第16話 「紫陽花」1
□ 文村冬湖
私が姉さんを「姉さん」と呼ぶようになったのは、私が中学3年生になってすぐのことだった。そのときの私は周りの人たちから「受験生」と呼ばれるようになっていたけれど、それでも私は、自分が変わり映えのしない日常の中にいるように思えていた。私はたぶん、退屈していたんだと思う。何かを少しでも変えたかったんだと思う。だから、そのときたまたま読んでいたマンガの登場人物が、自分のお姉さんを「姉さん」と呼んでいるのを見て、私は姉さんを「姉さん」と呼んでみた。キッチンでお夕飯を作っている姉さんの、その後ろから。
「ふふっ、どうしたの? とーこ」
そう言われて、なんだか顔が熱くなった。姉さんを後ろからきゅっと抱きしめて、照れてしまったのをごまかそうとした。
「なんだか、お姉ちゃん、急に大人になったみたいだね」
姉さんはそう言ってくれた。姉さんを「姉さん」と呼ぶことで、私は何を変えることができたんだろう? 大人に、大人っぽく、なりたかった? でも私は、本当は心のどこかで分かっていた。姉さんを「姉さん」と呼ぶようになっただけで、私はまだ子どものままだったということ。そして姉さんは、私が「姉さん」と呼ぶまえからずっと、少しずつ、少しずつ、大人になろうとしていたこと。
お風呂に入った後、私は姉さんの部屋のベッドでごろごろしていた。何をするでもなく、ただ机に向かっている姉さんの後ろ姿を見ていた。
「姉さん」
意味もなく、そう呼んでみる。
「なぁ~に?」
向こうをむいたまま、少し節をつけて、姉さんが応えてくれる。そんなちょっとしたことが、私にはうれしい。
「あ、そうだ、とーこ」
姉さんが椅子を回してこっちを向いてくれた。
「明日の夜ね、お姉ちゃん、大学のゼミの飲み会があって遅くなるの。お夕飯はお父さんが買って帰ってくれるからね」
「うん、わかった」
「ん」
姉さんはにっこりうなずいて、また机に向かった。雨の音が聞こえる。姉さんのペンがさらさらと紙の上をすべる音も。私は左右から姉さんのおふとんをひきよせて、くるまって、それから目を閉じた。
部室の窓を開けて、空を見た。雨は上がっていた。雲の薄くなったところがぼんやりと蒼く映って、空が少し明るさを取り戻している。窓際の席では茜先輩が座って本を読んでいた。私の視線に気付いて、問いかけるように微笑む。
「あ、窓、開けてよかったですか?」
「うん、いいよ……」
茜先輩はそう答えてから、窓の外を見た。
「晴れたね~……」
茜先輩のひざの上には分厚い本が乗っている。
「……あの、茜先輩。その本、なんですか?」
茜先輩は笑いを含んだ目で、その本の表紙が見えるように掲げてみせた。
「ムンク伝?」
「そ。ちょっと興味があってね……」
それからページにしおりをはさんで、小さく伸びをする。
「ふう……。この齢になっても、まだまだ知らないことがたくさんあるんやねえ……」
そう言って、いたずらっぽく笑ってみせた。
「え!? 茜先輩って何才なんですかっ!?」
テーブルの席に座っていたしらゆきが話に加わってくる。
「9月17日生まれの17歳。最近、お肌の悩みが増えました……」
「え~! ぜんぜん! ぜんぜんお若く見えますよぉ~!!」
しらゆきがおどけてみせて、そして笑いあう茜先輩としらゆき。
「でも、茜先輩って、ちょっとおばあちゃんみたいな雰囲気ありますよね!? なんか炉ばたでおせんべい焼いてそう!」
たしかに、そんな感じがするような気もする。
「茜おばあちゃんって呼んでええよ……」
そんなことを話していると、部室の扉が開いて、美夜子先輩とひなた先輩が顔をのぞかせた。
「みんな、来てるわね。私たちはちょっと図書委員の話し合いに行ってくるから。いい子にしてるのよ!?」
美夜子先輩がちょっとお茶目なことを言う。
「いってきまーす!」
ひなた先輩が手を振って、扉が閉まる。
「……さいきん、育児放棄されちゃってるね」
茜先輩が含み笑いで言う。
「育児て! でも、だいじょおーぶ!! 茜おばあちゃんがいますから!」
「ふふ、そうやね。そいじゃ、うんと甘やかしてあげようか……」
そう言いながら部室を見回す茜先輩。
「そだ。ちょうど雨やんでるし、近所の公園にお散歩にでかけよ? お茶とお菓子、持って……」
「さんせーい!!」
支度を整えて部室を出ようというとき、茜先輩がふと気付いたようにチョークを手にとって、黒板に「近所ノ 公園ニ 居リマス」と書いた。
「あ、これ知ってます! 宮沢賢治のやつですよね!?」
しらゆきがうれしそうに言う。
「ふふ……そうそう……」
茜先輩がチョークの粉のついた手をはたきながら答える。こうして私たちは、近所の公園にお散歩に出かけた。




