第16話 「紫陽花」2
▽ 立花茜
血の色をした夕焼け空。その下の小径。都市を望む高台の落下防止柵。妹のいる市立精神病院。ふと視線をめぐらせた先の屠殺場。響き交わす死にゆく者と狂人の叫び。その声が聞こえてしまった者の絶望。ムンクが「叫び」の中で描いたのはそれ。そんな解釈もできるとわかって、ひどくおかしい。私はただあの表情を面白がっていただけだった。幻聴が聞こえたら楽しいかもしれないと思っていただけだった。やっぱり私はまだ……。
「茜おばあちゃん!」
「茜せんぱい?」
元気な声と澄んだ声。呼ばれて私は我に返る。公園の散歩道のわきにあるあずまや。そのテーブルを囲む、しらゆき、とーこ、そして私。
「どーしたのかな……?」
「茜おばあちゃん、なんかお話して~!」
「うんうん、ええよ~……」
ちょっと考えてから、両ほほに手のひらを押し当てた。
「……?」
「ムンクの『叫び』、だよ? ……知ってる?」
「あ、知ってます! あの、アレですよね!? あの、ヘンな顔!!」
「そ! そのヘンな顔……。あれね、橋の上に見えるよね? でも本当は橋の上じゃなくて、崖っぷちなんだって。橋の欄干みたいなのは落下防止用の柵……」
「ふぇ~」
「そういうのをね、さっき知って驚いたの。ずっと橋だって思ってたからね……」
「あ~、それでさっき、『まだ知らないことあるんやね~』って言ってたんですねっ!?」
「そ。……ほら、あれ、なあに?」
あずまやのすぐ近くに咲いてる小さな花の輪。それを指差す。
「え? あじさい、です?」
「そ。紫陽花。ユキノシタ科アジサイ属。青色の花が集まって咲く様子から集藍……で、アジサイ。土の酸度で花の色が変わる。酸性なら青、中性・アルカリ性なら赤。花言葉は、冷たいあなた、無情、高慢、そして……嘘つき」
思い出せるだけの言葉を並べてみる。
「私が知ってるのはこれくらい。でも、どうしてユキノシタ科アジサイ属なのか……どうして土の酸度で花の色が変わるのか……どうしてこんな花言葉になったのか……私は知らない……」
青い花と夕焼け空の光景が重なって。
「ムンクの絵も、私は見たことがあった。でも、けっきょく知らないことだらけだった……」
言葉を切る。少しだけ考える。連想を呼ぶ。
「それは人でも同じこと。大切な人、いつもすぐそばにいてくれた人。そんな人のことも、少し考えてみただけで、すぐに知らないことだらけになってしまう気がする。たくさん一緒にいたはずなのに、どうしてって、思うくらいに……」
もしかしたら、本当は何も知らなかったのかもしれない、あの人のこと。知ろうとしても知ることのできないことが私を途方に暮れさせて、私はまだ道に迷っている。
「何をどこまで知っていれば、それを『知ってる』って言えるの……?」
「ど、どこまで……?」
「そ。どこまで知っていれば……?」
目をぱちくりさせるしらゆき。表情の変わらないとーこ。可愛らしい二人。
「ふふ。あせらなくていいよ。機会があったら、考えてみて。だってほら、私たちって一応……文芸部だし。こういうの、文芸部っぽいよね……?」
「そ、そうですよねぇ~」
戸惑いのようなものが、しらゆきの語尾を弱くする。
「どーしたの……?」
「あ、えっと、なんだかその……茜先輩がマジメだから……」
「ふふ、似合わんかったね。それじゃ、ちょっとお茶でも飲もうか……」
お茶を飲んで一息つく。少し飲んでは紅茶の表面を揺らしてのぞき込むとーこ。しらゆきは「ごくっ」と飲んで「ぷはーっ」とお風呂上りの牛乳のように。大皿の代わりにしたハンカチの上。山盛りのあめ玉やチョコレート。その中のハッカを、とーことしらゆきが同時に取ろうとして、手が触れた。
「あ……」
手が触れて、はっとするしらゆき。人が恋をしているときのかわいい反応。
「あ、いいよ、しらゆき」
「え? あー、いやいや、ちがうの! 本当はもうおなかいっぱいでさ!」
あわててよく分からない弁解をする。そして私と目が合う。目が合って数瞬、私たちは見つめあった。心を見透かされたと思ったときの弱気な表情でしらゆきはうつむいてしまう。私の中でイジワルな心が動いて、雲の切れ端からお日さまがのぞいた。色彩の、過剰になってく感じ。
「雨上がりの公園って感じだね……とーこ?」
「え? あ、はい」
「どう? 詩心をくすぐられない……?」
「しごころ?」
「そ。ポエムハート……」
「はぁ……」
「ポエマーはね……」
「はい?」
「言葉を探すのが仕事。たとえば、こんな雨上がりの公園で……」
演出過剰でもいいの
忘れた頃に読んであの日の公園ってこんなに
――さざめく水たまり
――ゆれるアジサイの花
――濡れて光る木々の葉
こんなにきらきらしてたんだって思えれば
