第13話 「雨の街」
▽ 立花茜
雨の土曜日、私は部誌を片手に街へと出かけた。駅前の大通りをそれて、遊歩道沿いの喫茶店。そこは沙雪先輩によく連れてきてもらった場所。遊歩道の見える窓際の席に座る。喫茶店の中は心地よい温度。オルゴールのBGMが客席の会話を脈絡のないささやきにしている。
窓の外、雨の街。傘を差した人たちが窓の前を通り過ぎていく。なにがそのよすがになったんだろう? ふいに私が思い出したのは、子どもの頃に見た映画の最後のシーン。
多くの人が行き交う街の大通り。友人に先立たれた心の傷を抱いて歩くその人。そのとき、人ごみの中に彼は死んだはずの友人を見つける。声を上げ、懸命に追いかける。それでも、最後は見失ってしまう。他人の空似? それとも幻? 雑踏の中に立ち尽くすその人……。
その姿はそのまま、今の私。幻でもいい。もう一度会いたい。追いかけても見失って、雑踏の中で立ち尽くしてもいいから。
雨だれの向こうの街を沙雪先輩の歩いていく姿が見えたとして、その隣にはきっと、あのころの私が寄り添っている。そんな……夢を見る。
注文を済ませ、部誌を開き、とーこの詩を読む。この初々しさ。恥ずかしげもなく自分の気持ちを形にして読者に……私に差し出している。これは天然? そうなの? 『背中を押してくれる人』そして『あなたのまわりにどんな人がいるの?』と聞いた人。この人がとーこを無防備な天然少女にしている。ふだんは引っ込み思案で、たぶん思ったことの100分の1だって言葉にしていないはずなのに。そうそう、韻を踏むのだって、いつの間に覚えたの? あげた本が役に立ったかな? そう考えるとうれしくなる。とーこの知らない面、私にはまだたくさんある。でも、私にだってまだ時間はある。あせらずゆっくり、とーこのこと、知っていきたい。それにしても……この詩。美夜子、ひなた、そしてしらゆき。あの子たち、どんな顔して読んだろう? そんなことを想像すると楽しい。自然と笑いがこみ上げる。
窓の外を見る。沙雪先輩に連れられて、あのころの私が歩いている。色とりどりのタイルが敷き詰められた遊歩道の上。そして突然の雨。喫茶店に入ってくる沙雪先輩と私。窓際の席、慣れた調子で注文をする沙雪先輩を、私は見ている。
「茜は何がいいかしら?」
「え? ええと……か、カフェ・オレ……?」
ウェイトレスさんが行ってしまうと、薄暗い店内を――コーヒー豆のラベルが並んだ棚、理科の実験で使う器具のようだったサイフォン、アルコールランプに照らされて飴色にひかるコーヒー、気難しい顔をした店長さんらしき男の人、窓の外をぼんやり眺めている眼鏡をかけたウェイトレスさん、顔を見合わせて時々クスクスと笑い合う二人組の女の人、いちばん隅の席に座るねずみ色の背広を着たお爺さんを――見回し、秘密めかした小声で沙雪先輩に言う。
「こ、こんなとこ、初めてです……」
「そう?」
沙雪先輩は、そんな私を見て楽しそうに笑っている。
またページをめくる。しらゆきの物語。読み進めるほどに愛らしい。恋をした瞬間に見た夢を、しらゆきは私に見せてくれる。これから、とーことどんなふうに関わっていきたいのかも。とーこに振り回されたいしらゆきの、Mっ気のある心情がよく表現できている。もちろん、しらゆきの書いたこのファンタジーを、しらゆきの私小説として読むのは邪道かもしれない。そうは言っても、二人を知ってる私としては、どうしてもそう読みたくなる。思い起こせば私も昔、こんな世界に遊んだことがある。沙雪先輩がまだ私と同じ時間にいてくれたころ。現実と空想の境界があいまいな、そんな世界に。
「お待たせしました。キリマンジャロのホットコーヒーです」
「あ、ありがとうございます……」
「ごゆっくり……」
