ぼんやりとテレビの画面を眺めている。テレビの前のテーブルにはスナック菓子の袋が開けられて置いてあった。
台所へ行こうとすると、私の背中にお父さんが「おう」と声をかけた。私は振り返って「うん、おはよ」と返した。
台所で、牛乳をコップ一杯だけ飲む。そして、また階段を上がって姉さんの部屋に行った。少しドアを開けると、ベッドのおふとんが盛り上がっているのが見える。そんなあたりまえのことで私は安心する。
音を立てないようにして、ドアを開けて、そして閉めた。ゆっくりと近づいて、ベッドのかたわらに座り込む。姉さんの大人っぽい寝顔。うすく開いたくちびる。ずっと見ていたい気がする。
雨の音が聞こえている。時刻は9時少し前だった。鉛色の光を孕むカーテン。薄暗い部屋の中。
『ねえ、まるでこの世界に二人だけみたい』
美夜子先輩のお話の中に出てきたセリフが頭をよぎった。雨の音に包まれて、私も姉さんと二人だけの世界にいた。
そっと、おふとんをめくってみる。薄い桃色のお寝巻きを押し上げる姉さんの胸のふくらみ。姉さんの寝息に合わせて、ゆっくりと上下している。おふとんをほとんどめくってしまってから、姉さんのからだにまたがった。そのままお寝巻きの前のボタンをはずしていく。はずし終えて前をひらくと、ふわっと姉さんのにおいが私の顔にあたった。ふくらみのその片方に手を伸ばす。そして、てのひらで覆うようにして触れた。あたたかくて柔らかいそれは姉さんの一部分。姉さんを起こさないよう、やさしくもんで、なでて、さすった。
「ん……」
姉さんが少しからだをよじって、私は手を離した。姉さんの少し乱れた寝息がまた規則正しいものに戻る。今度は上から姉さんのからだに覆いかぶさるようにして、そのふくらみの片方に顔を近づけてみた。姉さんの肌のにおいがする。ふくらみの先にある桜色の部分が私の目の前にきて、私はそれを口に含んでみた。なんだか甘い味がする。舌先に少しかたく感じるそれを吸ってみる。なんだか懐かしい気がして、私はもう姉さんを起こしてしまうかもなんて考えずに、姉さんと体を重ねて、片方を口で吸い、もう片方で私のてのひらを温めるようにした。
「とーこ」
姉さんの声がして、姉さんの手が私の頭をなでた。くちびるを離すと、ちゅっと音がした。
「姉さん……」
上目づかいに姉さんを見る。姉さんは微笑っていた。ねむそうに、やさしげに。私はうれしくなって、姉さんの顔に顔を近づける。姉さんは微笑んだまま。少し首を傾げて、そのまま姉さんにくちづけた。姉さんは抗わない。ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ。ついばむようにキスをして、少し顔を離した。姉さんが閉じていた目をうすく開けて私を見る。そのひとみに映る甘い感じが私は好きだった。
もういちどキスをする。こんどはゆっくり。ゆっくりと姉さんのくちびるを味わうように。自分でも知らないうちにからだがくねってしまう。なんだろうこの感じ。なんだろうって思う。なんだかもどかしい感じがして、ちょっと舌を出して、姉さんのくちびるをなめた。
「あはっ!」
姉さんが笑い声をあげる。
「くすぐったいよ、とーこ」
顔を離してから、また姉さんのからだにまたがるようにからだを起こした。どうしてそうするのか考えようともせずに、私は自分のお寝巻きの上を脱いだ。何も隠してない私の上半身を姉さんが見ている。恥ずかしい。でも、うれしい。また姉さんとからだを重ねて、姉さんの胸と私の胸とを合わせた。こんどは姉さんのあたたかさもやわらかさも直に伝わってくる。姉さんを抱きしめて、私のからだを姉さんにこすり付けるようにした。私のからだの下で、あたたかくやわらかく形を変える姉さんの胸を感じていた。
(あたたかい……やわらかい……ドキドキする……)
ぎゅっと抱きしめて、ぴったりとからだを重ねてみる。姉さんの心臓の音が聞こえる。私はそれを私のからだ全部で感じている。部屋に忍び込んだ雨の気配も、姉さんの肌のにおいと体温にかき消されていく。
私の背中に手が回された。少し冷えてしまった私の背中を温めるみたいに。姉さんが私を抱きしめていた。私はうっとりする。この時間がずっと続けばいいのに、なんて、そんなことを考えてしまう。
どのくらいのあいだ、そうしていたのか分からない。
「とーこ」
耳元にそっとささやくような姉さんの声が私を呼んだ。
「とーこ、朝ごはん、食べた?」
「んーん、まだ」
「そっか。それじゃ、すぐに作ってあげようね。着替えて下りてきなさい」
「うん」
ベッドからの起きがけに、姉さんは私の頭をなでてくれる。そして私の目の前で部屋着に着替えて、階下におりていった。
姉さんのいなくなった部屋で、私は姉さんの体温が残るベッドに仰向けに寝ころんだ。胸の少し左のあたりを両手でおさえて、そして目をつむってみる。そこには姉さんと心の音を共有した感覚が残っていて、それが私をしあわせにした。うれしい気持ちがあとからあとから湧いてくるみたいに、胸の鼓動にあわせて私のからだが小さく震えていた。