それを思い出すことができれば
現実の記憶に飾りつけをするの
その方が楽しいなら
幻想の底に沈めてしまってもいい
あかねがそうしたいと思うなら
「いい感じのワードが浮かんだら、いつでもどこでもちゃっちゃと書きとめておく。それがポエマーの良い習慣……ええと? お、あった……とゆーわけで、これ、あげる……」
「あ、ありがとうございます……?」
「でね、さっそくこの公園でステキワード、探してきてほしいの……」
「ステキワード?」
「そ。詩になりそうなステキなワンフレーズ……」
「はぁ……わかりました。いってきます」
状況をよく飲み込めてないながらも、ステキワード探しの旅に出るとーこ。しらゆきと二人きりになる私。
「とーこ、可愛い子だね……」
お散歩の足どりで歩いていくとーこの背中を見送りながら、そう水を向けてみる。しらゆきは意を決したように顔をあげて。
「茜先輩は、その、気付いてますよね? あたしが……そうなんだって」
しらゆきが私をじっと見つめた。
「ん。そんな感じ、したし……」
「なんの話か、わかってます?」
「ん。わかってるつもり……」
「あ、あたし……」
一度はためらうように視線を下に向けるけど、すぐに。
「あ、あたし……とーこのこと、好きになっちゃったんです……!!」
切ない色の瞳をまっすぐに私に向けて。その視線、向ける相手を間違えている。
「ん、知ってるよ……」
でも、いい。可愛いから。
「ど、どーすれば、いい、と思いますか……?」
「そうやね……いつか、自分の素直な気持ちを伝えればいい、と思うよ……」
「それって、でも……」
「望みがほしい? もしかしたら受け入れてくれるかもって、可能性があるって、言ってほしい……?」
しらゆきは何も言わない。
「傷つくのはやっぱり怖い……?」
それは、いつものとしらゆきとは違う不思議な横顔で。やがて絞り出すように言う。
「……とーこ、言ってくれたんです。『いっしょの思い出を積み重ねて、ある日、ふと気付いたら、かけがえのない人になってる……そういうのが好き』って」
「……っ」
私の陶酔に気付かない、苦しげな横顔。その言葉と、その言葉に必死ですがろうとしているしらゆきが、愛おしくなる。
「だったらそれを、その言葉だけを、信じていればいい……」
そんな素敵な言葉をもらったのに、まだ迷いがある。なんて贅沢な。でもそれは、仕方のないことなのかもしれない。くちびるをきつく結んだしらゆきの、そのくちびるを指さして。
「このくちびる……とーこに口づけてもらいたくある……」
「ふぇ、ふぇっ!?」
驚いて私を見るしらゆきに、私はにんまりする。
「この胸……」
今度はしらゆきの胸を指さして。
「とーこに触れてもらいたくある……」
「な、なんですか!? からかってます!?」
胸をかばいながら抗議するしらゆきの赤い顔。
「ふふ、からかってないよ。私も、そうだったから……」
「えっ?」
「傷ついても、いいじゃない。とーこは本当に可愛らしい子。そんな子に自分の恋心を捧げることができるなんて、本当に素敵なこと。ね……?」
雲が途切れて光が差し込むときのように、しらゆきの顔に笑顔が戻る。
「は、はいっ!!」
しらゆきの心の真ん中にあるもの。それは単純な明るさと素直さ。これからしらゆきは、それゆえにたくさんの人を惹きつけ、それゆえにたくさん傷つくことになる。私にはそれが見えるようだった。
「……それで、その、茜先輩は?」
「ん……?」
「茜先輩の話もきかせてくださいよっ!!」
「それはね……ヒミツ」
「あ、それ、ひきょうですよっ!?」
「ヒミツは女を綺麗にするからね……」
「ちょっとぉ! せんぱぁい!?」
「ほーら、アメちゃん食べようね……」
口の前にあめ玉をもっていって、条件反射で開いたところに放りこむ。それでも、それをなめながら抗議は続く。もたれかかるように私にこぶしを当てようとして、私はその手を受け止める。あたたかい手。やわい手。しらゆきも、とっても可愛い子。
「やっほー!」
「茜先輩? また後輩をいじめてるんですか?」
ひなたと美夜子がやってくる。これで残るはあと一人。
「ふふ、人聞きの悪いことをゆう……」
「あ、美夜っちしぇんぱい! 茜しぇんぱいがひどいんれす!!」
「ええ、知ってる。よ~く知ってるわ」
「私にもお紅茶くださいな~」
あずまやのテーブルを囲んで、4人でまったりする。雨上がりの芝生の向こうに、とーこがいた。立ち止まって、うつむいて、何かを書きつけている。美夜子がそんなとーこを見つけた。
「とーこは何をしてるんですか?」
「ちょっとポエってるの。これも修行のうちだからね……」
【参考文献】
みすず書房「ムンク伝」スー・プリドー著 木下哲夫・訳 ←分厚い