カウンターの方へと帰っていくウェイトレスさんを見送って、コーヒーに口をつける。ここに初めて連れてきてもらった日、沙雪先輩が注文したもの。あのときの沙雪先輩と同い年になった私。でも私はまだ彼女に届いていない。まだ彼女を追いかけている。
「あー、ちょっと濡れちゃいました」
ハンカチで髪の湿り気を取りながら、あのころの私が言っている。
「雨、いやですね」
「夕立だから、もうすぐ止むわ。ほら、あそこ。雲が切れてる」
沙雪先輩の指さす方。雲がほころんで蒼い空が見えている。
「あ、ほんとです!」
「雨が止んだら、虹が出るかもしれないわね」
沙雪先輩のその言葉に応えるかのように雨が弱まって、少しずつ窓の外が明るくなる。
「雨粒も虹のように色を付けたら、きっと綺麗ね」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるわ。空想の中でなら、ね」
いたずらっぽく笑う沙雪先輩。窓の外、天気雨。降る雨の虹色に色づいて、沙雪先輩と私がその中に立っている。あのころの私が思い描いたその光景。それは今も私の心に残るかけがえのない思い出。
コーヒーをひとくち飲んで、ページをめくる。私の詠んだ自由律句とそれにくっつけた批評文。そのひどい出来に苦笑する。ところどころ真面目に書いた部分もある。それでも全体としてみれば、ふざけたんだと思われてもしょうがない。ふざけてみせて、呆れられて、そうすれば自分の心を見せずにすむことを知っている。美夜子もひなたもそんな私になにも言わない。
「あ、あのお……沙雪先輩……」
「なあに?」
「わ、私……えっと、沙雪先輩みたいになりたいんです。どうしたらいいですか……?」
口もとにコーヒーカップを持っていこうとしていた沙雪先輩の手が止まる。あのころの私は馬鹿だったから、こんなことを大真面目に聞いていた。きょとんとする沙雪先輩。そして、くすっと笑う。
「ねえ、茜は知ってるかしら?」
コーヒーカップを置いた沙雪先輩が、前のめりになる私の顔に顔を近づける。
「人はお話を物語るときに、こんなことを願ってしまうの。『誰かの心に一生残ってくれますように』って。私もそうよ。私も、そう願ってしまうの……」
沙雪先輩はそこまで言って言葉を切る。そして、私は見つめられる。沙雪先輩のその瞳に見つめられる。私の、私のあこがれの全てを捧げたその人が私を見つめている。その瞳に私を映している。そのしあわせ。そのよろこび。「時よ止まれ」と願っても、時間の流れは止まらない。でも、思い出の中で、その瞬間は変わらずそこに在ってくれる。思い出の中で、思い出の中で、私は沙雪先輩とずっと一緒にいる。あの瞳が私を見つめている。そして声が……
だから、ねえ、聞いて
『誰かの心に一生残りたい』なら……
たくさんの人とふれあいなさい
心を閉ざしてはダメよ?
たくさんの作品に出会いなさい
人の心はどこまでも自由になれること、学びなさい
そして、まっしろな紙の前でペンを手に取ったら
自分の心と真正面から向き合って
そのとき持っている自分の全てを捧げるの
……できるかしら?
「できます! 私、かんばります!!」
あのころの私が、そう答えている。先生に褒められたくて良いお返事をする幼稚園児のように。
「いい目だわ。私にも、今のあなたのような頃があったのよ?」
沙雪先輩がどうして自分のことをそんなふうに言ったのか、私は知らない。知らないままに言った。
「い、今だってそうです! だって……」
先輩の瞳の中にある輝き。それを言葉にしようとして、ふさわしい言葉を見つけることができない。もどかしくて、歯がゆくて、あのころの私はただ一生懸命に、沙雪先輩の瞳を見つめていることしかできない。沙雪先輩はそんな私から、私の心を汲みとってくれる。
「ありがとう。うれしいわ……」
先輩。沙雪先輩。それは冬谷沙雪という一人の女性。目をつむれば窓の外、降り注ぐ虹色の雨。私を取り巻く沙雪先輩の創った世界……。
そっと目もとを拭う。いつまでもこんなんじゃ、体が持たなくなる。急がないと……。そう思う。
……気を取り直して、またページをめくる。次はひなたの物語。ひなたの物語は、ひなたの世界。それは少しずつ広がっていく世界。はじめはヒロインとその幼馴染みの女の子しかいない世界だった。その二人だけの世界に、彼女の両親、祖父、お店の常連さん、近所の人たち、いたずら好きの男の子たち、ひょんなことから知り合った病気で入院している女の子、一人でおつかいにきた小さな子、そして今回のお話で、双子の子ネコとその飼い主の女の子が加わった。かつてひなたの世界が少しずつ広がっていったように、ロッタの世界も広がっていく。ロッタを通して見るルルック王国は、ひなたを通して見るこの世界。ひなたの見ている世界がそのまま、このルルック王国に投影されている。あざといようでいて、本当に裏表のないひなた。ひなたも、ひなたの世界も、どうか愛されてほしいと思う。
「どうしたの? わたしの顔になにか付いてる?」
あのころ、私の目の前に沙雪先輩はいた。このテーブルを挟んで、向かい合っていた。
「いえ、ただ見てるだけです」
「へんな茜」
そう言って笑う沙雪先輩のこと、私はどれだけ知っていただろう? 今、私に残されているのは沙雪先輩の書いた物語。そこには自由気ままに振舞う登場人物たちがいる。まるで初めからその世界にいたかのように、彼らはそこで生まれ、生活し、老いていくことを運命づけられている。目を凝らしても俯瞰しても、そこに沙雪先輩はいない。時々、登場人物が自分の心を語るけれど、それはその子の心で、それは先輩の一部だけど、それは先輩ではない。あのころ、たしかに私の目の前にいた沙雪先輩。その姿は、残された物語世界の中に溶けこんで、もう私の目には見えない。
コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。ひとくち飲む。かすかな苦味を心地よく感じる。コーヒーの揺れる表面に私の顔が映る。知らない人のような私の顔。
そしてページをめくる。美夜子の物語。救いがないのではなく、これは少女にとって救いそのもの。まっすぐな、まっすぐな、そして不器用な恋のお話に、私は読んだ。少しく感じる危うさ。このお話を書いたときの美夜子の心に深く潜ってみるのは私の勝手だけれど、そうして持った感想を言葉にしてもいいのかは迷う。あの子を傷つけるかもしれない。自分の心を表現しようとするとき、羞恥を乗り越えようとするあの子をとても愛おしく思うけれど、心ない言葉に傷つかないだけの強さはまだ持っていないから、私は心配になる。
でも、ひなた、とーこ、しらゆき。その顔を順々に思い浮かべれば、余計な心配なのかもしれない、とも思う。最後のページを繰るとおくづけがあらわれる。少女の選んだ選択肢、その余韻が棘になって、私の心に刺さっている。
残ったコーヒーを飲み干して席を立つ。雨は降り続いている。傘を広げて、遊歩道を大通りの方へ。この道を幾度、私は沙雪先輩と歩いたろう?
もしも……もしも私が本当に、沙雪先輩に会いたいと思っているなら……私は沙雪先輩に会いに行くことができる。それは……
車道沿いの歩道、信号が青に変わり、向こうの横断歩道の手前から十分に加速した車が私の目の前を通りすぎていく。例えば、あのバス。重い地鳴りのようなエンジン音を響かせ、こちらにやってくる。
それは……ここからほんの数歩をあるくこと。一番左側の車線の真ん中あたり、あのバスの前に私が立つなら、私は沙雪先輩に会いに行くことができる。ただそれだけのこと。ただそれだけのことなのに、私はそれをしない。
それは、『向こう側』に対する畏怖? それとも、そもそも『向こう側』なんてないという懐疑? 単に痛いのが嫌だから? あるいは動物としての本能? そして、人に迷惑をかけ嫌な思いをさせてしまうから?
そのどれもが理由になり得るけれど、そのどれもが『私が今、生きていること』を肯定してはくれない。でも、私にも言い訳はある。まだできることを全部やってない、という言い訳が。
通りを渡ってアーケード商店街の中。屋根はずっと高くにあって、雨の音が聞こえなくなる。雑踏の中を歩いて、今日は家族連れが多いことに気付く。週末の日常。ふとムンクの「叫び」を思い出す。おだやかな夕暮れどき。フィヨルドのほとりの橋の上でムンクが聞いたという「自然を貫く叫び」。自分にだけ聞こえた、聞こえてしまったその声をムンクは絵に描いた。私もこの雑踏の中で、自分にしか聞こえない声を聞いてみたい。もしも聞こえてしまったら、私もあんな顔になるのかも? そう考えたら楽しい。そして聞こえたその声を、私は文章にするだろう。
本屋さんを梯子しながら歩く。商店街も端まで来ると人通りは少なくなる。その通りの隅にぽつんとある机。机を覆う白い布には「人相占い」と筆で書かれている。
「なにかご用かな?」
振り向くと、色あせた茶色い作務衣に、いかにもな黒い宗匠帽子をかぶったお爺さんが立っていた。
「あ、ええと、尋ね人です……」
とっさにそんな言葉が口をついて出た。
「うむ、うむ」
いそいそと机の向こう側にまわり椅子に座るお爺さん。取り出したのは黒ぶちの虫眼鏡。顔の前で遠ざけたり近づけたりしながら、私の顔を見る。こちら側から見ると、お爺さんの目が虫眼鏡の向こうで大きくなったり小さくなったりする。
「ううむ……」
「なにか分かりますか……?」
「うむ、ずいぶんつらい目に遭ってきたんじゃなぁ……」
少し怯むけれど思い直す。この世界、つらい目に遭ってない人なんていない。お爺さんはまだ虫眼鏡ごしに私の顔を見ている。そして重々しい調子を作って言った。
「うむ、また会える」
「はい?」
「また会える。その人とあなたの人生はもう一度交わる。だから、無理に会いにいこうとする必要は無い。再びまみえたそのときに、もう一度、あなたの思いの丈を伝えなさい」
口が利けなくなる。完全に油断していた。油断して、誰にも見せてないはずの部分に踏み込まれたと思ってしまった。鼓動を早める心臓を必死でなだめ、私は笑顔をつくる。
「それって……どういう?」
私の動揺を見透かして、お爺さんは満足そうな笑みを浮かべた。
「人生いろいろ。男もいろいろ、女もいろいろ。な? お嬢さん、別嬪さんじゃから、向こうも今ごろ、後悔しとるかもしれんぞ? 待てば海路の日和あり。そういうことじゃな」
内心、ほっと胸をなでおろす。それはそう。見えるはずなんてない。
「そういう……ことですよね。あはは」
失恋して、それでも相手を想い続けているような、そんな女に見えたのか、そして、そんな私への印象から、あんなことを言ったのか。もしそうなら、ちょっと面白い。笑顔の私に、お爺さんは揉み手をする。
「ええ、易料は千円ですぞ」
「なんだか、ただの人生相談みたいになっちゃってましたけど? 人相占いですよね……?」
「いいや、わしの占いはよく当たるんじゃ」
にっとむき出された黄色い歯、かみ合わない会話もなんだか楽しく、私は財布から千円札を抜き出して渡した。
「おありがとう」
時代がかった仰々しさで押し頂いて、深々とお辞儀する。私も手を振ってお別れした。
人ごみにまぎれると自然と早足になる。夜の街の暗がり、人通りの無い場所。袖口で目もとを拭った。もう少しであのお爺さんに泣き顔を見られるところだった。歳をとると、こらえ性がなくなって良くない。
家に帰り着き、自室へと戻る。部屋の電気をつけた。机の上の書き散らされた紙、その上に投げ出された万年筆。紙が一枚、床に落ちていた。拾って読む。
私は考えている。宇宙が一個の点から始まったとするなら、今ここにある世界の全てを論理的に記述できるはず。そして「宇宙」という空間もある時間軸の一点で区切るなら有限。有限なものを記述するのに無限の言葉は必要ない。
もしそうだとしたら、「宇宙」という言葉は「冬谷沙雪」という言葉に置き換えることができる。「冬谷沙雪」という一人の女性の、その全てを文章に落とし込むことができる。そう思って、私は……
私は、それを成し遂げることができる? 思い出すままに書き殴られた思い出、思いつくままに書き付けられた考察。この切れぎれの断片をつなぎ合わせれば、沙雪先輩はもう一度、私と一緒にいてくれる?
先輩、沙雪先輩。先輩はどうして私の先輩になってくれたんですか? 私にさびしい思いをさせるためですか? 会いたいです、また会いたいです。もう一度、どうかもう一度。
手のひらの中に私は世界を創る。沙雪先輩と私の世界。いつか私の書き綴るひとつらなりの文章が「冬谷沙雪」という一人の女性を『完全に再現する』。その日を夢に見ている。
そこは夕暮れ時の部室。沙雪先輩が私に背を向けて立っている。窓の向こうの夕焼け空。何も言えなくて、術なく見守る背中。手を伸ばしても届かない、その人の背中。
時間を止めたあなた。時間の外側にいる私。言葉を、まなざしを、私は何度でも思い描いてあなたと二人きり。この夕焼けの世界で、私はあなたと二人きりになる。




